なぜ伝記本は面白いのか

伝記本のおもしろさ


ボクは伝記が好きだ。伝記の何か好きか。伝記を書くってすごくむずかしいと思う。ある時代のある人物についての事実関係を調べるとともに、その人の考えてきただろうことを掘り下げる必要がある。そのためにはその時代の空気感を知らないとできない。現代のものの考え方から歴史の事実関係を分析すると当然、その時代の人の考えはあぶり出されない。その時代の空気感を知るためには、その人物以外にもその時代の様々なことを知る必要がある。

だからよい伝記本はその人物について書くと言うよりもその時代について詳しい人が一つのモデルとしてその人物を描いて、時代そのものを描き出そうとする。単にその人物の英雄伝ではなく、時代そのものを描くことが重要になる。

たとえば歴史の本では事実関係が示されるだけなのに対して、伝記本ではある人物像を描かなければならないということで、一歩踏み込んだ分析という冒険を行う。その冒険は主観的であるかもしれないが、その時代の空気感が伝わってきて、面白い。その人物の周囲の事実を丹念に積み上げて、その時代の空気を描いていく伝記本が面白い。




最近読んだ西洋の伝記本


ローマ亡き後の地中海世界(上)

ローマ亡き後の地中海世界(上)

広い意味で伝記としての塩野七生は面白い。日本で西洋史の本を読むと、特に日本人の作家であそこまで丁寧に人物が描かれている本は少ない。特にローマ時代は比較的描かれるがローマ時代後は少なくても本書は面白かった。中世が暗黒時代であるのはなぜか。ようするにイスラムの時代だから。




ニュートンと贋金づくり―天才科学者が追った世紀の大犯罪

ニュートンと贋金づくり―天才科学者が追った世紀の大犯罪

あのニュートン造幣局長として贋金作りの犯罪者を追い込んでいく。もはや偉大すぎて記号化されているニュートンがこんなにも人間臭いとか。




メタフィジカル・クラブ――米国100年の精神史

メタフィジカル・クラブ――米国100年の精神史

アメリカ初の哲学思想プラグマティズムがウイリアム・ジェームス、パースなどによって生まれる現場を描いた。まだ強いアメリカになるずっと前の創世記の思想史。




ヴォルテールの世紀 精神の自由への軌跡

ヴォルテールの世紀 精神の自由への軌跡

最近読み始めた。著書よりも啓蒙思想時代を代表するその存在で語られることが多いヴォルテールヴォルテールっていまでいえばビートたけしみたいな人なんだろうか。




最近読んだ日本の伝記本


日本の歴史はテレビや映画などによって様々に描かれて、日本人の中では日本の時代時代の空気がなんとなく理解されている。なかなかそれらを取り払って白紙に時代の空気を感じようとすることは難しい。そんな日本人の常識的歴史観を揺さぶるような本は面白い。


「太平記読み」の時代: 近世政治思想史の構想 (平凡社ライブラリー)

「太平記読み」の時代: 近世政治思想史の構想 (平凡社ライブラリー)

太平記<よみ>の可能性 (講談社学術文庫)

太平記<よみ>の可能性 (講談社学術文庫)

路上の義経

路上の義経

室町時代以降、庶民文化が育っていくわけだが、その頃から今に続く日本人のヒーロー像がある。例えば源義経、楠正成、赤穂浪士など。彼らに共通するのは、知力にたけ実行力があり周りからの信頼が熱い。それ故に忠義のための悲劇的な死をむかえる。日本人はそんな「敗者たち」を愛してきた。

これらのデフォルメされた人物像は平家物語太平記などのその時代の歴史書とは大きくことなり、庶民の中で語られ、芝居などとして描かれることで新たにつくられてきた。これらの本はなかなか正式な記録に残りにくいこのような日本人の心情をあぶり出そうとしている。




逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

これは伝記本ではないが、不思議な日本人を描いた本だ。幕末前後にきた西洋人の書き残したものを丹念に積み上げて、その時代の日本人像を描き出す。現代日本人は幕末前後の日本人をテレビなどで見慣れてだいたいわかっているつもりでいるが、ここで描き出された日本人像は現代の日本人から見ると、どこか懐かしくもありつつ、また不思議な異文化人でもある。それに触れると日本人の一つの原点に触れたようでとても不思議な感じがする。