日本人の覚醒と禅 (2011) 2/2

 1 日本人の原型1 「ただあること」
 2 日本人の原型2 系譜の連続性
 3 西洋人の基点、日本人の基底
 4 禅的転倒と日本人の覚醒
 5 禅的自己産出機械による過剰性の産出
 6 武士道と死のパフォーマンス

                                                                                                                                                              • -

6 武士道と死のパフォーマンス

                                                                                                                                                              • -

武士の三層

鎌倉時代の古い武士道・・・献身としての武士
戦国時代の英雄的武士道・・・パフォーマーとしての武士
江戸時代の儒教的武士道・・・組織の一員としての武士

武士道のあり方にも時代時代に変化がある。このような3つは、武士が経た時代に対応している。鎌倉時代の「献身としての武士」とは、中央集権による暴力の独占が崩れて、地方に分散することで、自衛の必要が生まれる。そして自衛手段として武士が台頭してくる。この時代には、秩序は法でも、経済でもなく、身近な信頼関係である。といっても、信頼関係はとてもあやふやなものでいつ反逆されるかわからない。このために強い信頼が重視された。その究極的が主君のためにただ死ぬことであった。最近ならヤクザの仁侠に近い。国家治安の圏外で生きるヤクザが頼れるのは身近な信頼関係だけである。
その後、武士の世となり、応仁の乱を経て下克上の戦国時代となる。数が力となり、多くの人々を集めて、戦術に長けていることが武士に求められる。この時期に自らの権威を誇示し人々を魅了するために、武士はパフォーマティブへなっていく。戦国武将たちの機能性とはかけ離れた鮮やかに飾られた武具が象徴的である。
江戸時代となり、世が安泰させるために家康が導入したのは儒教である。儒教は大きな組織のもとで忠義によって人々を秩序立てるものである。安定した武家社会の中で、それまでの情動的なもの、パフォーマティブなものを排除し、規範的な武士像が求められた。

                                                                                                                                                              • -

日本人の美学は死ぬことではない

だから「ただあること」の美学は決して「ただ死ぬこと」ではない。しかし武士道は「ただ死ぬこと」を選ぶ。否定において「死」が重要であるのは究極的な否定であるからだ。しかしここにすでにある種のパフォーマンスが介入していないだろうか。庶民に対する武士という新興の支配層としての貴族主義的、権威主義的な気負いのようなものが見え隠れする。
「ただ死ぬこと」はあまりに劇的である。人々を魅了すると言う意味で魅力的である。だから「ただあること」の美学にはたえず死がつきまとうことは事実である。
原初的な日本人の生き方である「ただある」がすべて消失したわけではない。いまも慣習深く根づいているだろうが、文化としては禅的に転倒され、「ただある」ことの美学を目指す運動となった。そしてその究極に「ただ死ぬ」という武士道が生まれるが、それは劇場的で人々の熱狂がともなう。

                                                                                                                                                              • -

なぜ武士は成果より美学を重視するのか

たとえば、どこの国にも日本の武士のような覇権を争う武闘集団はいるが、日本の武士の特徴も「ハイコンテクスト」にある。中国の兵法などの闘いの極意を見ていると、巧妙で勝つことにどん欲だ。人を騙すことも重要な戦術である。しかし武士の争いにおいて、騙し討ちは正義に反する。基本は正々堂々であることが求められる。勝つという結果よりも美学が重視される。
これは騙して勝っても「周り」から笑われるからだ。周りとは同時代の日本人だけではなく、系譜の連続性を基本とした先祖、子孫の日本人である。共同体を重視した「恥」の文化はどの社会にもあるが、特別日本人は恥の美意識にこだわるのは、共同体が系譜的な連続性に支えられたハイコンテクストな社会であるからだ。

多民族間の抗争ならば、「系譜の連続性」だけにこだわっていられない。負ければ、そこで民族が絶滅され系譜が絶たれる可能性がある。それに対して、日本の武士の争いは日本人内のものであって、基本的に系譜が連続することは疑いのないことだ。
だから武士にとって自らの死も終わりではない。系譜の連続性の中の一つの出来事でしかない。極端にいえば(系譜という)演劇の中で死ぬようなものである。一つの重要な見せ場なのだ。観客は同時代の日本人であるとともに、先祖と子孫の日本人である。そこに自らの死を魅せるための美学が生まれる。「武士道といふは死ぬ事と見付けたり。(葉隠れ)」
争いも、系譜の連続性の中の演劇であり、そこに暗黙に美的なルールが生まれる。自らも、相手も、恥をかかしてまで勝負にこだわらない。武士の争いとは死を取り合うゲームとなる。

 武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。つまり生死二つのうち、いずれをとるかといえば、早く死ぬほうをえらぶということにすぎない。これといってめんどうなことはないのだ。腹を据えて、よけいなことは考えず、邁進するだけである。”事を貫徹しないうちに死ねば犬死にだ”などというのは、せいぜい上方ふうの思い上がった打算的武士道といえる。
 とにかく、二者択一を迫ったとき、ぜったいに正しいほうをえらぶということは、たいへんむずかしい。人はだれでも、死ぬよりは生きるほうがよいに決まっている。となれば、多かれすくなかれ、生きるほうに理屈が多くつくことになるのは当然のことだ。生きるほうをえらんだとして、それがもし失敗に終わってなお生きているとすれば、腰抜けとそしられるだけだろう。このへんがむずかしいところだ。
 ところが、死をえらんでさえいれば、事を仕損じて死んだとしても、これは犬死、気ちがいだとそしられようと、恥にはならない。これが、つまり武士道の本質なのだ。とにかく、武士道をきわめるためには、朝夕くりかえし死を覚悟することが必要なのである。つねに死を覚悟しているときは、武士道が自分のものとなり、一生誤りなくご奉公し尽くすことができようというものだ。P105-106 「葉隠」 山本常朝(ISBN:4101050333

                                                                                                                                                              • -