日本人の覚醒と禅 (2011)  1/2

 1 日本人の原型1 「ただあること」
 2 日本人の原型2 系譜の連続性
 3 西洋人の基点、日本人の基底
 4 禅的転倒と日本人の覚醒
 5 禅的自己産出機械による過剰性の産出
 6 武士道と死のパフォーマンス

                                                                                                                                                              • -

1 日本人の原型1 「ただあること」

                                                                                                                                                              • -

草木のように「ただある」という生き方

多民族世界において脅威は他の民族であった。だから武力と共に、交渉の技術を磨き、自らの正当性をしめす論理を形而上学まで拡張して確立しようとした。しかし「隔絶した島」に住む日本人にとって脅威は自然である。自然は他民族のような交渉はできない。その純粋暴力に対してはなすすべがない。
しかしだからといってただ絶望するわけにはいかない。純粋暴力によって無常に破壊されて愚痴っても嘆いても仕方がない。自然の草木が潰されても、潰されても育つように、「ただある」だけだ。それが原初的な日本人の生き方である。
だがこのような自然信仰は世界的にも珍しくない。このような自然信仰は主に自然に生きる未開文化に生まれる。やがて原始的な共同体へ統合される中で、素朴すぎて他民族によって淘汰される。
しかし日本人の自然信仰は「隔絶した島」に住むために他民族に淘汰されなかった。といって未開社会のままで止まったわけではない。大陸から間欠に伝わる世界一流の文化を吸収し重層的に発展させた。その中で「ただある」姿を美意識への洗練させていった。

                                                                                                                                                              • -

2 日本人の原型2 系譜の連続性

                                                                                                                                                              • -

系譜の連続性

ハイコンテクスト社会であることは、日本人を語る上でもっとも重要なポイントだろう。ハイコンテクストとは系譜の連続性が重視されると言うことだ。系譜とは一族の先祖であり子孫であるが、日本人の場合には数代遡ればどこか繋がっているという意味で、系譜の連続性は血が張り巡らされた「日本民族」を意味する。だから個人の行いが自らや仲間だけの問題ではなく、先祖、子孫、そして日本民族へと影響を与えると考える。
 現に日本史の中で恥をかいた者の子孫は、いまもどこか後ろめたい。そんなことが現実に起こっている程、日本人にとって系譜の連続性には力があるハイコンテクストな社会なのだ。

                                                                                                                                                              • -

日本人の安心・信頼を支える天皇という象徴

日本人の系譜の連続性をもっとも象徴する存在が「天皇」だろう。天皇が支配者ではなく象徴という特別な位置であり続けることが可能であるのは、日本人が系譜の連続性が信じている、すなわち先祖であり子孫に恥じないような行為をすることを意識していることを意味する。
日本がいつからハイコンテクスト化したのかは、歴史上天皇がどのように扱われたか見ればわかる。鎌倉時代以降に武士が圧倒的な武力によって権力を握ったときでも、天皇が特別な存在であり続けたことは、すでに日本人がハイコンテクストな社会であったということだ。
いま日本は法治国家であり、法によって社会秩序は維持されていることになっている。しかしそれよりも深く社会秩序の基盤を支えているのは、なんだかんだ言っても日本人であれば一線を越えることがないだろうという暗黙の信頼である。そして暗黙の信頼を支えているのが、いまも日本人にとって天皇は特別な存在であり続けているという事実である。

                                                                                                                                                              • -

3 西洋人の基点、日本人の基底

                                                                                                                                                              • -

西洋人は神に存在の基点を求める

たとえばデカルトが「我思う故に我有り」が叫んだのは、人の懐疑しえる臨界に達し、これ以上懐疑できないためであった。臨界とはその先は神のみぞしるということだ。だからこれは逆に神の存在証明にもなっている。いわば、「我があるから神がある」が、「神があるから我がある」へと転倒される。
民族的な侵略や陶太があり、土着の自然環境から遊離せざるをえなかった西洋人は、自らの存在を証明するための確かな点を超越に求めた。その方法が言語による論理的な思考である。言語論理には限界がある。そこに人が達しえない超越の存在が現れる。より論理的である程、超越の輪郭が1点に鮮明に浮かび上がる。
そしてその基点から我が証明される。「我有り」と言うことで神が現れることが、神があることで我有りが確かであるように転倒される。そして超越としての神という基点から人々がそれぞれつり下がる形で社会の安定はもたらされる。だから西洋人は「我有り」と言い続けなければならない。

                                                                                                                                                              • -

日本人は土着の基底をもつ

日本人は、西洋人がこんなに必死で「我有り」ということが理解できないし、強い超越点への執着も理解できない。むしろ不気味である。なぜなら日本人は、民族的な侵略や陶太を経験せずに土着の自然環境に埋め込まれて生きてきたからだ。
日本では権力闘争があったとしても、食料生産者としての農民はただそこで作物を育ててきただけだ。もっとも大きな脅威は悪天候による飢餓でありつつけた。環境があり、そこで毎日必死で暮らしている。日本人は自然環境と人々との慣習を通して調和されている。まさに土着性の基底があるために西洋人のように超越的な基点(神)は必要とされない。
世界には自然主義な民族はたくさんいるが、島国という環境からこれだけ大きい民族であるにかかわらず、自然環境との調和を重視する自然主義的なものを基本としてきた民族はめずらしいだろう。

                                                                                                                                                              • -

4 禅的転倒と日本人の覚醒

                                                                                                                                                              • -

なぜ日本人は禅的なものを必要としたのか

禅では、世界とありのままに対峙するためには、一度、言語世界を否定することが必要であるという。「我有り」と言い続けなければならない西洋人には禅的なものを理解できないだろう。我無しといってしまっては、存在の基点を失いただ不安がのこるだけだ。
それに対して、日本人はそもそも言語世界以外に自然環境との関係に基底を持っている自然児であり、言語世界の否定は苦にならない。
むしろ自然児の日本人は禅を必要としない。日本人が禅を必要としたのは逆に禅を自然環境からの脱出方法として使ったのだ。環境に埋め込まれすぎて「我有り」言うことが困難であったために、禅を使いまず「我無し」ということで我を覚醒させた。鎌倉時代という武士政権、地方化という日本人の民主化の時代に、禅によって日本人の意識革命が起こった。

                                                                                                                                                              • -

日本人は自ら去勢した?

なぜ西洋人が「(我思う故に)我有り」と直接的であるのに対して、日本人は「我無し故に我有り」とこんな回りくどいことになったのだろう。
たとえばいまも西洋人から言われる日本人のわかりにくさは、「私なんかダメだよと謙遜しつつ我を主張する」ような二面性である。あるいはよく言われる日本人の集団主義傾向。私が!という強い自己主張は嫌われて、我を殺すことで我を主張することが尊ばれる。
精神分析ラカンによると、そもそも欲望とは「〜がほしい」ではなく、禁止(否定)されることで生まれる。否定は、人間が言語を学習することではじめて生まれた。またそこに我(自意識)が生まれ、欲望が生まれる。我とはそもそも否定を契機として生まれる「ないことである」ものである。
では否定されるもっとも一般的な存在は誰か。「他者」である。西洋の精神分析では幼児が大人になるときにそれまでの甘えを社会的に否定されることを「去勢」といい、主体となる(我を見いだす)契機と考える。
人類史的に否定する「他者」とは、他の民族である。同じ民族内の抗争は決して民族を滅ぼすことに到らない。「他者」に否定されることで民族は我に目覚める。西洋などの多民族が近接する文化圏では文化的な「去勢」が起こり、我に目覚めた。
しかし鎌倉時代まで日本人は「他者」に出会わなかった。だから「去勢」されることがなく、我も目覚めない。ただ偶然か鎌倉時代には日本人ははじめて「他者」にであった。蒙古来襲である。それとともに、鎌倉時代に日本人が行った「否定」は、なんと自らで自らを否定し、我を目覚めさせ、洗練させていった。そのための手法として仏教の「無我」思想が用いられた。

 大乗仏教の根本原理を「即非の論理」と呼んでいる・・・例えば、「世界は即ち世界に非ず、是世界なり」、また「微塵は即ち微塵に非ず、是を微塵と名づく」等である。これを一般的な形式に引き直すと、「甲は甲であると言うのは、− 甲は甲でない、故に甲である」という方式になる。・・・肯定が否定で、否定が肯定だということになり、普通の論理ではとうてい承認され得ない非合理であり、常識外れも甚だしいと言わなければならない。それにも拘わらずこの即非の論理が、仏教的思惟の根本なのである。
 仏教では、物の本然、物の真実或いは物の「在りのまま」の存在を「如」或いは「如々」と呼んでいる。即非の論理は、定立(肯定)されている概念をいったん否定し、この否定を経てもう一般肯定に戻ったときに初めて、その概念に対応するところの物が真実にとらえられると言うのである。
 「日本的霊性」 鈴木大拙 (ISBN:4003332318) P257-258

                                                                                                                                                              • -

「ただある」ために「ただ否定する」 禅的転倒

日本人の原初的な「ただある」とは生き方ですらなく「姿」である。ここから武士道へと直結することはできない。日本人の「ただある(生きる)」と武士道の「ただ死ぬ」という美意識には転倒が必要だからだ。
この転倒を起こした一つの契機が禅である。禅においては、「ただある」という生への肯定へ至るために一度自らを否定しなければならない。世俗にまみれた我々が自然になるには一度否定しなければ肯定できな。そしてこの否定の契機が、日本人のただの素朴な生を、「我」を目覚めさせた。「ただある」のではなく、「ただある」姿を一つの理想像として現前化させた。
禅の修行において、「ただあること」へ近接するために行うことは、無心で座禅を組むこと、単調な生活経験を繰り返すこと、或いは無心で念仏を唱えることだろう。「ただあること」の美学は運動であるということだ。「ただある」へ向けてただ祈り、座禅を組み、ただ見いだす。

                                                                                                                                                              • -

5 禅的自己産出機械による過剰性の産出

                                                                                                                                                              • -

ガラパゴス」と高い自己産出能力

日本人についての比喩で「ガラパゴス」は秀逸だと思う。「ガラパゴス」は日本の携帯電話への比喩で「ガラパゴス・ケータイ」として使われた。その意味は、日本のケータイは世界に誇る様々な優秀な技術がつまっているにもかかわらず、ほぼ日本人にしか普及していない。このような現象は家電製品などでも多くあり、グローバル化を見すえることがなく日本人に閉じた商品展開というネガティブな面について自虐的な比喩となっている。
しかしこの裏にはポジティブな意味が読み取れる。「ガラパゴス」は進化の比喩である。日本というこの島国で、日本人は多くの試行錯誤を繰り返し、独自の進歩をするだけの力があるということだ。
進歩は自己産出(オートポイエーシス)的である。最初に大きな設計図があり、達成するのではなく、小さな試行錯誤の繰り返しによって、長期的に進歩している。すなわち日本人は自己産出運動を促進する高い能力を持っているということだ。

                                                                                                                                                              • -

経験論的調和性と超越論的調和性

日本人の自己産出能力が高い理由のひとつが、日本人がハイコンテクスト社会であることがあげられるだろう。日本人は調和性が高いことで情報が速やかに伝達されてすぐに隣をまねることで、活発な試行錯誤の運動が生まれる。
このような調和性の高さを生んでいるのには、経験論的な面と超越論的な面をあげることができる。たとえば日本語はボク、私、オレ、わたくしなどコンテクストにそった多様な表現があるハイコンテクストな言語であると言われる。そのために表現が多様で世界の言語の中でも難解な一つと言われる。会話は頭で考えてするものではなく、反射運動によって行われる。このためにこのような難解な言語を巧みに使うためには反復した訓練・習得によって慣習を体に刻み込む必要がある。このような身体的な他者との高い同期性が経験論的な調和性である。
また身体動作な同期に際して「日本人同士なら分かり合えるだろう」という暗黙の信頼が生まれている。このような信頼が法を越えた日本人の社会秩序を支えている。そこに「(単一民族)日本人」という信仰がある。日本人なるものは厳密にはどこにも存在しないが、日本人があるように振る舞うことで存在している。これが超越論的な調和性である。

                                                                                                                                                              • -

自然の破壊と人的な破壊

このような経験論的、超越論的な調和性の高さが、自己産出運動を促進している。しかし単に同期性の高さだけでは、自己産出は生まれない。自己産出とは反復が少しずつずれていくことによって、成長する。だから次への創造のための破壊することが必要だ。
破壊の契機としては、自然環境からの淘汰圧と、人的な破壊・創造活動があげられるだろう。日本では自然変化、災害により、飢饉などが頻繁に起こり、自然が圧倒的な力で定期的に壊滅的は破壊をもたらしてきた。そして日本人はそのたびに立ち上がり、改善を試みてきた。日本人の調和性の高い文化はこのような危機に対して、協力して立ち向かってきたことで育まれたとも言えるだろう。
もう一つは人的な破壊・創造活動である。同期性の高さの大きな問題として閉塞しやすいことがあげられる。このために日本人は外来文化を寛容に受け入れてきた。外来文化は自文化を侵略するものとして脅威であるが、日本人は柔軟に取り入れる。この日本人の寛容さは「隔絶して島国」であるために決定的な侵略を経験せず、侵略への警戒心が低いということがあげられる。
閉塞を打破するためにカンフル剤として、太古から他文化を自ら引き入れてきた。特に若い世代は古い世代の文化に閉塞を感じて変革するために外来文化へかぶれる傾向がある。豊かになるに従い、自然環境からの淘汰圧は減り、破壊は人的な外国文化を取り入れが重視されてきた。

                                                                                                                                                              • -

禅的なものの導入

ボクは外来文化の中でも、禅宗の影響を重視したい。禅といえば「ジャパニズム」の代表になっている。日本人も自ら禅にふれるよりも、西洋からの禅的な日本人像を通して、禅を知るためにあまり身近な感じがしない。
しかし「禅的なもの」はもっと深く、現代の日本人に浸透しているように思う。鎌倉時代に禅が到来し広まったのは武士層であろう。そして新興の支配層として主体性を見いだすために武士は禅と取り入れ、「武士道」へと洗練させた。
武士の時代が終わり明治時代になって近代化を進めたのはかつての武士層であり、富国強兵のために「日本人」がつくりかえるときに重視されたのが武士道である。そして日本人の総武士化は戦後までつづく。では戦後日本人は武士道的なもの、禅的なものから変革したのか。たしかに変革しただろうが、また基底において継続もしているだろう。
禅的なものの本質は、武士道に特徴な刹那主義的でも、茶道に特徴のワビサビのような、狭いことを意味するのではない。たとえば先に示した人的な破壊・創造において、禅的なものは決定的な影響を与えた。

                                                                                                                                                              • -

第三の破壊方式 禅的なもの

禅が他の宗教と違うのは新たな教えを教えるよりも、様々な教えを解体して、「ただある」自然主義的な原風景へ純化することを目指すことである。それは日本人が土着的にもつ「ただあること」という原風景と通じる。
禅的なものとは簡単に言えば、「世界はない故に世界はある」という肯定のための否定である。これはまさに破壊と創造である。それも絶対的な否定から絶対的な肯定という究極的なものである。
禅的なものによって、日本人は自然環境からの淘汰圧と、外来文化の取り入れにつぐ、第三の破壊・創造の形式を学んだといえる。それは外部からの影響に寄らずに閉塞する内部で自己産出するする方法である。

                                                                                                                                                              • -

日本人の「自己産出機械」

自己産出運動の破壊の契機が自然であれば、人は自ずと新たな創造を強いられる。しかし豊かになり自然による破壊から離れる程、人的な破壊が必要になる。それが一つは他文化の寛容な取り入れであった。侵略とは外圧であるが、取り入れは内的な運動である。だからそこにまず取り入れたいという欲求がなければならない。
その大きな契機が禅の導入である。禅において日本人はそれまでの素朴な「ただあること」という日本人の姿が超越的な美学へと転倒される。「ただあること」の美学という運動を生み出す。それはまた「我無し故に我有り」という我への目覚めでもある。このときに日本人の「自己産出機械」が真に動き出したいといえる。
日本人の自己産出運動がいつも過剰であるのはこのためである。たとえば日本人的なスノビズムといわれるものは、禅が導入後の武士道、茶道などで顕著である。スノビズムとは目的があって運動があるのではなく、運動があって事後的に目的が現れる。美的な否定、「死ぬことで生きる」、「ないことでただある」によって目的が現れる。

                                                                                                                                                              • -

「生き生きしたもの」、「ガラパゴス」、「萌え」

ガラパゴス」と揶揄されようとただ日本人の自己産出機械は変わらずただ動き続ける。たとえば「ガラパゴス」という自虐発言もまた次の運動への否定である。なんのためにではなくただ動くのだ。逆に「ただあること」の原風景は美学として産出される。もはや「ただあること」を目指して作動するのではなく、作動そのものが「ただあること」の美学を生み出している。
このように転倒された「ただあること」の美学とは、「生き生きしたもの」と言ってもいいだろう。武士道の死とは日常を究極的に生き生きさせる、茶道などのワビサビは何げない日常を切り取り、生き生きしたものへ変える。再度言えば先にあるのは自己産出機械の運動である。「生き生きしたもの」は事後的でしかない。
それはいまも変わらない。いまの日本人も変わらず「生き生きしたもの」を求めている。それは全国民を巻きこんで、自己産出機械の作動はいままで以上に活発で、過剰で、そして転倒している(倒錯的である)。最近の「生き生きしたもの」の一番の成功例は「萌え」である。「幼児は最も性的ではない故にもっとも性的である」。世界に誇れる新たな日本文化と言われる程に「萌え」の周りで自己産出機械が活発に作動し続けている。正確には自己産出機械の作動が「萌え」を生み出している。

日本人の自己算出による過剰性の系譜
鎌倉時代・・・禅 
室町〜江戸時代・・・武士道、ワビサビ
明治〜戦後・・・大和魂
戦後〜昭和・・・仕事人間、全共闘ets
平成・・・萌え、ガラパゴス

                                                                                                                                                              • -

2/2へ http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20150914#p1