なぜ日本人は弥生時代から技術イノベーションが大好きなのか

pikarrr2015-11-22

倭人とはだれか

日本書紀 全訳 上巻 宮澤豊穂 ASIN:B00L21S698


巻第九 気長足姫尊 神功皇后


十月三日に、和珥津(対馬市上対馬町鰐浦 )から出発された。その時、風神は風を起こし、海神は波を挙げ、海中の大魚はすべて浮かんで御船を進めた。大風は順風に吹き、帆船は波に乗り、梶や楫を労せず、たちまち新羅に到着した。その時、御船を進めてきた潮流が、遠く新羅国の中にまで達した。これによって、天神地祇がことごとくお助け下さったのだということがわかる。

新羅王は、恐れ身ぶるいし、なす術がなかった。いたたまれず諸臣を集めて、 「新羅が建国以来、いまだかつて海水が国にまで遡ってきたということは、聞いたことがない。よもや天運が尽き、国が海になってしまうのだろうか 。 」と言った。この言葉がまだ終わらないうちに、船団は海に満ち、軍旗は日に輝いた。鼓笛の音が響き、山川がことごとく振動した。新羅王はこれを遥かに望み、常識では考えられない軍勢が、まさに自分の国を滅ぼそうとしていると思い、気を失ってしまった。

やがて正気に戻り、「私は、東方に日本という神国があり、そこには天皇という聖王がいるということを聞いている。これらの軍勢は、きっとその国の神兵だろう。どうして兵を挙げて、防ぐことができるだろうか。」と言った。

観念して白旗を挙げ、自ら降服の意を示した。さらに、白い綬で自ら後ろ手に縛り、地図と戸籍とを封印して、御船の前に降った。そして、頭を地につけて、「今後は、天地とともに長く天皇服従し、飼部となりましょう。つきましては、船舵を乾かさずに、始終貢船を海に浮かべて、春秋に馬の毛を刷る櫛と馬の鞭とを献上いたしましょう。また、海の遠いことも厭わずに、年ごとに男女の調を奉りましょう。」と奏上した 。その上重ねて誓いを立て、 「東から出る日が、西から出ることのない限り、阿利奈礼河が逆さまに流れ、川の石が天に昇って星となるような時は別として、ことに春秋の朝貢を欠き、怠って馬の櫛と鞭の貢物を廃するようなことがあれば、天神地祇よ 、罰を与え給え。 」と申し上げた 。

この時ある人が、「新羅王を誅殺いたしましょうか。」と言った。皇后はすかさず、「初め神のお教えを承り、今まさに金銀の国を授かろうとしている。また全軍に号令した時に、『自ら降服してきた者を殺してはならぬ。』と言った。今すでに財宝の国を得ることができた。また人々は自ずから降服した。殺すことはよろしくない。」と仰せられた。そして新羅王の縛を解き、飼部とされた。このようにして、ついにその国に入り、重要な宝の府庫を封印し、地図・戸籍と文書を収められた。そして、皇后がお持ちの矛を新羅王の門に立て、後世への印とされた。その矛は、今なお新羅王の門に立っている 。

古代朝鮮 井上秀雄 講談社学術文庫 ASIN:B016O8V2R6


遼東郡の支配に尽力した後漢では、朝鮮北部の事情についてさえほとんど関心を示していない。まして、朝鮮南部ないしは日本列島への関心はほとんどなかったといってよい。それゆえ、韓・倭の記事は朝貢記事か来襲記事に限られ、それぞれ二度しかあらわれていない。倭は日本のことだけを指すと考えてきた平安時代以来の考え方は史料にあわない。中国で倭ということも時代によって変化している。前漢時代では北方、現在の内蒙古地方の倭と朝鮮南部の倭とがあったとみられる。後漢時代の倭は北方、朝鮮南部のほかに南方の倭もある。魏・晋時代でも朝鮮南部の倭は日本列島の倭人より中国人にとって確実な存在であった。〔参照〕拙著『任那日本府と倭』東出版、一九七三年。

ところで高句麗と対立した倭とは日本のことであり、大和朝廷のことを指すといわれている。さきに中国で用いられた倭の用法にふれたが、倭は日本だけでなく、後漢時代には内蒙古方面や南方の異種族をもさしており、朝鮮南部にも倭人がいたと考えている。三世紀でも、中国の知識人は倭人の確実な居住地は朝鮮南部だと考えており、『魏志倭人伝は珍しい記事として、当時の人たちの好奇心をそそったにすぎない。

倭が日本列島のみをさすようになるのは五世紀以後のことで、倭国は北九州狗奴国(福岡市地方)を指していたようである。厳密にいえば、中国では大和朝廷を、?倭?と呼ばず?日本?と呼んでいる。このように新羅で使用された倭は、三世紀以前、中国で用いられた朝鮮南部の倭をさしている。すくなくとも七世紀の中頃までは倭を新羅の地続きの任那地方と考えていた。

倭を日本のみのことであり、大和朝廷のことであると考えてきた今までの研究者は、広開土王陵碑文にでてくる倭や『三国史記』・『三国遺事』にみえる倭をことごとく日本のことと決めている。しかもその記事の内容が倭を日本のこととすることができない場合、任那日本府という出先機関があったのだと説明してきた。倭が高句麗広開土王の五万の大軍と数度にわたって戦い、五世紀だけで十七回も新羅と戦わなければならない理由や、海流の激しい朝鮮海峡を大軍を渡航させる方法などが、当時の北九州の倭国大和朝廷にあったのであろうか。任那日本府という、史料にもない幻の日本府を造作するのではなく、まず、それぞれの史料に即して新羅人が用いた倭(任那地方の別名)を再検討するとともに、古代の日本史 ・朝鮮史の再構成をはからなければならない 。

「古代朝鮮」井上秀雄は、大胆で倭人は日本人だけでなく、朝鮮半島の最南端にいた人たちもそう呼ばれた。あの時代にいきなり日本人が活躍する力はない。また日本書紀の元になった百済記は、百済の聖王が日本人に媚びて書いただけだ、とかなり過激だ。まあ40年前の本だが、この当たりの学説はいまだに混乱しているんだろう。日本に劣らず韓国もナショナリズムが強いから、冷静な考古学は難しいんだろう。

でも井上がいうことにも一理あると思う。神功皇后倭の五王白村江の戦いと、朝鮮半島での倭人の活躍は面白いんだけど、やはり唐突感はある。例えば、卑弥呼の時代、2、3世紀あたりは中国は三国時代で、春秋戦国、秦、漢を経ている。中原との距離はそう離れていないが、日本は弥生時代で文化差は大きい。その差が埋まってくるのが、7世紀の奈良時代以降だ。5百年以上の隔たりがある。

この中原と日本列島の間を埋めるのが、東夷から朝鮮半島だろうが、朝鮮半島は漢代には郡県制で組み込まれ、その前後も中国との戦いの歴史があり、すでに文明の波平に飲み込まれている。これらは主には半島の北部で、特に南端は小さな部族が集まってごちゃごちゃしていた。そしてそのごちゃごちゃの先にあるのが九州だ。ナショナリズムを考えなければ、この時代に九州と朝鮮半島の間に線を引く必要がない。朝鮮半島南端の倭人と九州北端の倭人は一体と考えればよい。むしろ九州と大和に線を引くぐらいで。現に弥生文化を伝えたのは、縄文人とは違う渡来人なわけで、そこからつながってる。すると話としてはすんなりいく。




朝鮮半島南部と九州北部に住む人たち


いまのところボクが考える日本人の流れは、日本語という独自の連続性から考えて、島国カプセルに連続性はあると思う。最初は、氷河期で陸続きだった頃に来たとしても、そのあとは入れかわり立ち替わり、新たな文化を持って流れてきている。

縄文時代は東日本中心に人が住んでいた。人口の9割が東日本にいた。その理由はサケマス、木の実など、豊かな食料が確保できたことで1万年に渡る持続社会を可能にした。それが変化していくのは、西日本に農耕が伝わり始める。縄文人末期に、焼畑農業を持ってやってきた南方系、水田稲作を持ってきた朝鮮系。

おそらく彼らは朝鮮半島南端にも住んでいて、すでに縄文系と交易があり、部族のいざこざで流れてきた、あるいは単に徐々に移って、朝鮮半島南部と九州北部をすみかとする。だからその後、倭人は特に中原が混沌とする隋唐前とか、朝鮮半島がごたごたすると政治に関与し、時に武力協力し、朝鮮半島での政治的発言力も増していく。




水田稲作イノベーションの維新


これら農耕はもともと数千前から中国南部で改良されてきたと言われる。日本では渡来人によって、水田稲作として完成された形で一気にもたらされた。それは単なる農耕技術だけでなく、一つの文化としてやってきた。青銅器、鉄器、文字、宗教などなどの文化クラスターとして。そして弥生人が九州に渡来してから1世紀足らずで、西日本に水田稲作技術が根づく。それは征服でなく、縄文文化を残しつつの、技術革新。日本人は吸収が早いよなあ。なんか明治維新を見てるようだなあ。

実はもっと前に水田稲作は日本にやってきていたが広まらなかったという話もある。縄文末期から朝鮮半島南端と九州は交流があったと考えればありえる。日本列島の多くが東北にいて、安定した生活を送っており、また西日本では焼畑農業が広まっていたので、特に水田稲作を必要としなかったのかもしれない。それが気候の寒冷化によるのか、あるいは現代のイノベーションで言われるようにあるパイを越えたときに爆発的に広がるという法則か、一気に西日本中に広がった。




倭人は思想よりも技術を好む


なんにしろ、渡来人は、中原からの敗戦者ではない。なぜなら稲作や青銅の技術は持っていたが、儒教などの思想は持ち込まなかったから、むしろ道教に近い土着、呪術系の文化を持っていた。それもあって、日本にやってきても征服的ではなく、すでにいた縄文系焼畑農業人と、なじみ、技術を伝授した。日本語というのはなぞの言葉で、そのルールが不明で、日本の中で育ってきたとしか言えない。稲作が伝わって世界が変わろうが、日本語は維持される。

そして文字を持たず漢字の普及が聖徳太子の少し前までなかったというのは重要だと思う。弥生文化は紀元前三百年、後漢は零年代頃、三国時代は二百年代。日本で漢字がオフィシャルになるのは五百年代。弥生文化の到来、中国訪問など、文字は使える人はいたはずだが、大々的に活用しなかった。日本語による口頭伝承で文化が維持された。

ようするに漢字は対していらなかったということだ。中国との直接的な関係はそんなに重要じゃなかった。朝鮮との関係があれば、いろいろものが入ってくる。儒教など漢字による思想的なもの、知識は重要でない。なんか近代化において、資本主義的技術にはどん欲だが、民主主義的イデオロギーに興味がない近代日本人みたいだ。

古代朝鮮 井上秀雄 講談社学術文庫 ASIN:B016O8V2R6


鉄器の使用は西北朝鮮で前四〜前三世紀ともいわれ、北中国の燕の明刀銭の分布から第二次青銅器文化と鉄器文化の伝来経路は、遼東半島から鴨緑江中流をへて大同江上流にはいり、平壌地方に定着したと推測される。・・・この時期になると中国文化の影響が顕著にみられ、北方文化の影響が後退する。

・・・この銅剣の分布と変形の過程でわかるように、当時、東夷といわれた東アジアの諸民族は、中国からの亡命者が伝えた中国文化を、その地方の住民が作りやすく、かつ使いやすいように変形し、ときにはその用途までも変えながら、より遠隔の地に伝えてゆく。中国人の立場からいえば、自分たちの文化を消化しきれず、粗悪・低級な文化に堕落させたと極論するかもしれないが、それぞれの地域で新たな文化を自分たちの社会の要求に応じて変形したもので、むしろ自主的に新文化を消化したと考えてよい。

・・・中国の青銅器や鉄器文化の一部分が伝えられても、すぐ中国式の生活様式にはなれない。まして気候・風土の相違があり、社会的な要求も当然異なっていたので、新しくもたらされた文化を自分たちの生活にあうように利用したのであるから、自主的な文化の受容とみるのが正しい。




九州から大和に政権が移った意味


で、日本書紀では九州にいた神武天皇が大和までいき日本を統一するわけだが、これは、旧焼畑農業から新水田稲作へのメタファーにもなってるようだ。あの時代は明らかに九州地域の方が力があった。だから九州勢力が西日本を席巻する。大和にあった権力を駆逐する。いざ大和に居座ると、逆に九州より大和地区が日本の中心で地の利もよく発展して、崇神天皇以降は、逆に大和から九州へと向かい、従えていくみたいなことだろう。

九州地区の強みは、朝鮮半島南部とのつながりだか、日本は日本で稲作で豊かになり、特に大和に権力が移ってからはかつてほどのつながりが薄れていく。逆に大和地方が中央となり朝鮮半島と距離をおいたことに意味があるのかもしれない。朝鮮半島でも、新羅百済など国家化が進み、いままでの朝鮮半島との同士的なつきあいより、国家間の経済効果をもとめた交流に移っていく。交易、特に日本は鉄原料を求めた。また中国からの新たな文化。青銅器、鉄器など。そして儒教、仏教などの新たな知識を求めた。

そして朝鮮半島は隋唐の圧力が増してきて、らに白村江の敗戦で、はじめて中国の恐怖を肌で感じて、対唐のための日本国内強化政策に向かう。ここである意味で、日本と朝鮮半島は分断され、直接、中国との交流が重視されていく。ここではじめて漢字も必要になってくる。いままでの慣習的な技術伝承だけではなく、中国の思想、知識を求めるようになる。その中心が仏教であるが、果たしてそれは思想だったのか。またまだ日本人は技術として仏教を活用する・・・



人口から読む日本の歴史 鬼頭宏 講談社学術文庫 ASIN:B016O8V0HS


縄文時代の相当早い時期から身近に各種植物の管理、品種の選択による栽培が行なわれていたことが、遺物によっても実証されている。さらに縄文後・晩期には、雑穀とサトイモ、ヤマイモの栽培を中心とする焼畑農耕が西日本に広く分布しており、「稲作以前」の農耕文化が形成されていたと考えられている。また最近の考古学的調査は、日本列島におけるイネ栽培の始まった年代を、年々早めるような証拠を発見している。最古の稲作・畑作は、四千五百年前の縄文中期にまでさかのぼるとみられている。

それでもなお、大部分の縄文人にとって、生活の基本が狩猟・採集経済にあって、農耕は補助的な手段でしかなかったとみてさしつかえない。したがって弥生時代以降の急速な人口増加が、大陸から渡来した人々によって招来されたイネの栽培に負っていることは明らかである。その受容にあたって、異質の文化的伝統を持つとはいえ、農耕がすでに展開していたことの意味は大きかった。もしそれがなかったら水田稲作の普及はもっと遅れたかもしれない。北九州に成立した弥生文化は、紀元前一〇〇年頃までには西日本一帯をおおい、一世紀には東北南部、そして三世紀には北海道を除く日本列島のほぼ全域に拡がった。稲作農耕もそれとともに普及定着して、ここに稲作農耕社会が成立した 。

骨が語る日本人の歴史 片山一道 ちくま新書 ASIN:B00OKC21ZQ


実は「渡来系か縄文系か 」の二分論で議論できるほどに事は単純ではなかったようなのだ。ひとつは「渡来系弥生人」なる人々の分布。どうも、ある地域に集中しており、そこでも、どの時期にも渡来人ばかり、ということではなかったようなのだ 。ひとつは 「伝来文化と渡来人の共時性」。そもそも、渡来人が多く来て、彼らが新しい文化と生活様式を伝播したから、日本列島全体の人々も生活様式も変わっていったのだとする図式は、どうやら無理筋かもしれない 。

縄文時代は一万年の長きにわたったにもかかわらず、だいたいのところ、縄文人骨の顔立ちや体形は一定しており、あまりに大きな時期差や地域差は認められない。しかるに弥生時代は七〇〇年ほどと短いが、その遺跡で出る人骨は、けっこう多様であり、地域差や時期差が無視できない。

それとまた、もうひとつ見逃せないポイントは、「弥生人」のタイプにも地域偏在性が認められること。北部九州や西部中国で出土するのは、おおむね渡来系「弥生人」骨に区分される。つまり弥生時代人骨は、そもそも渡来系「弥生人」が集中した地域で集中して発掘されているわけだ。かくして、「弥生人」すなわち渡来系「弥生人」の図式が描かれかねない。大きな落とし穴と言えよう。実際、北部九州とともに、弥生時代の重心があったと想定される近畿地方の状況は複雑きわまりない。渡来系「弥生人」とされる人骨も見つかるが、むしろ、それ以上の割合で縄文系「弥生人」の人骨が混在して見つかる 。どうも一筋縄ではいきそうにないのだ 。

そんな海峡地帯を越えて、弥生時代から古墳時代の始めにかけて、100万人以上もの人間が大陸側から渡来してきたのではないか、と試算したのが埴原和郎(東京大学)であるが(1987)。だが、そんな大規模な渡来人がいたという仮説には、易々と乗れない。なぜなら、あとでも触れるだろうが、弥生時代の渡来人の分布が北部九州や中国地方に限定され、せいぜい西日本に及ぶ程度だったからだ。それに弥生時代の日本列島の人口は、たかだか100万人規模でしかなかったと推定されているからだ。いくらなんでも、一桁多いのではないか、と懐疑する。いくら弥生時代になり、大陸側で人々がうごめき、航海技術が発達、渡海のノウハウが向上したといっても、まるでウンカが海を渡るがごとく海峡地帯を人々が渡ってきたとは、とても想定できそうにない。


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