中村元選集15巻  原始仏教の思想1 ISBN:4393312155

pikarrr2015-12-26

衆生(しゅじょう)・・・ 生きとし生けるもの
生存領域・・・生きとし生けるものの輪廻する範囲 天上、人間、餓鬼、畜生、地獄


※仏教は、老いと死を怖がりすぎ問題
古代日本に大きく影響した。むしろ現代人の方が、死んだらそれまでと、開き直ってる?




苦しみとは、自由ならざる境地、存在そのもの
妄執(もうしゅう)・・・欲望、貪欲
五蘊(ごうん)・・・五つの執著(しゅうじゃく)。物質的なかたち、感受作用、表象作用、形成作用、識別作用
煩悩・・・貪欲、嫌悪(憎しみ)、迷妄


 身体は無常。死、老い、殺、病に冒される。
 身体に対する執著を捨てよ
 身体は不浄であると観ぜよ
 心を浄める


※仏教は、人間の存在論へ至るために、無常、苦を強調する。


無常を観ずる救い

 観ずる
 1 心に思い浮かべて静かに観察する。「改めて世界の情勢を―・ずるに」
 2 思いめぐらして物の真理・本質を悟る。観念する。「人生を無常と―・ずる」

「ことばで表現されるものを[真実であると]考えているだけの人々は、ことばで表現されるものの[領域の]うちに安住し[執著し]ている。これらは、ことばで表現されるもの[の本質]を知らないから、死にとりつかれてしまうのである。」サンユッタ・ニカーヤ




無常
物は因縁によって作り出された諸要素の集合体にほかならない。




無我論
 我執を排斥。我がもの(所有、名称、形態)と見なすな。 身体への愛欲を断ずる
自己の孤独性を実現することによって、自我の束縛を脱する。修行者は禅定に入って心を静めることが重要。自己に克つ。自己をととのえる。

「悪い行いをする人にとっては、世間の秘密の場所というものは存在しない。人よ。真実であるか虚偽であるかを、汝のアートマンが知っているのだ。証人よ。じつに貴いアートマンは汝を軽視している。自己のうちに悪があるのに自分のために隠そうとしない汝は。」アングッタラ・ニカーヤ

現実的日常的な自己が、理想的規範的自己に転ずること。
どこまでも個人的自己、他人の救済の力にたよろうとしてはならぬ。解脱は他人よっては得られない


ここまではウパニシャッドと近い。


原始仏教の特徴
 自己(アートマン)がいかなるものか、形而上学的な説明を与えない。常恒不変な実体として存在する我を排斥する。「われあり」という思いが根底に潜んでいる。それがなくなれば、煩悩に患わされることもない。


※仏教の基本は反語にあり。「われあり、しかしわれなし。」
 無常という否定。
 反語という、究極の修辞(レトリック)

「師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、ある>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、つねに心して学べ。内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。これ(慢心)によって「自分は勝れている」と思ってはならない。「自分は劣っている」とか、また「自分は悲しい」とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずに折れ。修行者は心のうちが平安なれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安になった人には取り上げるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。」スッタニパータ

新たな執著。アートマン論への執著、空を観ずる

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観察せよ。そうすれば死をのり超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を<死の王>は見ることできない。」スッタニパータ

諸法無我 一切諸法は、アートマンを有しない


無我論の段階
 理性論 理性的な自我を目指せ。←バラモン教
 形而上学の否定 我を形而上学的に明確にして語らない。答えがでない問いで無意味。→それが欲である。
 無我論(空論) 我があると固執するな。変わり続ける。




永遠の理法(ダルマ)
 法に帰依すること
 生存領域の理法 神さえも理法に従う
 妙法 正しい理法
 ブッダは理法をさとってそれを説く


無我論の段階
 1)理性論 理性的な自我を目指せ。←バラモン教
 形而上学の否定 我を形而上学的に明確にして語らない。答えがでない問いで無意味。→それが欲である。
 2)無我論 アートマンが存在しないと主張したのではない。ただ客体的実体的あるいは機能的なアートマン観に反 対したのである。アートマンは存在するか、あるいは存在しないか、という問題に関しては、沈黙を守る。
 3)無我論 アートマンは存在しない。我があると固執するな。変わり続ける。空論。


無我論の難題
 個人の行為の責任の帰属はいかに解するべきか
 因果応報説との関係、業(カルマ)
 因果応報説は「来世を信じない人は、悪を行う」から、方便として教え。
 識説 識別作用が人間存在の根本的主宰的原理、輪廻の主体




慈悲
 我執を離れる、他人との対立・争闘を離れること、おのずから他人に対するあたたかい共感の心情となる
 慈悲を心に思うことによって心が落ち着き平静になる、
 慈悲は生きとし生けるもの
 四梵住・・・清らかな安住の境地  慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)、喜(よろこび)、捨(心の平静)
 足ることを知る


人は自己を愛しているし、愛さなければならない。同様に他の人々にもそれぞれ自己は愛しい。ゆえに自己を愛する者は他人を害してはならない。
 自己を愛する人は他人を愛する人
 仏教特有の考え。


 恋愛は裏切られると憎しみに変わる。
 慈愛は裏切られても憎しみに変わらない。求めることのない愛。
 子に対する親の愛が典型的。




輪廻転生
古来かのインド人の死生観 輪廻、業、応報


ウパニシャッド
人生の真実をさとった聖者は生死を超越、輪廻を超越
身体が消滅、身体にもとづく精神作用を鎮静
 世界をさって非世界へ


ヴェーダ宗教、初期の仏教
 目的は安穏、苦しみの消滅、すべての束縛の消滅、安楽をもたらすもの
 最小のやすらぎ(寂静)
 安楽

「わたしには死の恐怖は存在しない。また生への愛著も存在しない。しっかり気をつけて、落ち着いている。わたしは身体を捨てるであろう。」


「つくられたものはじつに無常であり、生じては滅びるきまりのものである。生じては滅びる。これら(つくられたもの)のやすらぎが安楽である。」


「色はにほへど散りぬるを、わが世たれぞ常ならむ、有為の奥山けふ越えて、浅き夢見じ酔(ゑ)ひもせず」

死を見つめることのうちに<生きる>ことを教える。