慈悲2.0の見取り図

pikarrr2016-01-17

ウィトゲンシュタインが論理の限界を規定した現代、様々な言葉はぞれぞれの信念を勝手気ままに語ることでしかなくなってしまった。またフーコーは現代の自由主義経済は、もはや信念を語ることなく、言葉の向こうへ暗黙に権力を行使する生権力の時代になったという。

その中で、日本人は古来より、仏教から受けた慈悲という言語の向こうへアプローチして善と平安に至る優れた実践を行ってきた。それは現代の日本人の自由主義にも受け継がれて、単なる効率追求ではない社会を生み出してきた。いまこそ日本人の中にある慈悲を見つめ直し世界に発信していく。そしてピケティの暗雲の21世紀を超えていく。

1)論理の限界  ウィトゲンシュタイン
          論理
論理の限界−−−−−−−−−−  ←目標 論理による限界を示す=倫理
         形而上学      ←好き勝手な言葉でしかない。
          行為       ←「私は当にそのように行為するのである」

2)生権力 フーコー
       言語(形而上学
言語の限界−−−−−−−−−−−−−−
       行為(統治技術)      ←生権力。現代、真に権力が働くのは言葉ではなく暗黙に行為を誘導すること。

3)慈悲  大乗仏教

          言葉       ← 一切皆苦。言葉(我)に囚われるところに苦あり。
        (形而上学)     ←形而上学を語ることの禁止。なんとでも言える。
言葉の限界−−−−−−−−−−−− 
          行為
         無我=空     ←目標 慈悲の実践によって言語の向こうの無我=空(人々の平安)に到達することを目指す。



日本においては、例えば徳川時代の中期以降における近江商人の活発な商品活動には、浄土真宗の信仰がその基底に存するという事実が、最近の実証研究によって明らかにされている。ところで近江商人のうち成功した人々の遺訓についてみるに、かれらは利益を求める念を離れて、朝早くから夜遅くまで刻苦精励して商業に専念したのであるが、内心には慈悲の精神を保っていた。実際問題としては利益を追求しなかったわけではないはずであるが、かれらの主観的意識の表面においては慈悲行をめざしていたのである。その一人である中村治兵衛の家訓によると、「信心慈悲を忘れず心を常に快くすべし」という。これは当時浄土真宗における世の中の商人に対し仏の慈悲を喜ぶことを教えていたことに対応するのである。P244

慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220

江戸時代中期、全国的規模で広汎にビジネス活動を行い、時には海外へも進出していた「近江商人」。現在もトヨタ、丸紅、伊藤忠高島屋日本生命、ワコールなど、近江商人に起源をもつ老舗企業は数多く存在しています。 明治維新をはじめ、数多くの激動期を乗り越えてきた「近江商人」の経営手法には、現在に生きる私たちに、少なからぬ「知恵」を授けてくれます。何の資源を持たなかった日本が、ここまでの発展を遂げることができたのは、何よりも「ヒト」という資源の力にあるのではないかと思います。それも誰もが知っている有名人ではなく、目立つこともなく、ただひたむきに努力を重ねた無名の人々による努力の結晶にあるといえるでしょう。このような人々を輩出したそのシステムにこそ、日本の発展の原動力があったといって過言ではないと思います。そして、この日本における人的資源のマネジメントのルーツといえるものは、いまから300年以上も前の時代に誕生した「近江商人」の経営手法の中にあるのです。

http://www.neo-knowledge.com/column/omisyonin01.html

「哲学的探求」 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン ISBN:4782801076

私が「規則に従う」と呼ぶものは、ただ一人の人がその人生に於いてただ1回だけでも行う事が出来る何かであり得るだろうか?[答えは否である。]・・・規則に従うと言う事・・・は慣習([恒常的]使用、制度)である。規則の表現−たとえば、道しるべ−は、私の行為と如何に関わっているのか、両者の間には如何なる結合が存在するのか?・・・私はこの記号に対して一定の反応をするように訓練されている、そして、私は今そのように反応するのである。(198)

したがって「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践である。そして、規則に従うと信じる事は、規則に従う事ではない。・・・或る規則に従う、という事は、或る命令に従う、という事に似ている。人は命令に従うように、訓練され、その結果命令に或る一定の仕方で反応するようになるのである。(202)

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(217)


参考
 ■日本人の慈悲エコノミー論  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20160108#p1
 ■日本人の慈しみのかたち  三輪清浄  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20160115#p1

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