日本人の慈しみのかたち 三輪清浄
1
仏の慈悲はなぜ受けた者に負債を与えないのか。
受けた者は仏を慈しみ、深く感謝する。
そしてそれが自分だけに与えられたものでない、
生きとし生けるものへの慈悲であることを知っているからだ。
だから仏と同じことは出来なくともできるだけ他の者に送り返す。
そこに三輪清浄が生まれる。
それも含めて仏の大慈悲である。
すなわち日本人の慈しみ文化は仏の三輪清浄のもと作動している
2
いかなるときも、感謝を忘れてはいけない。
それはキミだけに与えられたものではない。
たまたま受け取ったのがキミであっただけだ。
そして少しでも周りに返さなければならない。
お米は慈しみ育てられ、お百姓さんが慈しみをもって送ったものだ。
だから慈しみをもち、受け取らなければならない。
一粒まで感謝を忘れてはいけない。
どこにも負債を残さず、清く繋がること。
それが日本人である。
3
自分だけが利を得て、満足する。
それは自分が頑張ったから当然だ。
確かに努力の正当な報酬だ。
正しい自由主義の競争原理だ。
しかしそこでは、キミは汚れている。
負債を負っている。
いかなる利も自分だけではなし得ない。
周りへの、そして得たものへの感謝、慈しみを忘れてはいけない。
単に利を皆に配分することではない。
感謝すること。
利を大切にすること。
そして清らかであろうとすること。
慈しみ続けること。
そこに空は開け、平安が生まれる。
物質的豊かさから得られない平安がうまれる。
4
よく本音はみんな自分のことしか考えていないという。
それは間違いだ。
「本音はみんな自分のことしか考えてない」という近代的な神話だ。
なら本音は善なのか。
否、そもそも本音なんて存在しない。
裏も表もない。
「私は当にそのように行為するのである」。
そして日本人は当に慈しむのである。
表裏というないものを無理に考えるから悩み疲れる。
ただ慈しむ。
当に慈しんでいる。
その先に日本人の清らかなる平安がある。
5
困っている人がいたら助ける。それは確かにやさしい。
しかし日本人の慈しみはさらに高度だ。
助けてあげて良いか、助けることが迷惑にならないか、まで考える。
助けても、速やかにその場から退避する。
慈しみとは見返りを求めない贈与である。
それは相手に負債を感じさせない贈与である。
三輪清浄。与える者、受ける者、与えるものが、すべて清らかであること。
これが慈しみの理想である。
清らかであることの配慮である。
この高度な俯瞰思考を日本人は身につけている。
そしてそれは日本人の働き者、清潔さ、改善へと展開されている。
後代の仏教においては、他人に対する奉仕に関して「三輪清浄」ということを強調する。奉仕する主体(能施)と奉仕を受ける客体(所施)と奉仕の手段となるもの(施物)と、この三者はともに空であらねばならぬ。とどこおりがあってはならぬ。もしも「おれがあの人にこのことをしてやったんだ」という思いがあるならば、それは慈悲心よりでたものではない。真実の慈悲はかかる思いを捨てなければならぬ。かくしてこそ奉仕の精神が純粋清浄となるのである。P129
「哲学的探求」 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン ISBN:4782801076
私が「規則に従う」と呼ぶものは、ただ一人の人がその人生に於いてただ1回だけでも行う事が出来る何かであり得るだろうか?[答えは否である。]・・・規則に従うと言う事・・・は慣習([恒常的]使用、制度)である。規則の表現−たとえば、道しるべ−は、私の行為と如何に関わっているのか、両者の間には如何なる結合が存在するのか?・・・私はこの記号に対して一定の反応をするように訓練されている、そして、私は今そのように反応するのである。(198)
したがって「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践である。そして、規則に従うと信じる事は、規則に従う事ではない。・・・或る規則に従う、という事は、或る命令に従う、という事に似ている。人は命令に従うように、訓練され、その結果命令に或る一定の仕方で反応するようになるのである。(202)
「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(217)