日本人の慈しみのかたち  三輪清浄

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仏の慈悲はなぜ受けた者に負債を与えないのか。
受けた者は仏を慈しみ、深く感謝する。
そしてそれが自分だけに与えられたものでない、
生きとし生けるものへの慈悲であることを知っているからだ。
だから仏と同じことは出来なくともできるだけ他の者に送り返す。
そこに三輪清浄が生まれる。
それも含めて仏の大慈悲である。
すなわち日本人の慈しみ文化は仏の三輪清浄のもと作動している



いかなるときも、感謝を忘れてはいけない。
それはキミだけに与えられたものではない。
たまたま受け取ったのがキミであっただけだ。
そして少しでも周りに返さなければならない。


お米は慈しみ育てられ、お百姓さんが慈しみをもって送ったものだ。
だから慈しみをもち、受け取らなければならない。
一粒まで感謝を忘れてはいけない。
どこにも負債を残さず、清く繋がること。
それが日本人である。



自分だけが利を得て、満足する。
それは自分が頑張ったから当然だ。
確かに努力の正当な報酬だ。
正しい自由主義の競争原理だ。


しかしそこでは、キミは汚れている。
負債を負っている。
いかなる利も自分だけではなし得ない。
周りへの、そして得たものへの感謝、慈しみを忘れてはいけない。


単に利を皆に配分することではない。
感謝すること。
利を大切にすること。
そして清らかであろうとすること。
慈しみ続けること。
そこに空は開け、平安が生まれる。
物質的豊かさから得られない平安がうまれる。



よく本音はみんな自分のことしか考えていないという。
それは間違いだ。
「本音はみんな自分のことしか考えてない」という近代的な神話だ。
なら本音は善なのか。
否、そもそも本音なんて存在しない。


裏も表もない。
「私は当にそのように行為するのである」。
そして日本人は当に慈しむのである。
表裏というないものを無理に考えるから悩み疲れる。
ただ慈しむ。
当に慈しんでいる。
その先に日本人の清らかなる平安がある。



困っている人がいたら助ける。それは確かにやさしい。
しかし日本人の慈しみはさらに高度だ。
助けてあげて良いか、助けることが迷惑にならないか、まで考える。
助けても、速やかにその場から退避する。
慈しみとは見返りを求めない贈与である。
それは相手に負債を感じさせない贈与である。
三輪清浄。与える者、受ける者、与えるものが、すべて清らかであること。
これが慈しみの理想である。
清らかであることの配慮である。
この高度な俯瞰思考を日本人は身につけている。
そしてそれは日本人の働き者、清潔さ、改善へと展開されている。

後代の仏教においては、他人に対する奉仕に関して「三輪清浄」ということを強調する。奉仕する主体(能施)と奉仕を受ける客体(所施)と奉仕の手段となるもの(施物)と、この三者はともに空であらねばならぬ。とどこおりがあってはならぬ。もしも「おれがあの人にこのことをしてやったんだ」という思いがあるならば、それは慈悲心よりでたものではない。真実の慈悲はかかる思いを捨てなければならぬ。かくしてこそ奉仕の精神が純粋清浄となるのである。P129

慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220

「哲学的探求」 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン ISBN:4782801076


私が「規則に従う」と呼ぶものは、ただ一人の人がその人生に於いてただ1回だけでも行う事が出来る何かであり得るだろうか?[答えは否である。]・・・規則に従うと言う事・・・は慣習([恒常的]使用、制度)である。規則の表現−たとえば、道しるべ−は、私の行為と如何に関わっているのか、両者の間には如何なる結合が存在するのか?・・・私はこの記号に対して一定の反応をするように訓練されている、そして、私は今そのように反応するのである。(198)

したがって「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践である。そして、規則に従うと信じる事は、規則に従う事ではない。・・・或る規則に従う、という事は、或る命令に従う、という事に似ている。人は命令に従うように、訓練され、その結果命令に或る一定の仕方で反応するようになるのである。(202)

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(217)