なぜ日本人の中で粛々と慈悲交換のエコノミーが作動しているのか

pikarrr2016-02-08

1)日本人はクールか


NHKBS「クールジャパン」は、日本の様々な話題について数人の外国人たちが評価するという番組で、いかに日本人が不思議な人たちかわかる。日本人自身が日本人的と考える以上に日本人的だ。

たとえば最近の内容では

テーマ 冬
・日本人は季節の変化に敏感。
・日本のコンビニで商品が夏冬で変わる。海外では年中同じで品数も少ない。
・日本では夏冬で食器がかわる。
・日本では季節で部屋の中の生活用品を変える。たとえばカナダでは一年中同じ布団を使う。日本では布団が代わるし、ゴザを引いたり、工夫がある。

テーマ 集団行動
・日本の学校の体育など整然とした集団行動が学ばれる。このような教育で道徳が養われる。海外では個人の意志が重視されるので無理だろう。子供でも従わないだろう。学校は勉強をするところで必要がないという考え。
・いくら大人数になろうと、日本人はきちんと行列に並ぶ。
・日本の立ち入り禁止を示すプラスチックのチェーンの不思議。侵入になんの物理的効力もないのに侵入しない日本人に働く不思議な抑止力。海外では塀でもつくらないと侵入してくる。

テーマ 動物
・奈良の鹿、ウサギ島、ネコ島、狐村とか、動物とのふれあう場が多くて外国の観光客に人気。日本での動物と人間の近さに魅力がある。
アメリカでは動物保護団体からのクレームなどがあり無理。
・日本人は古来より人間と動物という境界を設けてこなかった。

テーマ 老舗
・世界で老舗メーカーがだんとつで1番多いのが日本。
・老舗が多い理由として、日本人はこつこつ改善を続ける。会社の利益を越えてユーザーのことを考える。
アメリカでは個人の成功が目的だが、日本人は個人よりも会社を重視する。
・日本の老舗は経営者が家族で継承されることが多いが、アメリカなどの老舗では会社名が同じで経営者が代わっている場合が多い。
アメリカでは企業は拡大を目指し、大きくなると魅力を失う場合が多い。

あと、よく言われているのが、日本人はなぜ物に敬語を使うのか。お米、お弁当、お風呂、お菓子、お店・・・外国人にはかなり不思議であるらしい。「いや、別に物を尊敬してるわけではないよ。そういう言葉の使い方、慣習だから使っているだけ意識なんかしていない。」というのが日本人の実感だろう。ここには意識しないレベルで日本人の物を大切にする思想が組み込まれている。仏教的な生きとし生けるものへの尊重が、日本人では生きものを超えて物まで展開されている。

ここに働いている一つの力は、「慈悲交換」のエコノミーではないだろうか。日本人は意識することなくとも、日本文化の中に慈悲交換が組み込まれていて、日本人的な善(美)として「当にそのように行為するのである」。




2)贈与交換と慈悲交換の違い

wiki カール・・ポランニー

経済過程に秩序を与え、社会を統合するパターンとして、互酬、再配分、交換の3つをあげる。互酬は義務としての贈与関係や相互扶助関係。再配分は権力の中心に対する義務的支払いと中心からの払い戻し。交換は市場における財の移動である。
ポランニーは、この3つを運動の方向で表しており、互酬は対称的な2つの配置における財やサービスの運動。再配分は物理的なものや所有権が、中心へ向けて動いたあと、再び中心から社会のメンバーへ向けて運動すること。交換は、システム内の分散した任意の2点間の運動とする。

カール・ポランニーのいう経済秩序により社会を統合する三つの交換様式、互酬(=贈与交換)と再配分と交換(=等価交換)では、日本人の交換様式は説明しきれない。「慈悲交換」とでも呼ぶ新たな交換様式を導入しないと説明できない。

では慈悲交換とはなにか。贈与交換と比較して考えたい。贈与交換とは、親しい人たちの間の貸し借りである。親しい人が困っているから与える。それは暗黙に自分が困ったときに助けてもらう約束になる。それは、誰か助けられる人が助けるという贈与交換のコミュニティを作り、価値交換の円環を描く。その範囲は親しい者たちに閉じられる。このような贈与交換は文化、民族に関わらず生きるための人類の基本的な特性と言えるだろう。

慈悲交換と贈与交換は一見似ている。しかし贈与交換が親しい人へ、返礼(見返り)を求めるのに対して、慈悲交換は、親しくない人へ、そしてできるだけ相手からの返礼(見返り)を求めない。贈与を与える者が返礼は求めなくても相手に負債が生まれるために、できるだけ相手が恩にきせないようにする。たとえば母の子への愛はみかえりなく、恩をきせないように子に与えるという意味で慈悲交換に近いが、母子は究極的に親しい。要するに、母の子への愛を親しくない人に与えるということだ。

こんなことは究極的には仏様しかできないが、仏の慈悲は大慈悲と言われて、それだけが慈悲ではない。慈悲交換には段階がある。できるだけ親しくない人へ、できるだけ見返りなく、できるだけ多くを与える。母子の例にあるように親しい人なら比較的簡単だ。これを「衆生を縁とする慈悲」という。次に、「法を縁とする慈悲」とはできるだけ親しくない人に対して見返りなく与える。そして「無縁の慈悲」とは、すべての縁を越えてただ与えるという仏さまのみに可能な慈悲だ。

慈悲交換も贈与交換の一種であり、同様に円環を描くだろう。ただし慈悲交換は親しくない人たちを対象とするために、親しい人を対象とする贈与交換より、より大きな円環を描く。いつ帰ってくるかわからない。帰ってこないかもしれない。できるだけ返礼を期待しないことが慈悲交換でもある。そして仏の無縁の慈悲レベルになると、究極的には無限大の円環を描く、それは大乗仏教の最終目的であり、涅槃(ニルヴァーナ)である。

慈悲交換のレベル

レベル0  贈与交換・・・親しい者たちの間での贈与と返礼、慈悲なし。
レベル1  衆生を縁とする慈悲・・・父母妻子親族など親しい人へできるだけど見返りなく与える。
レベル2  法を縁とする慈悲・・・できるだけ親しくない人に対して見返りなく与える。僧侶レベル?
レベル3  無縁の慈悲(大慈悲)・・・すべての縁を越えてただ与える。仏のみに可能。純粋贈与。

慈の所縁は一切の衆生なり。父母妻子親族を縁ずるがごとし、この義を以ての故に名付けて衆生を縁とする[慈]という。法を縁とする[慈]とは、父母妻子親族を見ず、一切法は皆縁より生ずると見る、これを法を縁とする[慈]と名づく。無縁の[慈]とは法相および衆生相に住せず、これを無縁と名づく。

大般涅槃経

後代の仏教においては、他人に対する奉仕に関して「三輪清浄」ということを強調する。奉仕する主体(能施)と奉仕を受ける客体(所施)と奉仕の手段となるもの(施物)と、この三者はともに空であらねばならぬ。とどこおりがあってはならぬ。もしも「おれがあの人にこのことをしてやったんだ」という思いがあるならば、それは慈悲心よりでたものではない。真実の慈悲はかかる思いを捨てなければならぬ。かくしてこそ奉仕の精神が純粋清浄となるのである。P129

慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220




3)日本人の中で粛々と作動する慈悲交換のエコノミー


仏教の基本は無我論である。我を滅することで囚われが消えて苦がなくなり心の平安に至る。親しい人へ与えるとは我!にとって親しい人であり、我へのこだわりがある。より親しくない人へ与えるとは我を否定していく修養である。その結果、大慈悲において「空」に至り心の平安に至り仏となる。「空」とは我有りと我無しの向こうである。

言葉で慈悲というと美しいが、未開社会の研究の中で贈与交換が表れるように、贈与交換は人類の自然状態と言えるのに対して、慈悲交換は我を否定するために知らない人に与えるという仏教徒以外は理解できない異常だろう。慈悲交換はまさに狂っているとしかいえない。

仏教の伝来以来、日本人は慈悲について様々な説話として語られ続けた。たとえばほとんどの日本昔話には慈悲交換のエコノミーが働いている。我を否定して、より親しくない人に、より多くの、できるだけ見返りを求めず、できるだけ相手に恩にきせないように与えるという慈悲交換のエコノミーが、いまや日本人の中の善の基準として根付いている。

たとえばその現れの一つが、日本人は他者への感受性、他者に対する想像力が発達していることがあげられる。ここでいう他者とは親しい人だけに限らない人々であり、さらには仏教的には生きとし生けるものである。我を否定して他者のことを配慮する。

そして我を否定し他者のことを配慮することは決して到達しない。だから日本人の慈悲交換は終わりない改善運動として作動する。そこで重要になるのが礼だろう。これはむしろ仏教とともに伝わった儒教の影響もあるのだろうが、他者への配慮を儀礼することで、無我の無限後退を回避しつつ、慣習として根付かせる。そしてもはや日本人自身も忘れて気づかないうちに慈悲交換のエコノミーが粛々と作動している。




4)「売手よし、買手よし、世間によし」のエコノミー

日本においては、例えば徳川時代の中期以降における近江商人の活発な商品活動には、浄土真宗の信仰がその基底に存するという事実が、最近の実証研究によって明らかにされている。ところで近江商人のうち成功した人々の遺訓についてみるに、かれらは利益を求める念を離れて、朝早くから夜遅くまで刻苦精励して商業に専念したのであるが、内心には慈悲の精神を保っていた。
実際問題としては利益を追求しなかったわけではないはずであるが、かれらの主観的意識の表面においては慈悲行をめざしていたのである。
その一人である中村治兵衛の家訓によると、「信心慈悲を忘れず心を常に快くすべし」という。
これは当時浄土真宗における世の中の商人に対し仏の慈悲を喜ぶことを教えていたことに対応するのである。P244

慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220

江戸時代中期、全国的規模で広汎にビジネス活動を行い、時には海外へも進出していた「近江商人」。現在もトヨタ、丸紅、伊藤忠高島屋日本生命、ワコールなど、近江商人に起源をもつ老舗企業は数多く存在しています。 明治維新をはじめ、数多くの激動期を乗り越えてきた「近江商人」の経営手法には、現在に生きる私たちに、少なからぬ「知恵」を授けてくれます。何の資源を持たなかった日本が、ここまでの発展を遂げることができたのは、何よりも「ヒト」という資源の力にあるのではないかと思います。それも誰もが知っている有名人ではなく、目立つこともなく、ただひたむきに努力を重ねた無名の人々による努力の結晶にあるといえるでしょう。このような人々を輩出したそのシステムにこそ、日本の発展の原動力があったといって過言ではないと思います。そして、この日本における人的資源のマネジメントのルーツといえるものは、いまから300年以上も前の時代に誕生した「近江商人」の経営手法の中にあるのです。

三方よし
これは、「売手よし、買手よし、世間によし」のことを言い表したものです。 商売を行うからには儲からねば意味がありません。そのためにはお客さんにも喜んでもらわなければなりません。ですから、「売手よし、買手よし」は当然のことといえますが、近江商人には、このうえに「世間よし」が加わって「三方よし」となります。これは300年生き続けてきた理念で、近江商人特有のものとなっています。自らの地盤を遠く離れた他国で商売を行う、近江商人においては、他国において尊重されるということが、自らの存在を正当づける根拠にもなりますから、「世間よし」という理念が生まれてきたといわれています。

http://www.neo-knowledge.com/column/omisyonin01.html

商売の基本は等価交換である。買手と売手が、交換するモノの価値が等価であると同意することで交換が成立する。等価交換が贈与交換と違うのは、貸し借りなくその場で精算されることだ。だから贈与交換のように相手と親しい必要はなく、広く不特定多数の人々の間での交換が可能になる。そしてその場で精算されるために交換後に相手がどうなろうが関係が無い。だからそこに円環は生まれない。

近江商人が「売手よし、買手よし」と言うときには、等価交換によって互いに満足するという意味とともに、贈与交換が働いている。一見、等価交換で精算されているようだが、長期的に見れば、買手と売手に信頼関係がある方が互いに安心して継続した等価交換が可能になる。ご贔屓さん、お得意さん、あるいは企業ブランドなど、そこに緩やかな贈与交換の円環が働いている。

しかし「世間よし」とはなんだろうか。それは等価、贈与交換の円環の外の見ず知らず人への配慮である。交換そのものが、見ず知らずの人々へ何かを与えられるように配慮する。このようなエコノミーは慈悲交換からしか出てこない。そして日本人にしか思い至らないあまりに不思議な考えである。しかしこの考えが、日本人の近代以降の資本主義社会での成功に大きな役割は果たしてきた。

たとえば企業が商品を開発し、提供するとき、当然、お客さんに価値を認めてもらい、より高く売れるように、等価交換において高い価値を生むように努力する。しかし日本企業の場合、それだけではない。そこに慈悲交換のエコノミーが働いている。等価交換の価値以上に「世間」への配慮がある。このようにして日本企業は使いやすさや、品質のよさ、新たな改良品を生んできた。

たとえば日頃意識しない「世間よし」という慈悲交換が実は日本人の日常に働いていることが、明らかになる瞬間として、企業の不祥事が発覚したときに、「世間をお騒がせして申し訳ありません」という謝罪がある。近代的な企業の社会的な責任を越えて、世間への影響に関わらず、日本では企業には社会的な謝罪が求められる。これも海外の人には理解しがたい日本人特有の不思議な現象である。




5)「世間よし」から「世界よし」へのバーションアップ


しかし最近は、日本人の慈悲交換のエコノミーがうまく行かなくなっている例が増えているように思う。たとえば家電企業の凋落が激しいのは、家電製品が途上国の躍進で単なる等価交換のコスト競争に陥ったため、むしろ日本企業の慈悲交換がコストアップのお荷物になってしまっている。

トヨタなど日本車が好調を維持できているのは、車がユーザーへの価値のみならず、安全や環境などで社会的な影響が大きい商品であるが故に、単なる等価交換のコスト競争ではない、日本人の慈悲交換の「世間よし」にまだ価値があることに一因があるのではないだろうか。

特に「世間よし」がお荷物になってしまっている分野がIT産業である。IT産業はその発生から西洋の自己責任文化が根付いている。等価交換で精算し、あとは自己責任である。自己解決する情報は、ネットにあふれている。ググれない情弱は取り残されるだけでなく、蔑視される文化である。多くの情弱がいるために、そこに日本企業の「世間よし」の配慮があれば、日本企業の優位になりそうであるがそうはなっていない。

IT産業の売る情報というものがそれほど必要であるか、ということがある。必要だから情報を得るのではなく、情報をえることそのものが楽しい。だからなければなくてよい。自己解決そのものが娯楽的な価値があるのがIT産業である。だから日本人の「世間よし」は、お節介どころか、楽しみの阻害である。ゲイツや、ウッズなどのオタクが提供する製品が人気を集める。

このようなグローバル化で明らかになりつつあるのは、日本人の慈悲交換が無駄だということではなく、「世間よし」が日本人という世間に閉じている、日本人的な価値で慈悲交換が提供されている面があるのではないだろうか。さらに「世間よし」と言った時代にはまだ社会が日本に閉じていた時代だ。だから「世間よし」から「世界よし」へのバーションアップが求められている。

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