穢れへの恐怖が日本人の無償贈与の美学を成熟させた

pikarrr2016-03-19

放射能汚染のような穢れへの恐怖

日本人は、穢れていないものや、汚れていないものを一番素晴らしいと考えます。 穢れのないものが真実であり、正しいもの、美しいものであるとしたのです。 放射線は遺伝子を破壊する恐ろしいものですし、放射性物質は広範囲に撒きちらされたり、蓄積されると人体に影響を与えます。 現実に原発事故が発生し、多くの人々が住む土地を失い、現在進行形で放射能による影響が蓄積されている状況です。
そういう部分はきちんとした情報を取り入れるべきだと思うのですが、「放射能がくる」「放射能がうつる」とか、扇情的というか情緒的な反応ばかりをしているのは、穢れを忌み嫌う構造と同だと思います。

「穢れ」と放射能と恐れについて http://ameblo.jp/yukasikido/entry-11188115169.html

最近、放射能汚染と対比されるように、日本には太古より穢れへの恐怖があります。貴族などは別にして、庶民では死体は特段、弔うことなく、風葬で捨てられていました。死体は最大の穢れであり、穢れは伝染するものだからです。いまでもお葬式から返ったら、家に入る前に塩を振りますよ。穢れを清めて、伝染しないようにするためです。




慈悲が穢れを浄める


それを改革したのが仏教です。葬式仏教という葬儀革命を起こしたのです。日本人に取って仏教に求めたものは、穢れに対抗できる清らかさなのです。これで庶民でも死体を弔うことができるようになりました。それが「清浄の戒は汚染なし」です。仏教は清い故に穢れに汚染されない。仏教ののみが葬儀を可能にする。現代でも、死体を仏様といいますが、死体の穢れが浄化されることで、仏様になるわけです。「死体穢れ観」から「死体往生者観」への転換です。

その仏教の清らかさの源泉が慈悲です。慈悲により人は、場は、清らかになる。すなわち慈悲は日本人の世界を変えたわけです。穢れに怯える日常から解放される。たった百年で、数万の寺が作られ、日本人は全員仏教徒になったことに、この革命の衝撃がわかるでしょう。

後代の仏教においては、他人に対する奉仕に関して「三輪清浄」ということを強調する。奉仕する主体(能施)と奉仕を受ける客体(所施)と奉仕の手段となるもの(施物)と、この三者はともに空であらねばならぬ。とどこおりがあってはならぬ。もしも「おれがあの人にこのことをしてやったんだ」という思いがあるならば、それは慈悲心よりでたものではない。真実の慈悲はかかる思いを捨てなければならぬ。かくしてこそ奉仕の精神が純粋清浄となるのである。P129

慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220




穢れへの恐怖が無償贈与の美学を成熟させた


ここに日本人に特有な無償贈与美学の成熟があります。いかなる時も、自らの死に対しても、相手に配慮することを忘れない。これは単に日本人が高等な民族とかではなく、日本人の太古からの穢れへのトラウマ、穢れ伝染病を浄化する死活問題だったわけです。

もしこの清さを怠るものがいれば、穢れが発生し、伝染していく。これは個人の問題ではなく、「世間」の問題です。世間が穢されて崩壊する。奈良平安時代のように、遷都が繰り返される。特に武士はそもそもが殺しあう存在、穢れに近い存在であり、そこ清らかさは病的なまでに求められのではないでしょうか。

無償贈与の美学


1)名誉を守る(名を惜しむ) ←世界的に集団では一般的。ポトラッチ
2)死を捧げる        ←世界的な美談の領域。儒教(忠義)
3)相手に負債を与えないよう配慮する ←日本人の美学の領域。世間の倫理。仏教(空、慈悲)
4)ただ与える        ←神の領域。仏の大慈


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