日本人の美学の領域 相手に負債を与えないよう配慮する

pikarrr2016-03-18

死を捧げる

インディアンの上述の取引において、名誉の観念が果す役割もまた重要である。
首長個人の威信やそのクランの威信が、債権者が債務者に変わるような形で、消費したのや、また受け取った贈り物よりも多くの物をお返しするという義務に、これほど密接に結びついている例は他に見られない。この消費と破壊はまさに限りない。ポトラッチの中には、所有する物のすべてを消費し、何も残してはならないというものもある。誰が一番裕福で、最も激しく消費するかを競うのである。対抗と競争の原理があらゆるものの根底に潜んでいる。結社やクランにおける個人の政治的地位を始め、あらゆる種類の地位は、戦争、運不運、相続、同盟、結婚によるのと同じように、「財産の戦い」と言われるものによって獲得される。あらゆるものは「富の戦い」であると考えられている。自分の子供の結婚や結社の地位は、交換され返却されるポトラッチを通じてのみ取り決められる。また、それらの地位は、戦争、賭け事、格闘技で失われるように、ポトラッチにおいても失われることがある。いくつかの事例によると、ポトラッチにおいては、お返しを貰うのを望んでいると思われないために、贈与や返礼をせずに、ひたすらに物を破壊するのである。
彼らはギンダラ(キャンドル・フィッシュ)の油や鯨油の樽をそっくり焼やしたり、家屋や数千枚の毛布を焼き払い、競争相手を「負かす」ために高価な銅器具を壊したり、水中に投げ込んだりする。このようにして自分や家族の社会的地位を高める。それゆえ膨大な富を常に消費され、譲渡され、そこに法と経済の体系が存在する。こういう譲渡を交換、交易あるいは売却と呼ぶこともできるだろう。しかしこういう交易は、礼節や気前よさに満ちた高貴なものである。したがって、これが違う気持ちで目の前の利益を求めて行われると、厳しい軽蔑の的となる。P99-100

贈与論 マルセル・モース ISBN:4480091998

富を、見返りなく、消費するという高貴な行為、すなわち無償の贈与は、自分や家族に社会的地位を高め、名誉を得る。贈与交換の社会的な高度な形態といえるだろう。現代でも、豪華な祝いを行うことで見栄をはるということがある。そして武士は、自らの死を、見返りなく、捧げることで、名誉を得る。自らの死は、いかなる財産にも代えがたい富ということだ。

自らの死を究極の富とする過剰性、さらにはそれを当たり前に望む「世間」という倫理、
ここに武士の時代の特殊性がある。この武士の「死を捧げる」という特殊性の起源の一つに儒教があげられるだろう。忠義を重視することとともに、儒教は組織の秩序を重視して、個人の死を犠牲にすることを美徳とする狂気が潜んでいる。しかしかといって中国において、死を捧げる行為は特別な美談であって、日本の武士のように社会で全面化したわけではない。

死を捧げることを、武士のみならず「世間」が倫理として望むように全面化に至ったのは、仏教の影響が大きいだろう。仏教は輪廻転生であり、死んで次の世を生きる。死は終わりではない。そして次の世でよい世界へ行くためには、現世でのいかに慈悲を行ったかが重要である。慈悲とは、自らを滅して、相手に負債を与えないよう、見返りなく与えることであり、その究極の一つが死を捧げることである。

そして「世間」とは、本来、仏教用語諸行無常の輪廻転生の世界のことである。仏教が日本に広く広まる中で、世間も認める武士の死を捧げる贈与文化が形成されたといえる。




名誉から武士の一分へ

昔から今に至るまで 、人間が望むところは 、名と利の二つである 。私らは忝なくもすばらしい君に頼まれ申したのだから 、死骸を軍門にさらしても 、名前を後代に残すことが 、この世の一番の思い出であり 、死後の名誉ともなるでしょう 。ただ一筋に決意するより外に道があるとも思えません。

太平記』巻第七「先帝船上臨幸事」

武士が成立していく鎌倉から室町において、武士が重視したのは名である。それはまさに先にポトラッチによる名誉の延長線上にある。それが兵農分離を経て、江戸時代に世が安定し、大名から配下まで体系化していく中で重視されたのが、単に名ではなく、武士たるもののあり方=武士の一分である。そしてそれを支える世間が立ち現れていく。

このような世間が立ち現れるのは、庶民に仏教が普及するのと同じ時期だ。室町時代以降、農民は豊かになり、いまに続く「家」、そして「家」があつまった村が形成されていく。そこに普及したのが、葬式仏教である。それまで死者を川原や山に捨てるなど、庶民に死者を弔う文化がなかった中で、仏教による葬式文化が発明され普及していく。

そしてこれはまた逆に、「家」を生み出す役割も果たしただろう。葬儀、墓によって、親族が集まる、さらには祖先から子孫の系譜を確認する、すなわち家としてアイデンティティを作り出すことになった。そして江戸時代の檀家制度による国民総仏教徒体制によって、頂点を迎える。この過程で、当然、仏教の教えである輪廻転生や、慈悲は浸透し、そして世間が立ち現れてくる。

慈悲とは、自らを滅して、相手に負債を与えないよう、見返りなく贈与することであり、世間とは、このような慈悲型贈与交換を善とする経済圏であるといえる。そして武士たるものには、その一分として、「死を捧げる」ことが求められた。武士の義理として、忠義をまもり、名を守るために、その究極として、見返りなく死を捧げることが「世間」の倫理としても求められた。




相手に負債を与えないよう配慮する

「義理」は、武士として当然踏み行うべき正しい行動を指している。たとえば、源了圓氏は、武士の「義理」を内容に即して次の三つに分類している(「義理と人情」)。

A(a) 自己のうけた信頼、または好意にたいして、いかなる犠牲を払ってもこたえようとするもの。
 (b)恥ずかしめられることを最高の悪として、自己の名誉を守るために、生命を賭することを辞さないもの。
B 相手、もしくは当事者の立場を傷つけないよう、その場において最もふさわしい、しかるべき処置をするもの。

武士と世間 なぜ死に急ぐのか 山本博文 ASIN:B00LMB0A5Q

A(a)は、請けた贈与に対して、それ以上の返礼を行うこと。また(b)請けた負債に対して、負債以上の返礼をすることで、これらはポトラッチ的である。しかしBは、相手に負債を与えないよう配慮する点で慈悲的である。

ポトラッチは見返りなく贈与することで、名誉という一つの力として働く。「闘う贈与」とも呼ばれる。世界的に良く行われている無償の贈与の形態である。しかし慈悲は、自らを滅して相手に負債を与えないよう贈与することで相手に力として働かないよう配慮する。このような無償の贈与が美学として庶民に働くのは、日本人特有と言える。「世間」においては、単にポトラッチによる自らの力の誇示を美しいとしない。そこに自らを滅し相手が負債を持たないよう配慮までする慈悲において美しいと考える。武士の義理が「名の惜しむ」ことから「武士の一分」へと変化させたことは、無償の贈与交換の美学の発展がある。ポトラッチから慈悲へ。




無償贈与の美学


「相手に負債を与えないよう配慮する」は、江戸時代に発展した無償贈与の美学の成熟である。これは単に武士の義理にのみ働いてのではない。江戸時代の平安の中で、世間という庶民全体に倫理として働いた。武士の一分、商人の一分、農民の一分が慈悲型贈与交換として成熟し、現代まで残っている。

なぜ日本人は「世間」を騒がせることが恥なのか。世間を騒がせることが、自らを滅して、相手に負債を与えないよう配慮する慈悲型贈与交換の美学に反するからだ。世間を騒がせるとは、自らの落ち度で、意図せずとも自らを主張して、人々の気を引いてしまっているからだ。

無償贈与の美学


1)名誉を守る(名を惜しむ) ←世界的に集団では一般的。ポトラッチ
2)死を捧げる        ←世界的な美談の領域。儒教(忠義)
3)相手に負債を与えないよう配慮する ←日本人の美学の領域。世間の倫理。仏教(空、慈悲)
4)ただ与える        ←神の領域。仏の大慈

後代の仏教においては、他人に対する奉仕に関して「三輪清浄」ということを強調する。奉仕する主体(能施)と奉仕を受ける客体(所施)と奉仕の手段となるもの(施物)と、この三者はともに空であらねばならぬ。とどこおりがあってはならぬ。もしも「おれがあの人にこのことをしてやったんだ」という思いがあるならば、それは慈悲心よりでたものではない。真実の慈悲はかかる思いを捨てなければならぬ。かくしてこそ奉仕の精神が純粋清浄となるのである。P129

慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220




武道伝来記 不断心掛けの早馬 西鶴


ある武士が急ぎで馬を走らせていて、けがをするほどではないが他の武士にぶつかってしまう。ここで謝り、先を急げばなんの問題もなかった。しかし謝ったがそれが相手の武士に聞こえなかった。ぶつかり謝りも無いことで武士の名を傷つけられたと考えた。武士は決闘を申し出る。

相手を調べると評判がよく、おそらく謝ったが聞こえなかったんだろうとわかったが、世間(の武士像を壊さないよう)に配慮して決闘せざるをえない。決闘を申し出られた武士は謝ったが聞こえなかったと弁解しても仕方ないと決闘を受ける。世間に配慮せざるをえない立場に配慮して決闘してあげる。主君は止めたが、剃髪して藩をでる。相手も藩をでる。そしてさし違えて死ぬ。

有名な忠臣蔵赤穂浪士は、赤穂主君の自害、お家取りつぶしという負債をうける。そして討ち入りによって負債返礼する。しかし法的には、罪があるのは殿中で事件を起こした赤穂主君だ。だから赤穂浪士は法的には、罪がない者を殺した犯罪者だ。幕府の判決は、武士にとって不名誉である処刑という案もあったが、世間の賞讃しているために、名誉の自害となった。国のため、武士の名誉のために自害する。これが、世間も賞讃した武士の負債感の美しい解消方法だった。

これらにあるのは、名誉を守るために、死を捧げるという無償の贈与だけではなく、相手にさらに世間に、負債を与えないよう配慮する美学である。

近世の厳しい 「世間 」は 、中世末期から近世に至る長い間に形成されたと考えられるが 、最大の要因は 、統一政権が成立し流動的な社会が固定化されてきたことによると考えられる 。そのなかで 「世間 」が 、現在の我々が使う 「世間 」とほぼ同じものになってきたのだろう 。武士にとっての藩社会や 、町人や農民にとっての町や村といった共同体社会が成立するだけでなく 、幕藩体制のもとで 、日本全国どこであってもそれぞれの 「世間 」が付いて回るのが近世社会の特徴だった 。阿部氏は無視されているが 、武士にこそ 「世間 」が最も大きな重圧としてのしかかっていた 。武士には名があるからである 。

応仁の乱から戦国時代にかけて武士階級の裾野が広がる 。名もない雑兵は 、主君への忠義よりも利や命を惜しむ存在であった 。しかし 、依然として 、城主レベルの武士は 、厳しい自己規律を維持し 、敗北した時は兵卒の身代わりとなって切腹した 。彼らを支えていたのは 、武門の家に生まれた名を惜しむ意識であった 。豊臣政権期の兵農分離を経て江戸時代に入ると 、武士と農民や町人の境界にははっきりと線が引かれる 。いやしくも武士身分となった者は 、武士としての厳しい倫理を要求された 。もし武士にふさわしくないとみなされた場合は 、自己の属する藩社会から排除されることになる 。武士の狭い 「世間 」が成立したのである 。

武士と世間 なぜ死に急ぐのか 山本博文 中公新書 ASIN:B00LMB0A5Q


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