日本人の慈悲型資本主義とは?(散文)

売手と世間のWin−Win


日本人の慈悲型資本主義とは、売手と買手のウィンウィンだけでなく、世間のウィンも重視する経済。すなわち買手のための商品ではなく、世間のための商品である。顧客の対象と世間は違う。顧客は買手が売るターゲットとする相手であるが、世間はそこにすでに倫理が含まれている。だから売手は倫理を担っている。

世間という倫理とは、慈悲である。顧客とは、最も買ってくれそうな人であるが、慈悲とは、最も買わなさそうな人に買ってもらえるようにすることだ。改善は儲けるためにある。しかし日本人は、世間のためにする。最も買わなさそうな向けての改善。商品を買えば、その人は買わなさそうな人でなくなるから、改善に終わりがない。そのために日本人は改善し続ける。機能、品質、コスト。

慈悲とはなにも不思議でもなんでもない。慈悲とはエコノミーだ。だからとても論理的だ。無我のエコノミーだ。人類の標準のエコノミー、贈与交換や商品等価交換のプラマイゼロに対して、いつもちょっとだけ無我の思想(自分よりみんなのために)によって、与えるのが多い。そのちょっとがみんなの中を循環して世間を豊かにしている。

価格等価の商品価値よりちょっと多い慈悲深い日本製品

温水洗浄便座、100円ショップ、こたつ、カラオケ、街工場の職人、自動販売機、接客、うま味、声優、富士山、コンビニ、ラーメン、和風旅館、花火、紅葉狩り電動アシスト自転車、整列乗車、古武術、忍者、タクシーの自動ドア、居酒屋、脳神経外科用ハサミ、早ゆでスパゲッティ、病院食、加賀野菜、外国人向け糸引きの少ない納豆、進化系カワイイ、声優カーナビ、忍者マンガ、伸縮型仮設橋、使い捨てカイロ、粘着クリーナー、鼻毛カッター、冷却ジェルシート

そんなことで採算が合うのか?日本人は採算にこだわらない。儲けるために働いているわけではない。世間のために懸命に働く。結果的に富を得る人はいるだろうが、それが目的ではない。そんな馬鹿な?と思うだろうが、それが日本人である。




世間の職分として慈悲は働く


江戸時代から成熟した慈悲のエコノミーは再帰性が高い。すなわち施すとはなにか?与えればいいのか?人類の不変のエコノミーである贈与交換はいかに働くかを考えればわかる。借りに返礼を求めなくても、与えると相手に負債が生じてしまい、返礼されてしまう。だからちょっとだけ多く施すことは、そう簡単なことではない。贈与と返礼は、人類の物理法則のように働いてしまう。だから慈悲のエコノミーは、返礼されないように施すという高度さが必要になる。

日本人は直接的な援助を嫌う。援助をされる人の恥が問われる。慈悲では、援助されることを恥とする。キリスト教型の弱者援助は、なじまない。慈悲では、上下がない。一切皆苦。だから与えるものも負債にならないように与えなせればならない。出なければ、うけるほうは恥となる。与える方も強者になれば、恥である。慈悲型の交換は繊細である。だから多くにおいて、世間の職分として行われる。

プラマイゼロに対して、いつもちょっとだけ無我の思想(自分よりみんなのために)によって、与えるのが多いことで、みんなで世間を豊かにしている。だから逆に、無我の思想(自分よりみんなのために)がないと、バッシングにつながる。日本人が、世間のみなさまをお騒がせしてご迷惑をおかけしましたと、謝るのは、無我の思想(自分よりみんなのために)の反面といえる。




日本人は「サービス」を慈悲と誤読した


サービスとは、自由主義経済では、等価交換される商品のことである。しかし日本語では、かたや「サービスする」というように、商品につくオマケと意味が強い。この意味は、慈悲行との関連が強い。慈悲行における商品の以上の価値、売り手と買い手の等価交換を超えた、世間よし!が、自由主義経済の導入時に、サービスと混乱した。

これは、日本の経済成長の大きな武器となった。日本製品には、等価交換を超えた価値がサービスされるんだからお得である。それは、オマケされる商品という狭い意味ではなく、品質であったり、改善であったりする。日本製品の高品質、付加価値はサービスである。

しかし問題は、第三次産業化により、サービスそのものが商品となったときに、混乱を起こしている。たとえばサービスはただであるという勘違いが、商品としてのサービスの販売を妨げる。さすがに、エコノミークラスとファーストクラスのサービスの違いであることを勘違いする馬鹿はいないだろうが。西洋がサービスと価格が相関しているのに対して、日本ではおもてなしといって、曖昧で、消費者は安い価格でも、平気で高品質のサービスを求める。そしてサービスが悪いと文句をいう。特に有名なものが、感情労働である。サービスはただだと思って無理難題をふっかけてくる。特に、学校の先生や医療でよくある。

あるいは、アフターケアは西洋ではセルフサービスや、ITによる自動返答が広まり、それ以上は金を払って対応してもらう。しかし日本では、アフターケアに人の対応が求められる。このような日本文化はサービス産業の効率を大きく下げている。




サービス残業と慈悲行


たとえばサービス残業も、こと問題では重要である。なぜなら、サービス残業が、サービスされる高品質や高機能を支えていたことは否めないからだ。労働という商品にもサービスはつく。我よりも会社のため、さらに世間のために、ただで働くことが慈悲行であるからだ。

サービス労働が日本製品のサービスを支えていた。サービス労働がなければ、日本製品の価格に転嫁されて、付加価値はサービスではなく、ただの高い製品になってしまう。現に、そうなって、日本製品の衰退は生まれている。特に海外で。慈悲行とつなげるとサービス労働は精神論のようだが、巧妙にシステムに組み込まれている。たとえば資格制度。公的なものだけでなく、社内にもある。このために労働者は休みも、自主的に自宅でさえ働く。このシステムは、日本において発達した。

少し前まで、社内結婚が進められ、社宅に住み、家族込みで、社畜としてサービス労働を推進されられていた。しかし自由主義経済の倫理において、サービス労働は罪である。厳しい労働時間管理がすすめられている。このために、サービス労働がなくなった終身雇用にはなんの価値もない。代わりに進められているのが、非正規雇用である。非正規雇用はサービス労働をしない。単純に労働時間を売る。その代わりに、単価は低く抑えられ、雇用への保障はない。

しかしそれでも、やはり日本人の自由主義経済は強い。慈悲行というサービス労働は最強である。みんな、働く、改善する、喜んでもらうことが大好きなのである。賃金の問題ではない。コンビニのバイトでも、日本人は優秀である。慣習として、慈悲行としてのサービス労働。一つ上の気遣いをして、客に喜んでもらうことを、してしまう。




なぜ日本人だけに慈悲は根付いたのか


日本で慈悲が仏教信仰を超えて、深く慣習レベルまで達しえた大きな要因は、島国という環境にあるだろう。慈悲は、人に関わりなく施すことが求められる。民族を越え、宗教を越えることは、難しい。それができればまさに仏だ。しかし日本では、施すのは世間内でよかった。

世間は本来は仏教用語で、世界そのものだった。すなわち慈悲圏である。しかし日本ではいつしか世間は日本人圏を指すようになった。なぜなら征服されたことがない島国、疑似単一民族では、日本人圏が世界なのである。世間は日本人圏に縮減されて、慈悲圏も縮減された。疑似単一民族である日本人内で、人に関係なく施す。世界ではなく、世間内で、施しあう。慈悲は途端に容易になった。おそらく民族レベルでここまで慈悲が浸透した民族は他にいないだろう。




キリスト教の慈愛と日本人の慈悲の違い


人類に不変のエコノミーである贈与交換は、身近な者に施すことである。贈与し返礼するエコノミーは、信頼の集団を作り、自らの安全を保証するからだ。慈悲、慈愛は、この人類不変のエコノミーを越えろという。身近でない者にこそ施せと。ここにある人類愛は贈与交換による小さな集団による他者の排除、さらに集団同士の争いを回避する高度で崇高な精神性だ。

ヤスパースが枢軸の時代と呼んだように、人類史のある時期に世界各地で、仏教、キリスト教儒教などの普遍的な思想が生まれた理由の一つがここにある。世界の経済が大きくなり、贈与交換による集団とその闘争が激しくなった時代に、人類愛は求められた。大きな人類愛としても、キリスト教の慈愛、仏教の慈悲、儒教の仁は、それぞれに特徴をもつ。

キリスト教は1神が絶対である。慈愛は自らが救済されるための1神からの命令の一つである。神があなたに施すように、他者にも施しなさい。ここには、施す者と施される者が明確に分かれて、さらにそこに上下がある。困っていない者が困っている者へ施す。弱者救済。このような思想は、現代でも慈善事業やボランティアとしてつながっている。

それに対して、仏教、特に日本に広まった大乗仏教では、絶対的な神はいない。仏は一人ではないし、もともとが人間から仏になる。あるいは、菩薩のように、仏まで至らない者も多くいる。菩薩に象徴的であるように、自らが仏となり救われるよりも人々を救うためにこの世に残る、そしてともに仏になる。大乗仏教では人類全体が救済されることをめざす。だから慈悲には強者、弱者はない。弱者もまった慈悲の心をもつこと、施すこと。施す対象もものに限らない。たとえば挨拶すること、微笑むこと、気遣いすること、という生活のレベルから慈悲である。キリスト教の慈愛は教えの一つであるが、仏教の慈悲は、仏教そのものと言ってもいい。世界全体を慈悲行で満たすこと。

このように説明すると、まったく異なることがわかる。西洋人にとって慈愛は、弱者を救済するための強者の義務である。しかし日本人にとっての慈悲は、生活そのものである。だから日本人は、慈悲を行う自覚がない。日本人として生活することが慈悲だからだ。

西洋人の慈愛は、弱者救済という目的が明確であり、機能的であり、古い伝統がある。事前事業、ボランティアなどの近代的な弱者救済は、キリスト教文化からきて、機能的に運営されて、効果を上げている。しかし日本人の慈悲は、生活の中で埋め込まれて、生活全体を慈悲で満たし快適にしているが、弱者救済という強い目的意識はなく、機能的とは言えない。このために、日本でも、ボランティアなどのキリスト教文化によって、活動されている。

ようするに、別物として作動している。では日本の慈悲が世界的な貢献がないかといえば、日本製品が慈悲という日本の生活から生まれて、世界の人々もまた豊かにしている。慈悲と知らされずに、生活レベルで貢献している。