慈悲型資本主義 ダイジェスト

1 世間のエコノミー


世間なんて倫理圏はいまだにあるのか、古くさいという考えはあるが、実際は日本人は法よりも、世間に訴えることが多い。世間に正義があり、法さえ超えて、日本人を正しく導くと考える。西洋の国家と市民もいう対立構図が日本にないのは、世間では一体だから。首相だろうが、世間の一員で、最後は世間のために働く。首相と言っても、一時期の職分で、おおもとは世間の一員で、世間に反すれば、家族、一族、さらに子々孫々に制裁を受ける。

世間は日本人だけの独特な倫理圏。今でも、「世間体を考える」、「世間が許さない」、「世間のみなさまにご迷惑をかけて申し訳ありません」など、日本人は語る。世間とはもともと仏教用語で、世界のこと。外はない。仏教的な倫理が共有されているだろう世界。おそらく世間が今のように、日本人全体のように考えられるのは、近代のネーションの形成と混同されてからだろう。

世間とは慈悲圏。慈悲とはエコノミーであり、より身近でないものに多くを与えること。ミウチよりセケンのために。日本人が職場に家族の写真を飾らないのは、ソトにミウチを持ち込み自慢することだから。ウチよりソトを重視する姿勢が慈悲の善。ベタに言えば、武士がお家のために自分を、家族を犠牲にするまで、溯れる。

贈与交換は、信頼できる身内で貸し借りとして働いた。慈悲は、贈与交換を身内から世間に広げたものと考えれば良い。いつか返ってくるためには、みんなが返ってこないことを覚悟で与えなければならい。一人でも身内だけのことだけ考えたら、返ってこなくなってしまう。みんなが返ってこないことを覚悟に知らない人に与える集団、それが世間である。




2 世間の歴史


近代化で失われたが、江戸時代、日本人は仏教的価値観の中でも生きていた。仏教を信仰するか、どうか以前に、それしか考え方がなかったから。慈悲は常識だった。

鈴木正三は、まさにその時代に慈悲による死後も安定を説くが、その天才は、慈悲を、職を通して可能にしたことだ。だれもがもつ職を通した慈悲を可能にし、職分網として世間を作り出した。

だから日本人に宗教がない、の意味は、正確には都市化、市場経済化しているにもかかわらず、世界宗教を必要としないということの不思議。仏教も、世界宗教による救済ではなく、生活慣習の一部に吸収してしまった。慈悲は救済より、エコノミーとして、気づかないうちに働いている。なぜ日本人は世界宗教による救済なく平気なのか?ある意味、いまだに、土着民だから。島国の閉鎖空間、擬似単一民族。世間という暗黙の共同体の倫理が作動しているから。

どの仕事もみな仏道修行である。人それぞれの所作の上で、成仏なさるべきである。仏道修行で無い仕事はあるはずがない。一切の[人間の]振舞いは、皆すべて世の為となることをもって知るべきである。鍛冶・番匠を始めとして諸々の職人がいなくては世の中の大切な箇所が調わない。武士がなくては世が治まらない。農人がいなければ世の中の食物が無くなってしまう。商人がいなければ世の中の[物を]自から移動させる働きが成立しない。このほかあらゆる役分として為すべき仕事が出てきて世の為となっている。天地を指した人もいる。文字を造り出した人もいる。五臓を分けて医道を施す人もいる。その種類は数えきれないほど現れて世の為となっているけれど、これらすべて一仏の功徳の働きである。このような有り難い仏の本性を人々[は皆]具えている本当に成仏を願う人であるなら、ただ自分自身を信じるべきである。自身とはつまり仏であるから、仏の心を信じるべきである。

万民徳用 鈴木正三




3 弱者救済と改善


西洋人の慈愛は、弱者救済という目的が明確であり、機能的であり、古い伝統がある。事前事業、ボランティアなどの近代的な弱者救済は、キリスト教文化からきて、機能的に運営されて、効果を上げている。しかし日本人の慈悲は、生活の中で埋め込まれて、生活全体を慈悲で満たし快適にしているが、弱者救済という強い目的意識はなく、機能的とは言えない。このために、日本でも、ボランティアなどのキリスト教文化によって、活動されている。

ようするに、別物として作動している。では日本の慈悲が世界的な貢献がないかといえば、日本製品が慈悲という日本の生活から生まれて、世界の人々もまた豊かにしている。慈悲と知らされずに、生活レベルで貢献している。




4 欲望型資本主義(西洋式)と慈悲型資本主義(日本式)


日本人の慈悲型資本主義とは、売手と買手のウィンウィンだけでなく、世間のウィンも重視する経済。すなわち買手のための商品ではなく、世間のための商品である。

世間という倫理とは、慈悲である。顧客とは、最も買ってくれそうな人であるが、慈悲とは、最も買わなさそうな人に買ってもらえるようにすることだ。

欲望型資本主義(西洋式)
 消費者の欲望を想起させ続ける。欲望とは他者の欲望への欲望であり、終わりがない。主体欲望論。

慈悲型資本主義(日本式)
 求めていないと人のためにこそ、利便性を提供する。買った人は求めた人になり、さらに求めていない。人が生まれ、終わりがない。集団的充足論




5 サービスと慈悲


サービスとは、自由主義経済では、等価交換される商品のことである。しかし日本語では、かたや「サービスする」というように、商品につくオマケと意味が強い。この意味は、慈悲行との関連が強い。慈悲行における商品の以上の価値、売り手と買い手の等価交換を超えた、世間よし!が、自由主義経済の導入時に、サービスと混乱した。

これは、日本の経済成長の大きな武器となった。日本製品には、等価交換を超えた価値がサービスされるんだからお得である。それは、オマケされる商品という狭い意味ではなく、品質であったり、改善であったりする。日本製品の高品質、付加価値はサービスである。

しかし問題は、第三次産業化により、サービスそのものが商品となったときに、混乱を起こしている。たとえばサービスはただであるという勘違いが、商品としてのサービスの販売を妨げる。西洋がサービスと価格が相関しているのに対して、日本ではおもてなしといって、曖昧で、消費者は安い価格でも、平気で高品質のサービスを求める。そしてサービスが悪いと文句をいう。特に有名なものが、感情労働である。サービスはただだと思って無理難題をふっかけてくる。特に、学校の先生や医療でよくある。

たとえばサービス残業も、この問題では重要である。なぜなら、サービス残業が、サービスされる高品質や高機能を支えていたことは否めないからだ。労働という商品にもサービスはつく。我よりも会社のため、さらに世間のために、ただで働くことが慈悲行であるからだ。




6 IoTと慈悲


ガラパゴス化などで象徴されるように、日本人はITに失敗した。失敗の一つの理由は、慈悲故にITによって、サービスの質が落ちることを、売手も、買手も見過ごせなかった。世間が許さなかった。

では得意の製造業とITが融合した「IoT」の領域ではどうか?もののインターネットは、人のコミュニケーション以前なので、慈悲型商品によって、また日本人の優位が戻ってくるかもしれない。すなわちサービスをコストにランクにするのではなく、誰にも等しく、安価にサービスを提供できる。ここで慈悲は、おもてなしという高度なサービスを安価に提供できる可能性がある。

IoTが普及した世界でいうモノとは、ユーザーからするとモノであることを忘れさせ(そもそもモノであるかどうかさえ気にならなくなり)、モノが自律的に判断した上で、全体の中で最適な制御を行うようになると言えます。これをモノのスマート化と捉えています。P45

IoTまるわかり 三菱総合研究所編 日経文庫 ISBN:453211344X



日本人の慈悲型資本主義とは?(散文)
 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20160906#p1
Iotは日本人の慈悲を世界に発信する装置になれるか 慈悲型資本主義その2
 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20160907#p1
いまも世間は強力な力をもつ 慈悲型資本主義 その3
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日本人の世間のエコノミー 慈悲型資本主義 その4
 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20160910#p1
なぜ日本人は世界宗教による救済なく平気なのか? 慈悲型資本主義 その5
 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20160911#p1