なぜ日本人は世界宗教による救済なく平気なのか? 慈悲型資本主義 その5

世界宗教


ユダヤ教ユダヤ人の選民思想ユダヤ教の一派のキリストがユダヤ人以外にも解放して、世界宗教になった。バラモン教は上層の司祭層バラモンのみが解脱できる。バラモン教の一派の仏陀が誰でも修行によって解脱できると、世界宗教になった。

仏陀、その継承の小乗仏教は、出家して厳しい修行によって、解脱できる。大乗仏教は在家を認め、全員一斉解脱を目指して、菩薩たちの解脱せずに人々の救済を目指す。出家の仏行も慈悲行などいろいろ必要だったが、中国を経て、東洋の終わり日本の親鸞でとうとうただ念仏を唱えるだけで救済されるまで簡単に行き着く。




世界宗教と商品等価交換の深い関係


日本の仏教と商売の関係は深い。寄進されて大量の領地をもってたお寺は日本有数の大富豪だったし、日本のネットワークで商売して、中国とのネットワークで大もうけとか。権力の問題だろう。権力は金になる。

しかしそれ以上に、世界宗教と商品等価交換には、深い関係がある。キリスト教しかり、仏教しかり、最初に世界宗教を指示したのは、都市層ということ。農村では自給自足、再配分(権力者による税の徴収)が中心部だが、都市層では商売が発展し、商品等価交換が活発に富裕層が生まれた。日本でも鎌倉時代以降に、仏教は庶民に普及し始めるが、それは貨幣経済が発展する時期など重なる。

世界宗教と等価交換経済の類似はすでにいろいろ類似されている。

贈与交換、再配分→商品等価交換
土着宗教→世界宗教

簡単に言えば、商品等価交換による都市化により、都市から切り離された人々が、土着宗教から離れた世界宗教を指示し、求めた。もともと土着宗教は呪術的で、土地に埋め込まれていた。生活と一体で、教義も明文化されず、多神教でその土地で生まれ生きる人しか、入れない。都市部の人々は、誰でも入れる救済を望んだ。誰でも入れるためには、生活と切り離された、しっかりした教義が必要だ。




なぜ日本人は世界宗教による救済なく平気なのか?


だから日本人に宗教がない、の意味は、正確には都市化、市場経済化しているにもかかわらず、世界宗教を必要としないということの不思議。仏教も、世界宗教による救済ではなく、生活慣習の一部に吸収してしまった。慈悲は救済より、エコノミーとして、気づかないうちに働いている。なぜ日本人は世界宗教による救済なく平気なのか?ある意味、いまだに、土着民だから。島国の閉鎖空間、擬似単一民族。世間という暗黙の共同体の倫理が作動しているから。