なぜ日本人は無宗教なのか

pikarrr2016-10-02


【海外の反応】日本人は何の宗教を信仰していると思われている?
http://www.howtravel.com/news/religion/


文化庁の統計によると、日本で信者が最も多いのは神道の約9200万人で、次に仏教の8700万人となっており、キリスト教の約200万人が続く。神道と仏教の信者数だけで日本人口を優に超えることから、一人が複数の宗教を信奉していることがわかる。海外では日本人の宗教観をどのようなイメージでみているのか。そもそも神道を知っているのか。海外在住ライターが、日本人の宗教がどう見られているのかをリポートする。

アメリカ】「そんな考え方があるの!?」日本の宗教観に興味深々 (現地在住ライター 長谷川サツキ)

アメリカ人は昔に比べて無宗教者が増えてきたものの、キリスト教徒が圧倒的に多い。信心深い人が多く、毎週末教会へ行き、ボランティア活動に勤しみ、クリスマスはミサに出かけていく。そんなアメリカ人は日本人の信仰についてはあまり知識がない。そのため親しくなってくると遠慮がちに何の宗教を信仰しているのか聞いてきたりする。

だが私たち日本人の宗教観をアメリカ人に説明するのは正直難しい。日本人は宗教を伝統や文化に近い感覚で柔軟に受け入れているように思う。クリスマスを祝い、元旦に神社へ初詣へ行き、帰れば家に仏壇があり、八百万の神の昔話をする。特定の宗教を信仰していないからといって無宗教者と答えてしまうと、神を積極的に排除しているようでこれまたニュアンスが違う。一言で説明するのは難しいので長々と例を交えながら日本人の宗教観を説明することになるのだが、ほとんどの場合仰天しつつも「そんな面白い考え方があるなんて」と興味を示してくれる。宗教の話は海外ではタブーと思っていたが、宗教を通じての異文化交流もなかなか面白い。

【イギリス】複数の宗教を信仰するのに違和感? (現地在住ライター バックリー佳菜子)

イギリスでは日常会話のどの宗教を信仰しているのか聞いたり、宗教によって差別されることは大きなタブーとなっている。そのため宗教を意識せずに日々の生活ができるが、その影響か時々大きな勘違いをしているイギリス人に出会うことがある。例えば筆者は個人的に豚肉や牛肉があまり好きではないので鶏肉料理かベジタリアンのメニューを注文することが多いのだが、同席していた友人から宗教上の理由でRed Meat(牛肉やラム肉など)を食べないのだろうと思われていたということがあった。

またアジア人というだけで必然的に仏教徒だと思われることも多々ある。(イギリスではタイ系移民も多く、アジア人というとタイに近いと思われがちだ)筆者は例に漏れず、父方は神道、母方は仏教の家庭出身でどちらも信仰しているタイプであるが、この事実を伝えるとまだびっくりされることも多いのである。

【ブラジル】日本といえばやっぱり仏教 (現地在住ライター 増成かおり)

ブラジル人には、日本は仏教の国と思われていると思う。宗教を聞かれた私が仏教徒だと答えると、すべての人が「やっぱり」と言うからだ。逆に、日本にもキリスト教など他の宗教を信じる人もいると言うと驚かれることもある。日本人が信仰しているのは仏教だけというイメージがあるのだろう。

そんなブラジルは約65%の人がカトリック教徒で、他にも仏教を含め多くの宗教が存在する。しかし複数の宗教が同時に自然に溶け込む日本の日常を、ただ一人を神と崇めるクリスチャンのブラジル人には理解しにくい。日本では、仏壇が置いてある家で神棚に手を合わせるのは普通だし、12月になればそこにクリスマスツリーを飾るのも当たり前と言っても不思議そうな顔をされるばかりだ。

以前、古く大きな木を切る様子を友人と見た。私が、日本では八百万もの神がいると信じられているので、この木にも神が宿っていると思うと言うと、その数に驚いていた。こうした日本の宗教観が、日本を神秘的にみせているのだろう。




日本人の宗教は神道という幻想


日本人の宗教はなにか?という問い自体が、すでにキリスト教に巻き込まれている。これを信仰している!という明確さは一神教の特徴で、古くから信仰はもっと生活に埋め込まれた曖昧なものだ。 近代化以降、日本人はキリスト教徒に、「明確に神を信仰してないと倫理がなく下等だ」と強迫されている。

一神教という考えはかなり特殊で、基本はユダヤ教から来ている。日本をはじめ、農耕民族の信仰は自然信仰の多神教で、宗教と言うよりも、生活の中の習慣に埋め込まれている。教会のような別の組織もない。それに対して、ユダヤ人は砂漠の民で、土地を持たずバラバラだから、団結を維持するために、強い神と契約教義を発明した。そしてユダヤ教の一派だったキリスト教が世界制覇することで、いまでは一神教が当たり前のようになってしまった。都市化して、人々が流動化する中で、ユダヤ人が発明した強い一神教と契約教義という方法は、有用だったのだろう。

現代日本人がいう神道は、近代ナショナリズムのことだろう。近代において民族の自立のためにつくられた標準語や、〜ですます調などの国語と同じく神道史観がつくられ、それらは近代以前にもあったように信じられている。

日本中にこれだけのお寺があり、歴史のどこを切っても仏教の影響が出てくるにもかかわらず、逆に自らの中の仏教を否定するのはすごく不自然だ。この仏教の隠蔽は、仏教を教義としてよりも生活慣習として深く取り入れたこと、また明治以降につくられた神道幻想により隠された。





日本人の太古からの信仰シンクレティズム(習合主義)


日本の信仰は、さまざまな信仰を習合したシンクレティズム(習合主義)と言われる。

  • まず1万年以上という縄文時代多神教の自然信仰がある。宮崎駿的世界?
  • 次には弥生時代水田稲作とともに大陸からきた道教的呪術がある。卑弥呼の鬼道や、古墳。水田稲作で富が偏在することで地方豪族などの氏神信仰となる。
  • 大化の改新、そして白村江での敗戦による朝鮮半島からの撤退以降、天皇による中央集権国家の確立が進む。それまでの宗教を整理した天皇国家のための律令祭礼が整備される。日本書記も天皇の正統史として書かれた。内容を見ればわかるように、神道と言われるほどに体系化された宗教形態をもっているわけではない。
  • 仏教、儒教古墳時代に伝来したとされる。世界の辺境に到来した世界最先端の知的体系である。聖徳太子のように単なる宗教としてではなく、国家統治の技術として活用される。特に様々な神、その中の多くの祟り神を沈めて国家を安定させる鎮護国家のための国家宗教として管理されて、僧侶は国家認定制となる。
  • その後、神仏習合が進むが、主となるのは仏教の知的体系である。天照大神観音菩薩とされ、神社には寺院が併設される。また仏教は家や個人の救済を受け持つことができるために貴族たちはそれぞれ氏寺など寺院を作る。




平安末期からの経済発展と宗教の民主化


日本史の次の大きな転機は、平安末期以降の武士の台頭である。これは貴族から武士への権力者層の交代よりも大きな意味を持つ。中国に宋が登場し、貨幣を基本とした経済発展を遂げる。中国国内の市場が大きくなるとともに、アジアに交易圏が生まれる。そして日本もその交易圏の一部となり、宋銭が大量に流入し、経済成長する。それは地方にも富をもたらした。この地方の台頭が武士の権力を生んだ。

中国の宋時代は、思想でも変革期にあった。仏教、儒教道教の融合が進み、民衆化が進む。仏教では、念仏教、禅宗など。これらは儒教道教が融合した仏教。また儒教では朱子学。これは禅の影響が大きい。これらは民衆の救済を対象にしている。これは新仏教は日本でも鎌倉仏教として庶民層に広がる。

またこれらの信仰の様々な融合の影響を受けて、日本書記読解をもとに伊勢神道吉田神道など、初めて神道という非仏教系の信仰体系が作られた。しかしこのような新たな神道が影響力を持つのは、江戸時代末期以降の外来に対するナショナリズムの台頭まで待つ必要がある。




江戸時代の葬式仏教


地方が富み、武士領主たちが争う戦国時代に入り、平安末期からの荘園制度は崩れて、農民の自治が進み、土地に根付いた家が安定継続する。そこに先祖崇拝、結婚、葬儀のニーズが生まれる。それまでは貧しく、共同墓地の川原や山に遺体を放置して終わりだった。あるいは老人は生きているうちに捨てられた。

葬式仏教はインド仏教にはない。本来の仏教の死生観は輪廻転生であり、死ぬと魂はすぐに輪廻する。だから死体に価値はなく川に流す。だからお墓、仏壇、位牌、戒名はない。

現代に続く日本の葬式仏教は、儒教を取り入れた中国仏教から来ている。儒教は家族、先祖を重視し、その死生観は招魂再生、先祖崇拝であり、魂が家族のもとに帰ってくるために遺体を大切に保存することが重要だ。お墓、位牌、葬儀儀礼儒教から来ている。位牌は遺体の代わりである。

農民たちが家族の死を供養することを望み、一部の僧侶が葬式仏教を始めた。最初は身分の低い僧の汚れ仕事だった。まだ死穢の文化があり、死体に触ると「穢れ」という伝染病にかかると恐れられた時代だった。そして葬式仏教は日本中に広まり、村に一軒のお寺というように万単位で増えていった。それは新たなビジネスにもなっただろう。この流れからどの宗派も葬式を行うようになっていく。

そしてそれに目をつけた江戸幕府は、国民は必ずどこかのお寺に檀家となることを義務にする寺請け制を設けて、キリスト教徒でないことの証明とともに、戸籍による庶民の管理として使った。




日本人の現世日常を重視した仏教


この日本人総仏教徒化によって、江戸庶民が敬虔な仏教徒になった訳ではないが、村にお寺があって、識字率も低い時代にお坊さんは村の知識人であり、教育者であり、道徳者であった。倫理の基準として、仏教の教えが浸透していく。

日本人が好んだ仏教の教えが、極楽と地獄の二元論だ。悪いことをしてこの世で報いを受けなかったとしても、地獄に落ちて報いを受ける。良いことをして報いられなくても死後に極楽にいける。だから善行をしなければならない。これが日本の庶民レベルでもっとも浸透した仏教の教えだろう。

そして仏教において、極楽にいける善行とは慈悲である。仏教とは無我の宗教である。我を無にして他人のために奉仕することでのみ人は苦から逃れることができる。諸行無常一切皆苦諸法無我

また日本仏教は中国仏教から日本風に大きくアレンジされている。その特色の一つが、本覚思想だろう。「ありのままのこの世界が浄土である。」、「草木はすでに悟っている。」、「人の中にはみな仏がいる。」だから難しい仏教教義よりも、日常、世俗の道徳が大切とされて、現世利益が重視される。たとえば職分仏行論では、毎日一緒懸命働くことが仏行である。あるいは日本最大派閥の浄土真宗の、唱えれば即救われるも、まさに日本人的だ。あるいは煩悩即菩提という欲望への寛容さもある。僧侶の妻帯があたり前なのも日本だけだ。




江戸時代の世間の倫理の成熟


これらから江戸時代に成熟した倫理が「世間」である。慈悲を基本に、自分や、身内のためだけでなく、みんな(世間)のために貢献することを重視とする。挨拶などの日常行為から、他人へのおもてなし、そして自らの職分を通して世間に貢献する。ミウチが富むのは悪いことではないが、それが世間のためでもあることが重要である。ミウチの事ばかりを考えるのは世間の恥である。みながみんなへの奉仕を行うだろうことで世間は成立する。一人でも抜け駆けがいると世間は成立しないので世間から排除される。

江戸時代は士農工商という縦社会とされるが、また誰もが職分を通して世間に貢献する公平・水平な社会であった。農民は農民の職分を全うする。だから武士に支配されて強制的に労働させられた訳ではなく、自治による自立した労働が認められていた。そして将軍でさえ、征夷大将軍という世間のために天下を運営する職分を全うするものである。

武士道が儒教的な縦の規律で運営されていたというのは正しくない。彼らは一握りのエリート層であり、現代の芸能人のように注目が高く、たえず世間から武士の職分を全うしているか、民のために天下を運営しているか、武士たる規律を持っているか、注目されていた。その評価は生死に関わるものだった。

たとえば赤穂浪士は当時から世間の注目のまとで武士たる行いをすることが期待された。仇討ちが果たされたとき世間は喝采した。幕府の儒教的な判断では合理性のない行為として罰せられたが、いまだに日本人が好む物語として語り継がれている。

そんな手の届くことのないような願いを捨てて 、手近なところで 、それぞれの家業をはげむのがよいのだ 。また 、幸運をつかむには 、身も心も健康であることが肝心だから 、常に油断をしてはならない 。とくに世間の道理を第一として 、神仏をまつるがよい 。これこそ日本の風俗なのだ 。

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近代の国民教化のための儒教神道幻想


日本人の現世重視の楽観さは、自然に恵まれて、征服をしらない疑似単一民族の呑気さから来るのだろう。特に徳川時代の平安によって成熟された。しかしそんな徳川幕府も終わりが来る。西洋からの外圧が増して、それに対応できない江戸幕府の弱体化から、倒幕、そして尊皇思想が台頭する。

江戸時代に武士層では、縦社会の統治を重視する儒教が重視されていた。外圧に対するナショナリズムから、儒教の影響を受け、神道を継承した国学が広まっていく。そして倒幕後の明治維新を迎えて、この儒教神道が力をもつ。

近代化とは、日本に限らずまず富国強兵を目指して、質の良い労働力と兵力としての国民を作ることである。この国民の規律訓練には、西洋からの技術導入とともにキリスト教の倫理が取り入れられたが、日本独自には、儒教神道が活用される。日本は太古から神道による神国であるという神道神話が作られる。様々な制度に儒教神道の精神性がくみこまれる。そしてそれまで神仏習合してきた仏教は排除される。

江戸時代から明治の近代化への激変は、西洋的な民衆による革命もなく、するすると進んでいく。儒教的な神道によって、天皇を頂点とする縦の規律による日本人のナショナリズムの元には、変わらず世間の水平の倫理が働いていたからだろう。将軍から天皇にかわろうが、みんな日本人じゃないか。みんな世間のためにそれぞれ貢献する。世間が敗戦前にヒステリックな監視機能となったことがあったとしても。




近代化の成功への世間の貢献


当然、現代は個人の人権を重視する民主主義、経済合理性を重視する自由主義の倫理が一番であり、それを元にした法治国家である。だから現代では世間はネガティブなものとして扱われることが多い。世間の倫理は、個人のためだけでなくみんな(世間)のために貢献すること。経済合理性よりも全体の幸福を優先するなど、対立する価値として評価されることが多い。しかし実際は日本の近代化の成功には、世間の倫理が大きく貢献した。近代化という個人の尊重、経済合理性の冷たい面を、世間の倫理は補完してきた。

  • 近代国家は法治国家なので、どこでも基本は法だが、日本人は法よりも世間が裁く文化がある。最近なら舛添が弁護士を連れてきて、法的な問題ないことで説明しようとしたが、逆にそれが、世間を逆なでした。日本人みんなを思いやる感性がないと、総叩きにあう。
  • 「空気を読む」は、慈悲のみんなに配慮することの現代版だ。自分が優位に思わず、相手に恥と思わせず、いかに配慮するか。これが慈悲が神髄である。たとえば江戸時代の武士の精神もまさに慈悲から来ていた。安易に助けられるのは切腹にも値する武士としの恥だ。この複雑な配慮から現代の「空気を読む」という日本人のナイーブさは来ている。
  • 日本製品には慈悲の精神、使い手への深い配慮がある。日本製品を通して世界に慈悲をばらまいている。中国人も慈悲を買いに爆買いにくる。
  • 慈悲を元にした世間は、日本人にとって羽毛布団のようである。軽くてきていることを感じず暖かく、クッションになる。
  • 戦後の自民党長期政権の右寄りも、結局、首相だろうが日本人なんだから悪いようにしないだろうという江戸時代からの仏教的慈悲からきている。
  • 江戸時代の時代劇は現代風に作られてはいるが、ベタに言えば義理人情など現代にもつながる精神性が江戸時代に起源を持つ故に、受け入れられやすい。

明治時代の仏教と神道の転倒がいまの日本人の精神性の喪失にも繋がっている。本来の起源としての仏教が隠蔽され、日本人は自分が何者かわからない。実際、大乗仏教が残っている国は日本以外チベット、モンゴルぐらい。特に大乗仏教の慈悲をベースにして成熟させたのは日本だけ。すなわち日本の仏教文化は、日本の固有のものでいまも精神性の中心にあることを誇りに思っていい。仏教という外来文化と違和感があるなら、日本独特の仏教を、もはや仏教ではなく、「日本教」呼べば、素直に日本人には日本教を信じていると、世界に誇れる。