日本人の近代化 資本主義、儒教、神道、仏教(テスト)

欧州のテイクオフ


ゲルマン民族大移動、そして西ローマ帝国の終焉。地中海はイスラムの時代に入る。欧州は、俗に言う暗黒時代になる。国が安定してくるのは十字軍の頃から。欧州からイスラエル圏への遠征。そこに道は出来るとともに、イスラム圏の発展を目にする。そして交易が活発になる。それを担ったのは航海技術に長けたイタリア都市国家群である。欧州、イスラム、インドの航路を独占して、富を得る。そしてイスラムの最新技術を取り入れ、そこにルネサンスが花開く。

イスラム都市国家の成功を尻目に、ポルトガル、スペインはあらたなインド航路の開拓を模索する。大航海時代の始まりだ。ポルトガルはアフリカ周りを発見し、スペインは西回りを発見した。しかしスペインからのコロンブスが到達したインドは、実は新大陸アメリカだった。そして本来のインドとの交易から、植民地主義という軍事による脅迫、征服によるあらたな富の方法論を生み出す。交易するか、植民地化するか、あるいはその中間か。安く仕入れて高く売る、安い仕入れは脅迫するか。脅迫は軍艦、大砲で行う。土地と人員は金になる。だから取り合いが始める。フランス、オランダ、イギリスの参戦で、世界は西洋により分割されていく。

交易中心の重商主義から自国生産性を重視する重農主義を経て、自由主義へ経済は発展する。それに合わせて、個人の所有、自由な経済活動が必要とされて、個人の権利の主張とともに、旧来の権力への抵抗として、カトリックに対するプロテスタント、王権に対する市民権へと、革命が起こる。

科学革命はニュートンにより熱狂となり、さらに人を理性に還元化して、合理的な社会を目指す啓蒙思想が広がる。近代国家、国民が誕生する。




日本開国へ


世界交易で日本が担ったのは、金銀銅など鉱物の輸入である。それは貨幣となり世界経済の拡大を進めた。江戸幕府鎖国は、キリスト教対策と、金銀などの海外流出を抑えるため、海外との交易の利益を独占するため。江戸幕府も統一した貨幣政策を進めるためもあり、金銀は重要だった。

しかしやがて大国中国がイギリスの軍事的な脅迫に屈する。そして黒船を代表に西洋からの開国の圧力により、日本は選択を迫られる。そして日本は近代化しなければ植民地化される。近代化により、兵力を持ち、そして野蛮ではなく近代化していること、近代国家の一員であることを示し、そして初めて対等な交渉ができる。遅れれば、西洋列強にいいようにやられる。一国ではない。一国に侮られれば、他国も同じ扱いになる。近代国家群は一員だ。

当初、攘夷で対抗姿勢だった日本も実際の衝突でその実力差をしる。今の幕府では乗り切れないと、倒幕、そしてナショナリズムの台頭から尊王へと進む。そして大政奉還明治維新へと、近代化を目指す。明治政府が進めたのは、近代人としての啓蒙。標準化された国民を生み出すこと。それが富国強兵の源泉になる。

15世紀 イタリア都市国家の富からルネサンスが始まる。インド航路を求めて大航海時代が始まる。16世紀 富は、カトリックの古い体質への抵抗として宗教革命を生む。17世紀 ニュートン革命は啓蒙思想、そしてフランス革命へ。18世紀 そして産業革命

19世紀にこの流れが一気に押し寄せてくる。1868年明治維新から、1894年日清戦争、1904年日露戦争、1939年から1945年第二次世界大戦。この短期に、近代化を遂げる。

明治維新から世界大戦敗戦まで、100年たっていない。この短期に近代化して、西洋に追いつくために、国民一丸となり、富国強兵へ邁進するしかない。そこで選ばれたのが、天皇制による国家神道であり、儒教による規律である。




儒教から神道


中国で、儒教孔子の死後、漢代になって国教として取り入れられる。しかしその後、争乱の時代では、道教や仏教が重視される。特に唐代は貴族時代であり、祈祷術や救済として仏教が全盛になる。このときに、日本も仏教時代となる。

その後、宋代で地方の時代になると、再び儒教が注目される。しかしこのときには、道教や仏教と融合された朱子学となる。かつての儒教は、権力者による統治術、徳治政治の面が強かったが、朱子学では、道教、仏教の影響から、体系化されて、個々の修練が重視される。天から人までの体系があり、誰にも理はあり、修練すれば聖人になれる。

日本に室町以降の禅僧を通して、朱子学がはいてくる。中国新仏教の念仏教や禅宗朱子学は混在で入ってくる。そして朱子学を独立して重視したのが家康である。安泰の世の武士社会の秩序を考える上で参考にされる。そして武士の中で広まったのが、元禄の頃であるが、そのとき、新たな動きとして、朱子学をただ参考にするのではなく、朱子学以前の儒教へ回帰として、荻生徂徠伊藤仁斎が登場する。これは、朱子学をまるまま取り入れるのではなく、歴史相対化して、研究する姿勢であり、その結果、かつての統治技術としての儒教が見直される。

この歴史相対的な学術姿勢は、その後の本居宣長などの国学などにも繋がる。儒教を中国の歴史によって相対化し研究することから、日本の歴史によって、日本人の思想を研究する流れが生まれることは当然である。

このような流れの中で、朱子学はいつも神道と繋がっていた。儒教の最高位の天を日本に対応されるとそこに皇祖がいる。この考えは、日本の儒教では当然である。室町以降の吉田神道など非仏教の神道体系が作られるが、そこには儒教的な要素が枠組みとしてある。

このような思想史の中で、やはり決定的なのは、江戸後期に、西洋列国が日本近海にあわれたことである。蘭学などによる西洋実情とその脅威を知った知識人達は大きく神道へと舵を切る。儒教としては水戸学、国学としては平田篤胤など。そして西洋との接近の中で、攘夷、尊皇、倒幕と、揺れ動き、倒幕、尊皇、開国へと向かう。




国家神道


明治にスタートダッシュを切ったのは、平田学派である。祭政一致をぶち上げて、神道による日本人の統一を目論む。ここにある熱狂を進めた一つは、西洋への対抗、すなわちキリスト教への対抗である。それは神道が担うべきだという自負である。神仏分離の流れで、強引に廃仏毀釈を先導する、それまでは神仏習合できて、一体としてあったものを、全国の多くの寺はつぶし、神道独立を目論む。

本来、神道は個人よりも地域を対象にしてきたが、平田篤胤は初めて個人の、家の、そして土着のカミ信仰を汲み取る。その下地を元に、平田学派は仏教の位置を目指す。しかし政府自体はそこまでの排仏を望んでいないし、さらに本来、近代化とは信仰と自由である。西洋からキリスト教弾圧への非難もある。そして政府が考えたのは、宗教の自由とともに、国家神道は宗教ではなく、日本人の慣習であるということだ。

この流れは、水戸学の流れをくむ。水戸学は儒教をベースに、西洋に対抗して、天皇中心の国家体制を進める。そして明治憲法として、天皇主権を盛り込み、教育勅語により、国民強化を進める。西洋に対抗した富国強兵を目指す。宗教としての神道である平田学派は政治の場から遠ざかる。

教育勅語 現代訳


私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。 

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。




武士道の中の儒教と仏教


儒教の目指す徳知政治では、本来の理念である権力者こそが父として徳を先導するべきだか、それは難しく皇帝による国の統治技術として活用されて、権力が腐敗する。中国の清はそれによって近代化が遅れ、結局、共産党による民主革命まで変わることができなかった。

それに対して日本は、すみかやに近代化を果たす。それは日本型儒教の特殊性があるだろう。それは江戸時代の武士を見ればわかる。まさに徳知政治を実現した支配者としての武士の特殊性である。世界史的にも稀有な存在ではないだろうか。

たとえば彼らは富を卑しいものとした。清貧を心がけ、領民のために働く。すなわち我よりも、国、領民を重視した。これは儒教の徳知政治の理想ではあるが、その精神性は儒教より仏教の影響が大きいだろう。無我、慈悲。

まず慈悲が万事の根本であると知れ。慈悲より出た正直がまことの正直ぞ、また慈悲なき正直は薄情といって不正直ぞ。また慈悲より出た智慧がまことの智慧ぞ、慈悲なき智慧は邪な智慧である。中国ではこの大宝を智仁勇の三徳という。

忘れても道理や人の道に反したことを行なってはならぬ。およそ悪逆(道に背いた悪事)は私欲より生ずるぞ。天下の乱はまた思い上がりより生ずるぞ。人民の安堵(あんど)は各人が家の職業を勤めることにある。天下の平和と政治の永続は上に立つ人の慈悲にかかっている。慈悲とは仁の道である。思い上がりを断って慈悲を万事の根本と定めて天下を治めるようにと申さねばならぬ。


東照宮御遺訓 徳川家康

中国には英雄思想がある。怪力だけでもよい人より飛び抜けた能力を持つことが英雄だ。広大な土地、多民族、人口の多さ。その中で何でも飛び抜けていることは素晴らしい。逆に、その他の人の価値は低い。生まれ死んでいくだけのただの人々。

それに対して、島国で疑似単一民族である日本では、すごく単純に言えば、だれもが身内である。系譜において誰かの父であり、子である。悪いことをすれば、祖先、子孫まで罪が及ぶ。彼もまた私であるという感受性がある。天皇の重要性は、系譜の連続性そのものが日本人を象徴するからだ。

この日本人の精神性を肉付けしたのが仏教だろう。輪廻転生という系譜の時間軸と、無我、慈悲という見知らぬものたちを思いやる空間軸。この中に日本人は住んでいる。江戸時代の平安の中で、それは「世間」と言われた。将軍も、武士も、この世間の中を生きている。だから明治維新以降は、儒教よりも武士道型神道である。

中国思想は、儒教にしろ、道教にしろ、理念は素晴らしいが、実働面が弱い。儒教の徳、道教の無はいかにして実現するのか。漢文は、漢字の配列などで美的に完成されてしまう面がある。美しいよく考えた!拍手!!!それに対して、仏教は実働面が強い。徳に対する慈悲、無に対する空。そこには実践法がある。仏教以前から長い修養文化がある。たとえばヨガは有名だが、言葉ではなく、個人でこもり、身体修養を突き詰める。

教育勅語に戻れば、儒教的でありながら、武士道として仏教の精神性が隠されている。私達の祖先とは、単に祖霊崇拝ではなく、輪廻転生する系譜である。自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、とは、無我、慈悲の感受性である。

日本人は速やかに近代化を可能にした。近代化以前の既得特権のしがらみを乗り越える。すでに「世間」には、公平性があった。支配者武士層は、全体の中の役割、すなわち職分を重視してあった。近代化による自由な活動を阻害する要因は少なかった。




儒教国家神道の中の仏教


明治以降はそれほど、儒教国家神道だったのか?儒教農本主義であり、金儲けを嫌う。縦社会は、資本主義を嫌う。明治は、資本主義が進んだ時代である。むしろ昭和の世界大戦の末期って、儒教的な国家神道は国民を覆った。むしろ庶民は江戸時代にすでに発展した市場経済の延長に明治はあったのではないだろうか。

徳川幕府にその問題は最初からあった。徳川幕府の収入は、自らの領地の年貢であった。経済が発展し物価が上がる中で、米の価格は相対的に下がり、収入は下がっていく。すでに元禄から厳しく、その後、倹約の改革を何度も行うも、倒幕まで苦しいままだった。潤うのは商人ばかり。今から思えば、西洋の封建的支配者のように民から金を取る方法はいくらでもあったはずである。土地に税をかける、商人から金を取る、市場に介入するなど・

しかし儒教的精神により、富にこだわることははばかられた。田沼意次のように、市場に介入した者もいたが、今に至るまでその評判は強欲な悪政とよくない。武士というここまで清い支配者層は世界史的にも他に例を見ないだろう。

明治維新ブルジョワ革命とも言われる。近代へすべては激変する。そこで問題はなぜこれほどの激変に日本人は短期間で順応できたのか?儒教国家神道による統一的推進?江戸時代にはすでに市場経済が発展して、その順応性から軟着陸できた?

身分制廃止、職業の自由。廃藩置県による土地からの解放、中央集権体制、義務教育、国語など標準による国民の生成、人権、倫理の確保、性倫理、宗教の自由、プライバシー

近代国家と国民の生成は、どの国でも起こった激変日本はその推進のために、儒教国家神道が重視された。儒教国家神道は、新政府の正当性の担保と推進としては、大きな力を発揮しただろうが、国民の精神性への影響はいかほどに?

江戸時代は、庶民は仏教と土着の神信仰の中に生きていた。仏教は現世主義で、職分主義とした市場経済に順応していた。それが「世間」。儒教は、武士層に神道。後期には、徐々に市民レベルにも広がっただろう。

ここに、近代化、資本主義の経済合理性と人権倫理が入ってくる。さらに国家レベルの儒教国家神道として、天皇主権、教育勅語的な儒教の規律が入ってくる。明治時代の封建的イメージ、父権主義、厳しい規律は儒教国家神道から来ている。しかし経済発展のためには、庶民の自由な活動があったはずで、そこは、江戸時代の市場経済を生きた世間の文化の活性化があった。

土着の農民層でなにが変わったか。一番は、全国一律の土地税だろう。今までは藩が管理して、それぞれの事情での交渉があったが、中央の冷たい管理になる。さらに最初は国の金欠もあり、土地税は厳しいもので、多くの農民が土地を、地主に売り払った。よく明治に、豊かな成金の地主と貧しい農民が描かれるのはこの税制による。このために子供を奉公に出す。農民は江戸時代よりもひどい状況になり、一揆が多発する。つづく