なぜ人間とは物語なのか

物語とは伏線が回収されること


近代以前の小説は、淡々と前へ前へと書かれる。古事記ホメロスガリバーの原本などの違和感は、そこです。伏線が回収されない。近代以降の小説は、始まりがあり、終わりがある。終わりが終わりであるのは伏線が回収されるからです。因果応報です。読者は回収を求まる。それが作者の見せ所です。美しく回収するか。あえて回収せずに余韻を残すか。こちらの方が読者の想像力をかき立てます。

伏線が回収されないテレビドラマは、クレームの嵐です。最近、教室の女王、家政婦のミタや、朝ドラ純と愛などで話題の脚本家は、落ちを破壊することで話題です。あえて回収を放棄し視聴者を不快にする。それが不快であるのは、そこに前提として物語とは伏線を回収されることがあるからです。

遊川和彦「最終回キレイに終わらせられない病」は治ったのか「はじめまして、愛しています」最終回
http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20160916/sum_E1473988156091.html

よいことをしたから、人生最後の瞬間に充足できて、幸福な人生だったね。悪いことしたから後悔して死んで不幸せな人生だったね。マスメディアは、社会の中の伏線を回収し物語として成立させて人々を安心させることで、近代に商売として成立したのです。ベッキーがしらっとテレビに出て、笑ってるのを見てイラッとするのは、回収されない負債がみなの中に蓄積されているからです。マスメディアはその人々の中の負債を回収する。

ボクが最近、違和感を持ったのは、去年からNHKがプッシュする「無縁死」。死んだあとに引き取り手がいない死者。孤独な老人と決めつける。でも問題は生きてるときで、一人で気楽にやっていたかも。死体は引き取らないけど、友達はいたとか。そもそも豊かな社会の自由から来てる。単に死体の処理で人生を評価するのはいかがなものか。




人生という病


近代以前は、宗教、特に世界宗教が回収を担っていた。神とは簡単に言えば、回収屋。超越的なところから、いい感じに因果応報を調整してくれる。それで人々は安心して眠れる。近代以前の人は教育もなく、どんな精神構造だったか、今となっては想像も難しいけど、基本は集団の中に埋もれてたのか。一族、家族も、曖昧だっただろうし、奴隷まで行かなくても、誰かに従属して生きる。近代の人間に対して動物。動物には人生も死もないし、次々代替されていく存在。

近代に人間は生まれたと言われます。この人間は、強い自我、個と言うことです。それは、因果応報による人生という物語です。そこに人の生と死が生まれ、人間が生まれたわけです。そして人権、民主主義が生まれた。ヒューマニズムは近代の発明だけど、往々にしてお涙ちょうだいに向かうのはその元に因果応報があるから。ようするに避妊もしない貧しい国でどんどん生まれる子供と、先進国の子供の命が等しいというのは、なんなのか。

この近代の因果応報の別バージョンとしては、意味の病がある。なんでも意味を問うてしまう、人は世界に意味を求めてしまう。その最大が、自分の存在意義なわけだけど。なぜ生きるのか。もはや人生の、そしてこの世界の伏線が回収され安心することは強迫的です。

実際、人間は慣習をただ生きるわけで、回収行為は生きることの一部。回収行為は、近代人という病、神経症だよね。フロイトは現代人はみな神経症だといいました。そしてラカンは「手紙は必ず宛先に届く」と言いました。ハイデガーの現存在は回収行為の究極なわけだけど、自己中心すぎてひく(笑)




マクロを補完するミクロ


人口統計は近代に始まった。それは近代国家に必要な行為だ。人を全体の中の一粒として扱うことは、近代国家の統治術である。全体の中の偶然のただの一人でしかない、というマクロ思考である。それがもっともわかりやすいのが、経済学をもとにした国家運営である。これをフーコーは生権力と呼んだ。まさにこのときに、人権、そして人間の人生が生まれた。全体の一粒であることがトラウマとなり、強迫的に人生を語り出す。一人一人がかけがえのない命と叫ぶ。マクロ思考へのカウンターとしてミクロ思考。

しかしマクロ思考とミクロ思考を単純な対立関係で語るのは、左派がよく使う単純な二項対立だ。実際にそこにあるのは相補的な関係だ。近代は、人口による統治を重視するとともに、その一粒一粒を人間として開拓する。キミたちは全体の中の一粒でしかない一方で、また単なる一粒ではなくそれぞれが物語をもつかけがいのない命であると教える。

これは生産と消費の関係に似ている。生産においては、全体の一粒なのだから、回りと同期して生産性をあげよ、といい。消費においては、かけがえのない人間だから多様に欲望を想起して、消費を活性化させなさい。経済成長は、この両輪がなければ、生まれない。

そもそも小説は近代の発明だ。近代には文章に大きな変化があった。論理と修辞の分離である。近代以前は言論術など修辞学が盛んで論理学は埋もれていたが、近代に論理学は大きく飛躍する。産業、科学に論理的思考が求まられたからだ。それに対して、修辞は論理と切り離されて、芸術や娯楽となった。そして小説が生まれる。それまで芸術品と工業製品の違いはなかったが、大量生産される工業製品の発展で、そのカウンターとして芸術が生まれた。ここにも、マクロとミクロがある。

マクロ  論理、大量生産、産業、科学、工業製品、
ミクロ  修辞、一品物、芸術品、小説

そして人も、同じく分離される

マクロ  多くの中の1単位、経済学的主体
ミクロ  かけがえのない命、それぞれの生と死=人生という物語

近代とは大量生産によるマクロの飛躍だ。そして残された余剰がミクロとして補完する。マクロの飛躍に対して、ミクロの補完はバランスとして求められる。バランスとは、ミクロは懸命に伏線を回収して物語を成立されて、安心を与え続ける。それが、近代構造だ。

人口が管理されようとしてたこのときほど、規律が重要なものとなり、価値あるものと見なされたこともありません。人口を管理するとは、単にさまざまな現象のなす集団的な集積物を管理するということでも、単に包括的結果の水準で管理するということでもない。人口を管理するということは、これを深く繊細に、細部にわたって管理するということでもあるのです。
したがって、統治を人口の統治として考えることは、主権の創設に関する問題をさらに先鋭化させるものであり、さまざまな規律を発展させる必要もさらに先鋭化されます。・・・というわけで、主権社会の代わりに規律社会が出てきたとか、規律社会の代わりに統治社会というようなものが登場したというふうに物事を理解してはならない。ここにあるのはじつは主権・規律・統治的管理という三角形なのです。主権的管理の標的は人口であり、主権的管理の本質的メカニズムは安全装置です。P131-132


安全・領土・人口 ミシェル・フーコー  ISBN:4480790470 

十八世紀後半における最初の産業革命にはじまる近代的技術の発展と、ますます広範で疎外的なものとなる労働の区分にしたがって、人間が生産した事物の存在のステータスや様態は、実際に二重になる。一方では、美学のステータスにしたがって・・・芸術作品があり、他方では、技術のステータスによって・・・・狭義の製品がある。芸術作品という特殊なステータスが打ち立てられたのは、独創性(もしくは真正性)における美学の発生以来のことなのである。
労働の区分から出発して考えると、人間の生産活動の二重のステータスは、・・・美の領域における芸術の特権的ステータスは、手の労働と知的労働がいまだ分化しておらず、それゆえに生産活動が完全性と唯一性を維持している状態の残存であるということになるだろう。その一方で、労働の極端な区分という状態から生ずる技術的生産は、本質的に代替可能で再現可能なままである。人間のポイエーシス的活動の二重のステータスの存在は、いまやあまりにも自明のものにみえるので、われわれは芸術作品が美的次元に入るのが比較的最近の出来事であること、そして・・・人類の文化的生産が、本質的なかたちでその様相を一変させたということを忘れてしまう。この分裂の最初の帰結として、修辞学や教則集といった学、工房や美術学校といった社会的機関、文体−様式の反復、図像学の継承、文学的後世に求められる文彩といった芸術的要素の組合せが、それぞれ急速に衰亡したことが挙げられる。P89-91


中身のなか人間 ジョルジョ・アガンベン  ISBN:4409030698