日本人の法則 慈悲の経済則(エコノミー)

慈悲の経済則(エコノミー)とは


ボクが言いたいことは簡単なことで、日本人は勤勉である、ということ。これは散々あちこちで言われている。そしてその勤勉さは、慈悲の経済則(エコノミー)で作動している、ということ。
では、慈悲の経済則(エコノミー)とはどのようなものか。

・世間へ貢献する。特に職を通して貢献する。
・貢献したことを気づかれて気遣いをさせないよう貢献する。

これを経済則として表現すると、人類共通の原初的な経済則である「贈与に対して返礼する」贈与交換に対して、

・世間へ「見返りなく贈与する」。特に職を通して「見返りなく贈与する」。
・「贈与した」ことに気づかれて「返礼」しないといけない気遣いをさせないよう「贈与」する。

たとえば簡単な例として「おもてなし」を考えると、おもてなしとは、相手が誰であるかに関わらない世間へのもてなし(貢献)である。そしてもてなし(貢献)したことを気づかれて気遣いをさせないようもてなすことを究極とする。

これを仏教でいうと「三輪清浄」という。

後代の仏教においては、他人に対する奉仕に関して「三輪清浄」ということを強調する。奉仕する主体(能施)と奉仕を受ける客体(所施)と奉仕の手段となるもの(施物)と、この三者はともに空であらねばならぬ。とどこおりがあってはならぬ。もしも「おれがあの人にこのことをしてやったんだ」という思いがあるならば、それは慈悲心よりでたものではない。真実の慈悲はかかる思いを捨てなければならぬ。かくしてこそ奉仕の精神が純粋清浄となるのである。P129

慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220

いままで日本人が勤勉であることはわかっていたが、その詳細が謎であった日本人の法則を、突き止めたことで、様々な応用が可能になる。まず歴史をより詳細に分析でき、そして反省できる。それによって、これからの未来のあり方を考えることに有効である。




日本人の勤勉さは自主的な最善、改善への頑張り


対価のために仕事をする、すなわち等価交換することは世界的には当たり前だが、逆に対価のためだけに仕事をする日本人なんてはいるのだろうか。

これは、明治中期になってからのことだが、アリス・ベーコンはこう言っている。「自分たちの主人には丁寧な態度をとるわりには、アメリカとくらべると使用人と雇い主との関係はずっと親密で友好的です。しかも、彼らの立場は従属的でなく、責任を持たされているのはたいへん興味深いことだと思います。彼らの態度や振る舞いのなかから奴隷的な要素だけが除かれ、本当の意味での独立心をのこしているのは驚くべきことだと思います。私が判断するかぎり、アメリカよりも日本では家の使用人という仕事は、職業のなかでもよい地位を占めているように思えます」。召使が言いつけたとおりでなく、主人にとってベストだと自分が考えるとおりにするのに、アリスは「はじめのうちたいそう癪にさわった。しかし何度か経験するうちに、召使の方がただしいのだと彼女は悟ったのである。

彼女は主著"JapaneseGirlandWomen"においてこの問題をもっと詳しく論じている。「外国人にとって家庭使用人の地位は、日本に到着したその日から、初めのうちは大変な当惑の源となる。
仕える家族に対する彼らの関係には一種の自由がある。その自由はアメリカでならば無礼で独尊的な振る舞いとみなされるし、多くの場合、命令に対する直接の不服従の形をとるように思われる。家庭内のあらゆる使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやり方で行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使にとって美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従って事を運ぶのでなければならぬ。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。日本での家政はつましいアメリカの主婦にとってしばしば絶望の種となる。というのは彼女は自分の国では、自分が所帯の仕事のあらゆる細部まで支配するからであって、使用人には手を使う機械的労働だけしか与えないという状態になれているからだ。

彼女はまず、彼女の東洋の使用人に、彼女が故国でし慣れているやり方で、こんな風にするのですよと教えようとする。だが使用人が彼女の教えたとおりにする見込みは百にひとつしかない。ほかの九十九の場合、彼は期待通りの結果はなし遂げるけれど、そのやりかたはアメリカの主婦が慣れているのとはまったく異なっている。使用人は自分のすることに責任をもとうとしており、たんに手だけではなく意志と知力によって彼女に仕えようとしているのだと悟ったとき、彼女はやがて、彼女自身と彼女の利害を保護し思慮深く見守ろうとする彼らに、自分をゆだねようという気になる。外国人との接触によって日本人の従者が、われわれが召使の標準的態度とみなす態度、つまり黙って主人に従う態度を身につけている条約項においてさえ、彼らは自分で物事を判断する権利を放棄していないし、もし忠実で正直であるならば、仮にそれが命令への不服従を意味するとしても、雇い主の為に最善を計ろうとするのだ」。


「逝きし世の面影」 日本渡辺京二 (ISBN:4582765521

ここにあるのは、今も変わらない日本人の姿だ。日本人の勤勉さは単なる頑張りではなく、自主的な最善、改善への頑張り。なぜなのか言われても、日本人はそれが当たり前だからとしか言えないだろう。もはや慈悲の経済則(エコノミー)がからだに染みついている。

慣習と言えば西洋では心身二元論の伝統から精神、意思に比べて下等なものも考える。しかし日本人の懸命な勤勉さという慣習の中にこそ、知性がある。最善、改善という高度な慣習。日本人の身体の中には仏がいる。

どの仕事もみな仏道修行である。人それぞれの所作の上で、成仏なさるべきである。仏道修行で無い仕事はあるはずがない。一切の[人間の]振舞いは、皆すべて世の為となることをもって知るべきである。鍛冶・番匠を始めとして諸々の職人がいなくては世の中の大切な箇所が調わない。武士がなくては世が治まらない。農人がいなければ世の中の食物が無くなってしまう。商人がいなければ世の中の[物を]自から移動させる働きが成立しない。このほかあらゆる役分として為すべき仕事が出てきて世の為となっている。

このような有り難い仏の本性を人々[は皆]具えている。本当に成仏を願う人であるなら、ただ自分自身を信じるべきである。自身とはつまり仏であるから、仏の心を信じるべきである。


万民徳用 鈴木正三