日本人の勤勉エネルギー

日本人の道徳は無我


日本人の道徳の基本は無我である。自分を主張しすぎることや、自分、あるいは自分のミウチの自慢をするとか、は嫌われる。周りを見て抑えることが美徳である。空気を読むことの基本は、周りがあえて自己主張しすぎないよう抑えている状況を読み適度に自分を出すという配慮が求められる。そこで自分が!自分が!と出しゃばる人は空気を読めない人と排除される。

このような無我の道徳は、仏教から来ている。仏教では、この世の苦しみは我にこだわるところから来ていると考える。だから無我の境地に達することで、苦しみから解放される仏となる。その実践が慈悲である。我というこだわりを捨てて、他者に奉仕すること。このような仏教の無我の教えが、日本人の道徳の基本に根付いている。




慈悲と勤勉さ


慈悲の実践で重要なことは、単に他人に奉仕することではない。それが無我ではない。突然、他人に奉仕すれば、それは他人への我の主張となる。慈悲の実践では、我を主張しないように他人へ奉仕する配慮が求められる。日本人の慈悲は、直接的ではなく、間接的に行われることに美徳がある。

たとえば日本人の勤勉は美徳であるが、自らが儲けるためだけに懸命に働くことは勤勉ではない。勤勉はそこに奉仕の精神が求められる。懸命に働き儲けることが悪いことではないが、それが人のためになること、世間のためにもなるように懸命に働くことを、それが勤勉の美徳である。これは間接的な奉仕であり、無我の道徳、そして慈悲の実践がある。




勤勉のエネルギー


無我の道徳を内包した勤勉の思想は、江戸時代中期から心学として広まり、日本の経済を発展させていく。明治に入っても勤勉の思想は広がる。明治政府は富国強兵政策を進めるために、地租改正で今まで以上に農民に税を課し、農民は払えないと土地をうり地主に雇われるようになる。あるいは資本主義化によって労働者となるが、過酷な条件の中で働かされる。近代化の現象として、格差に巻き込まれていく。そして西洋同様に自由民権運動や、労働運動、参選権運動、社会主義運動が展開されるが、西洋までには発展しない。

その理由の一つが、勤勉の思想である。労働者たちは、外部を疑う前に、自分たちが貧しいのは勤勉が足りないと精神論へ向かう。さらに、勤勉の世ためには道徳は、天皇の世のためにと変換されて国家神道として教化される。それでも無我の道徳を内包した勤勉の思想は、多くの犠牲を生みながら、大きなエネルギーとなり、短期間での近代化を成し遂げていく。