なぜ教育勅語はいまも日本人の理想なのか 天皇と通俗道徳


教育勅語 12の徳目


1. 親に孝養をつくしましょう(孝行)
2. 兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)
3. 夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)
4. 友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)
5. 自分の言動をつつしみましょう(謙遜)
6. 広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)
7. 勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)
8. 知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)
9. 人格の向上につとめましょう(徳器成就)
10. 広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)
11. 法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)
12. 正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)




天皇と公平な共同体


左翼は過去から現在を批判し、社会を一から設計しよう、設計できるとする。それに対して、右翼は社会を一から設計することは困難と考え、過去から現在を尊重した上で改善する。右翼は、日本人は、過去において公平な共同体を形成してきたと考えるが、古代の天皇による祭政一致に重きをおくのは明治以降である。

西郷隆盛は、明治の行き過ぎた近代化による格差社会に対して、江戸時代に見習うべき公正な共同体があったと考えた。そして西南戦争を起こした。しかし敗れ、この系譜は、北一輝から青年陸軍将校による昭和維新へと引き継がれる。世界大戦の敗戦により、天皇信仰とともに公に語られることはなくなったが、昭和維新後の陸軍主導による、株主より従業員重視の企業、終身雇用、下請制、国家主導の産業界、地主から解放される土地制度などの改革は1940年体制として組み込まれ、戦後から現在まで受け継がれている。

それは戦争に向けた体制であるとともに、昭和維新の企業利益より国民重視をよしとする理念により、格差を抑制し公平な社会を作る国家社会主義的な面が取り入れられている。これは、戦後の民主主義化においても、変わらず生き残っただけでなく、戦後の高度成長期において、国家主導の産業推進、従業員重視の企業体制は大きな働きをした。戦後、右翼は敗戦の記憶と結びつき、嫌悪されてきた。しかし右翼思想は日本の社会の基本となり継承されてきた。

日本型企業や業者行政など 、しばしば日本特有と考えられているものは 、昔から存在していたのではなく 、総力戦遂行という特定の目的のために導入されたものだった 。金融も 、自由な市場での直接金融方式から統制的な間接金融に変質した 。
税財政制度もそうである 。税制は 、それまでの地租 、営業税中心の体系から 、直接税中心の体系に変わった 。地方財政は 、分権的なものから 、国に依存する体質に変化した 。
農村の状況も 、大きく変わった 。江戸時代から継続していた地主と小作人の関係が 、食糧管理制度の導入によって本質的な変化を遂げたのである 。都市における地主の地位も 、 「借地法 ・借家法 」の強化によって弱体化された 。
制度だけでなく 、人々のメンタリティ ーも変わった 。官僚制度そのものは 、明治以来の歴史をもつが 、官僚の意識は 、新官僚革新官僚などの言葉が示すように 、従来のものとは大きく変わった 。
戦後日本社会の特徴といわれる平等主義も 、日本社会のもともとの特質とはいえない 。日下 [一九九四 ]は 、それまでの日本企業では 「月給取り 」の正社員は少数で 、 「日給 」の工員や職員との間に画然とした差があったこと 、 「オ ール月給化 」は一九三八年頃からの新しい制度であること 、これが従業員のモラル向上に大きく寄与したことを指摘している 。
競争制限もそうである 。例えば 、現在の日本では 、食糧管理制度により 、コメの取引は政府管理下におかれている 。しかし 、江戸時代には 、日本のコメ市場は 、自由な市場原理の支配する市場であり 、世界最初の大規模な先物市場を形成していたほどであった 。

1940年体制(増補版) 野口悠紀雄 ASIN:B00979PHW6




江戸時代の公平な共同体


では江戸時代の日本人の公平性とはなにか。江戸時代は身分制度が厳しく、差別の社会ではなかったのか。確かに江戸時代は身分による差別はあった。左翼は西洋史に照らし合わせて、日本史を語る。しかし士農工商制度は縦関係とともに、横関係の制度でもあった。それは職分においてである。士農工商とは職の分類であり、それぞれが職を全うすることで世の中を豊かにするという役割をもつ。これは仏教の慈悲から来ている。慈悲において、我を滅して他者に奉仕すること、世界全体が救済されると考える。そこから職分は仏行であるとした職分論が生まれ、士農工商の横関係を支えた。

このような職分論が浸透した背景には、江戸幕府による寺請制がある。国民全員がどこかの寺に帰属しなければならない。これはキリシタン排除とともに戸籍の役割をして、国民管理制度として機能する。しかしこの寺請制は単に江戸幕府が強制的に導入したというよりも、すでに社会に広まっていた檀家制を利用した。

日本の社会が大きく変化したのは戦国時代である。応仁の乱後、日本の社会秩序は乱れて、戦国時代に入るが、中世に農民を管理していた荘園制は統治者が曖昧になり、崩れて農民たちは自力で村の自治を行うようになる。その中で豊かになり、家として継承されるようになる。それまで死者は共同墓地に放置されていたが、死んだ家族を弔う、先祖供養という需要が生まれて、葬式仏教が広まる。このために村々に寺が誘致されるようになる。寺は葬式だけでなく、教育機関などの役割を果たすようになる。

天下を統一した秀吉は国家統治にこれを利用する。検知を行い、家を明確にして、税を直接徴収する。また職を明確にして、農村から武士、商人を分離して、農民の刀狩りにより武力を排除する。さらに徳川幕府が進めたのが、寺請制である。戸籍を明確にするとともに、仏教を浸透させた。これにより士農工商は、縦横に統治技術として機能した。




職分論としての世間体


実際には職分論は現代でいう世間体として機能した。世間体と言っても、土地や制度に固定され、また周りの助けなくては生きていけない時代、世間体は生死を分けるものだった。 世間は、互いの職分を認め合い、助け合い、そして全うしているかを互いに監視する。それは身分を超えて働く。たとえば武士も職分が細分化されて役割をもち、武士同士だけでなく、商人や農民からも監視されて、その世間体は命に関わった。

武士は支配層に関わらず、貧困に苦しんだ。享保の改革に始まり、幾度も質素倹約の改革が行われたが、幕府、藩自体が財政難に苦しんだ。年貢を財政の主としていたために、米相場以上に市場経済の物価上昇が大きく、相対的に収入が減ったためと言われる。当然、商人層は大儲けするわけだが、それに対して武士層は金儲けを卑しいとして、質素倹約を基本とした。世間に対して、武士の職分である徳政を自ら実践し、指導する役目を全うする姿勢がある。武士が家系の体面を自らの死をかけて守ったことはよく知られるが、そこにも同様な世間体が関係する。そもそも戦争が終わった時代、戦闘を職分とした彼らの存在意義、そして農民からも富を徴収できる理由を絶えず問われ続けていた。





「国民とは天皇のために死ねことなり」


たとえば儒教的な縦の関係として武士がいるだけでは、それほど追い詰められることはないだろう。仏教の慈悲において、すなわち世間のための職分において、武士道は思考された。「武士とは死ねことなり」という考えは決して儒教からは出てこない。武士の究極の職分として、主君のために無我となることが職分である。もはや戦いがなくなった中でも、忘れては世間に示しがつかない。使うことがない刀を腰に下げた姿が滑稽になってしまう。

このような武士道は、明治以降に庶民に教育されていく。明治の権力者たちの多くは元武士であり、富国強兵のために、一人前の国民として教育するために、彼らが持っていたものは武士道であった。そして主君に変わり、天皇が掲げられた。武士の職分として、主君への忠義が、国民の職分として、天皇への忠義と変換された。そして武士道という武士の究極の職分論は、太平洋戦争で追い込まれたとき、玉砕思想を生み出す。「国民とは天皇のために死ねことなり。」




世間と通俗道徳


しかし一方で、江戸時代の職分論は、石田梅岩などの勤勉革命へと繋がっていく。特に江戸時代後期に、商人の職分論は、商人は卑しくない。商売は世間を豊かにする大切な職分であり、金が儲かるのはその結果でしかない。特に市場経済が広がる中で、実際に勤勉に働くことが豊かさにつながった。この勤勉は、二宮尊徳や明治期の老農などの農業技術指導者のもと、勤勉、節約、孝行、和合、正直、謙譲、忍耐などの日本人としての通俗道徳として広まっていく。

世間は仏教伝来とともに伝わった古い言葉で、もともとはあの世とこの世のすべてを含めた世界全体を表す仏教用語だった。それが徐々に今のように生活圏を表すような意味として一般化していく。それでも世間に恥じないように、など倫理的な基準のとしての意味を持ち続ける。世間がネガティブな意味に変わるのは、近代化により、ソサエティ(社会)と言う言葉が入ってきてからだ。社会は民主主義を倫理とする言葉で、世間の倫理は民主主義と対立する面があるために、徐々に世間はネガティブな言葉として使われるようになった。それでもいまも日本人は社会の正義より、世間の通俗道徳を優先する面がある。




天皇と通俗道徳


明治以降、天皇とはなんだったのかという議論がある。明治憲法を作った伊藤博文は、天皇機関説も取っていたと言われる。国家の一機関であり、立憲君主制において、決して絶対的な君主ではない。しかし昭和初期に天皇機関説を語った憲法学者美濃部達吉は、陸軍など右翼層により弾圧された。彼らにとって天皇は犯されざる神聖な存在であり、それを一機関と呼ぶとは不敬である。

方や、昭和天皇自身は民主的な思想の持ち主で、陸軍による侵略的な思想を嫌ったと言われる。しかし陸軍を中心とした政府による軍国主義的な政策に反対することはできなかった。昭和天皇は明治以降の天皇天皇機関説的な存在であることを良くわかっていた。基本的に天皇は何らかの思想に肩入れし、自らの意見をいってはならなかった。それにより穢れてしまう。いつも清浄な存在であることが望まれた。それはまた一面で通俗道徳と重なる面がある。自らの欲を滅して国民のために存在する清浄さ。教育勅語は通俗道徳的であるとともに、天皇が自ら体現する姿でもあり、だから国民は少しでも近づけるように、修練しなければならない。

教育勅語天皇制と結びつけられることが多いが、多くにおいて通俗道徳を語っており、現代においても有用である。この天皇制と職分論の混同が、現代に右翼思想を語ることを困難にしている。

通俗道徳 http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/4T/tu_tsuzokudotoku.html


「江戸時代中後期の商品経済の展開とともに規範化されてきた勤勉、節約、孝行、和合、正直、謙譲、忍従などの、当為の徳目としてかかげられた日常の生活態度。この儒教的諸徳目は、18世紀末の石田梅岩石門心学、19世紀初の二宮尊徳の報徳社、大原幽学、中村道三らの老農により唱導され、豪農商や知識人による民衆教化の徳目となることで、家や村を没落の危機から救うための実践すべき生活規範として広範な民衆の日常生活に浸透していった。また通俗道徳は、幕末以降の近代転換期に創唱された丸山教大本教などの民衆宗教の教説にもつらなる。あるいは非合法闘争である百姓一揆の指導者とされたもののもつ自己鍛錬という通俗道徳規範が、強訴徒党を抑制してもいた。

生活規範そのものの実践が目的であるにもかかわらず、その結果としていくぶんかの富が得られるという功利性や、民を保護すべき領主を恩頼するという仁政観念との相互規定性により、通俗道徳は幕藩体制を支えるイデオロギーとなった。しかし他方で通俗道徳の実践は、「生死も富も貧苦も何もかも、心一つ用ひやるなり」(黒住宗忠)と、心の無限の可能性をも自覚化することとなり、ここにはじまる広範な生活者の主体的な自己形成・自己鍛錬への努力が、祭礼や遊興の制限や賭博・浪費の禁止を心がけるなど、生活や心の革新による新たな人間像を創出した。これらの通俗道徳の実践は日常生活における人間存在そのものも変えることで、日本の近代化を根底から支えるエネルギーとなったが、しかし他方で社会の全体性を認識する思想体系には至らず、天皇イデオロギーの土台となった」(阿部[2001:361])