日本人の右翼の系譜(テスト)

1 葬式仏教/士農工商体制/仏行職分論
2 勤勉革命/通常道徳/老農
3 西南戦争昭和維新/1940体制


1 葬式仏教/士農工商体制/仏行職分論


江戸幕府の寺請制という、幕府による寺の登録制とその寺への国民の登録制による、庶民管理は有名であるが、これにより庶民が檀家になったわけではない。すでに庶民に広まっていた葬式仏教を江戸幕府が利用した。戦国時代の荘園制の解体後、自立し豊かになった農民が家系として継続することで、祖先を弔う葬式仏教が普及した。村々に寺ができ、葬式のみならず、相談や教育など広く知識機関として機能し出す。

幕府が寺を利用したのは単に庶民の登録制としてだけではない。徳川家はもともと浄土系の信心深い家系であったが、家康も熱心な仏教徒であり、仏教を統治技術として利用する。士農工商は単に儒教的な縦の支配関係ではなく、庶民の職分を規定し、職分において対等であるとした。それを言葉として明確に示したのが出家前は家康の家臣だった鈴木正三の仏行職分論であるが、この本がそのまま国民に広まり機能した訳ではないが、鈴木正三の考えは家康も共有していた。すなわち国のために庶民が職分全うすることで国が豊かになる、。それは武士も例外ではない。武士は権力者であるとともに、庶民のために行政、治安、政治を司る職分である。武士のストイックさはこのような職分から考えないと見えない。大乗仏教は慈悲の宗教であるが、慈悲とは無我により他人のために奉仕することである。仏行職分論では、無我により世間のために職分を全うするとなる。そして無我は究極的には自らの死を賭ける。武士のストイックさは、職分のために死を捧げるところを究極とする。




2 勤勉革命/通常道徳/老農


方や、鈴木正三の仏行職分論は、ウェーバーの言う資本主義の初期のプロテスタンティズムの勤勉さと対比される。市場経済は、元禄には江戸など大都市に、そして江戸中期になると全国の都市に広がる。このころ、石田梅岩の勤勉思想は商人に広く浸透するが、そこには職分論がある。商人は金儲ける卑しさ職という偏見に対して、世間のための職分であることで、農民、武士に劣らず尊いとされる。職分の勤勉さが肯定されるとともに、市場経済の中で実際に富を得ることができた。そして、この勤勉革命は明治になって、国の推奨として広がっていく。そして勤勉、節約、孝行、和合、正直、謙譲、忍従などの通俗道徳は、老農により技術とともに広められている。

通俗道徳 http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/4T/tu_tsuzokudotoku.html


「江戸時代中後期の商品経済の展開とともに規範化されてきた勤勉、節約、孝行、和合、正直、謙譲、忍従などの、当為の徳目としてかかげられた日常の生活態度。この儒教的諸徳目は、18世紀末の石田梅岩石門心学、19世紀初の二宮尊徳の報徳社、大原幽学、中村道三らの老農により唱導され、豪農商や知識人による民衆教化の徳目となることで、家や村を没落の危機から救うための実践すべき生活規範として広範な民衆の日常生活に浸透していった。また通俗道徳は、幕末以降の近代転換期に創唱された丸山教大本教などの民衆宗教の教説にもつらなる。あるいは非合法闘争である百姓一揆の指導者とされたもののもつ自己鍛錬という通俗道徳規範が、強訴徒党を抑制してもいた。

生活規範そのものの実践が目的であるにもかかわらず、その結果としていくぶんかの富が得られるという功利性や、民を保護すべき領主を恩頼するという仁政観念との相互規定性により、通俗道徳は幕藩体制を支えるイデオロギーとなった。しかし他方で通俗道徳の実践は、「生死も富も貧苦も何もかも、心一つ用ひやるなり」(黒住宗忠)と、心の無限の可能性をも自覚化することとなり、ここにはじまる広範な生活者の主体的な自己形成・自己鍛錬への努力が、祭礼や遊興の制限や賭博・浪費の禁止を心がけるなど、生活や心の革新による新たな人間像を創出した。これらの通俗道徳の実践は日常生活における人間存在そのものも変えることで、日本の近代化を根底から支えるエネルギーとなったが、しかし他方で社会の全体性を認識する思想体系には至らず、天皇イデオロギーの土台となった」(阿部[2001:361])




3 西南戦争昭和維新/1940体制


江戸時代末期には幕府は貧困に喘いでいた。市場経済が広がり物価が上がる中で、米による年貢に頼っていたからだ。米価は下がり物価はあがる。明治に入っても政府の財政難は変わらない、そして土地は農民のものとなったが厳しい土地税により苦しみ、地主に集約されていく。さらに富国強兵から財閥支援に金が費やされ、労働者は低賃金での過酷な労働を強いられることになる。明治を推進したのは、薩長藩閥大久保利通伊藤博文などであるが、彼らは西洋に学び、追い越いうことに力を注ぎ、西洋においても問題となった資本主義経済による格差問題への対処をおいた。さらに西洋をよく学んだ彼らはプロレタリア革命の怖さもよく知っており、左翼を徹底的に弾圧した。

明治維新後、政府から離れた西郷隆盛の起こした西南戦争とはなんだったのか。近代化に取り残された武士による氾濫と考えられがちだが、西郷隆盛が目指したのは、明治維新に続く、第2維新だった。急速な近代化により、武士のみならず、農民など下層が貧困に陥りっていた。一部の薩長藩閥政府の独占的な運営と、財閥や権力者優位の政策へ反動であった。

西郷は敗れるが、その意思は伝わっていく。たとえば昭和維新を目指した北一輝が西郷を先人と考えたのはそのためである。明治以降の資本主義化によるむき出しの格差の時代であった。それが頂点に達したのは昭和初期の昭和恐慌である。アメリカの世界恐慌とも重なり、子供女の身売りが広がった。その時、労働争議など下層の抵抗は最高潮に達したが、政府により徹底的に弾圧された。

その中で力を持ったのが右翼運動である。そもそも農民は自営であり、左翼とは相性が良くない。そして軍部の兵隊たちの多くは農家の息子たちである。右翼は、天皇のもと、格差解消、公平な社会を目指して、政治家、財閥幹部へのテロを繰り返す。その究極が226事件である。彼らは北一輝国家社会主義的思想に大きく影響を受けて、軍事クーデターを実行、失敗はしたが、その後、社会は陸軍主導の、国家統制的な政治運営へ変わっていく。それは1940年体制と呼ばれてる。1940年体制は、日中戦争に向けての国家総動員体制であるとともに、昭和維新よる国家社会主義的な政策でもあった。企業は株主より従業員中心へ、終身雇用、年功序列の普及、下請制普及。国による企業統治強化。国家のために生産性をあげる重視。地主の地位を低下させ、土地の開放など。現在までつづく日本型の資本主義が生まれた。

国体論及び純正社会主義  北一輝  「北一輝 渡辺 京二 ちくま学芸文庫 ISBN:4480090460


明治維新革命
 1)帝国憲法の水準では社会主義国
 2)藩閥政府と教育勅語の水準では天皇専制国家
 3)現実の経済制度の水準ではブルジョワジー・地主の支配する資本制国家
  ・明治維新革命は明治憲法までの民主主義革命。
  ・神権主義的な天皇像は君侯の「忠順の義務」を解除するために作られたもの。
   歴史学的にも天皇は古代からの神聖な支配者ではなかった。
  ・天皇は国民の支配者ではなく、国家の一機関。
  ・ブルジョワ市民社会個人主義ではなく、献身的道徳による国家社会主義を実現すべき。
   国家は支配者の権力装置ではなく、国民の平等な政治的団結を示す社会。


来たるべき第二維新革命・・・科学的社会主義革命
 1)問題なし
 2)天皇専制国家を反国体、憲法違反として無化
 3)ブルジョワジー・地主の経済的階級支配を廃絶する

右翼は、北一輝天皇機関説はおいて、ブルジョワジー・地主の経済的階級支配を管理して、献身的道徳による国家社会主義を実現しようとする。陸軍を中心とした右翼が考える献身的な道徳とはなにか。国のために、そして世間のために献身的に役割を全うする。北一輝社会主義と言っても、共産主義を目指したわけではない。資本主義は肯定し、そして行き過ぎた利益重視や、権力の独占による格差を生まないような、計画経済を目指した。

自由主義、すなわち経済的右翼と、共産主義、すなわち経済的左翼、平等の軸と言ってもよい。自由競争経済により平等を実現するか、富の分配により平等を実現するか、そこに日本人の伝統的な道徳という軸を入れる。すなわち公平性の軸である。いかに公平性を実現するか。みなが道徳的であることによってである。これは曖昧であるが、日本人なら可能である。すなわち道徳とは文化によって異なるが、日本人はハイコンテクストによって、共有している部分が多い。これは昭和維新から現代まで続く日本人の近代システムだ。

Wiki 教育勅語 12の徳目


1 .親に孝養をつくしましょう(孝行)
2. 兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)
3. 夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)
4. 友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)
5. 自分の言動をつつしみましょう(謙遜)
6. 広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)
7. 勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)
8. 知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)
9. 人格の向上につとめましょう(徳器成就)
10. 広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)
11. 法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)
12. 正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)

1940年体制  「1940年体制(増補版) 野口悠紀雄 ASIN:B00979PHW6


1 「日本型」の企業構造
<体制前> 
・株主のための利潤追求の組織よりも、従業員の共同利益のための組織
・戦前期において、日本でも経営者は会社の大株主であり、企業は株主の利潤追求のための組織だった。
<体制後>
・1937年「国家総動員法」により、配当が制限され、株主の権利制約され、従業員中心の組織へ。従業員の共同体としての企業が形成。
・終身雇用制や年功序列賃金体系は戦時期に賃金統制が行われ、全国的に普及。
・先進諸国では産業別組合、日本では企業別労働組合
・下請制度も、軍需産業の増産のための緊急措置として導入


2 金融システム
<体制前>
・1930年代ごろまで日本の金融システムは、直接金融、とりわけ株式による資金調達が比重が占めていた。
<体制後>
・戦時期に間接金融へ。資源を軍需産業に傾斜配分させることを目的とした。
・配当が制限されれば、株価は低下し、株式市場からの資金調達が困難になる。企業形態が株式中心のものから従業員中心のものへ。


3 官僚体制
<体制前>
・官僚が民間の経済活動に直接介入することは少なかった。
<体制後>
・1930年代の中頃から、多くの業界に関して「事業法」が作られ、事業活動への介入が強まった。
・業界団体、営団、金庫などは、形を変えながら現在の生き残り、経済活動に対する官僚統制や行政指導の道具として、あるいは官僚の天下りとして、重要な役割を果たしている。
革新官僚の登場。企業は利潤を追求するのではなく、国家目的のために生産性をあげるべき。現在に至るまで、官僚の意識に大きな影響を与えている。


4 財政制度
<体制前>
・戦前期の日本の税体系は、地租や営業税など、伝統的な産業分野に対する外形標準的な課税を中心とする。地方財政は自主権をもっていた。
<体制後>
・1940年の税制改革で、世界ではじめて給与所得の源泉徴収制度が導入。また法人税が導入され、直接税中心の税制が確立された。税財源が中央集中化され、特定補助金として地方に配る仕組みが確立。現在にいたるまで日本財政の基本的な性格。


5 土地制度
<体制後>
・経済的・社会的弱者に対する保護制度が社会政策的な観点から導入された。
・1942年に制定された農業政策の「食糧管理法」。単なる食糧管理にとどまらず、江戸時代から続いた地主と小作人の関係を大きく変え、地主の地位を大きく低下させた。
・1941年「借地法・借家法」の改正。契約期間が終了した後でも契約が解除しにくくなった。戦後むしと強化され日本社会の基本的な性格を規定した。地主がいない社会、大衆社会を作った。経済成長や産業化が社会全体の目的とされた。大多数の世帯が不動産の所有者である状態を作り出す。