キミはプラトン主義の呪縛から逃れられるか

プラトン主義とピタゴラス


プラトン主義を考えるとき、師匠のピタゴラス教を考える必要がある。ピタゴラス教は輪廻転生を基本とする。人は生まれる前に魂として、すべてが調和された完全な世界に住んでいる。それがこの世界に生まれるときに、生まれる前の記憶は失われて、肉体をもち欲望などの下俗の欲を持つ。

だから重要なことは想起である。肉体からの欲を抑制して、生まれる前の完全な世界の記憶を取り戻すこと。そして調和された完全な世界は数学によりできている。だからピタゴラス教において数学は神の言葉である。数学的な調和を探求する、想起することが重要である。

基本的にプラトン主義はピタゴラス教を継承している。ピタゴラスが数学にこだわったのに対して、プラトンイデア論として、ものへと拡張した。プラトンの理想の国家は、もっとも完全な世界を想起した哲学者を統治者にして、国民は肉体を管理するように禁欲的で鍛錬し、そしてそれぞれに適した役割を担う。




プラトン主義は科学技術として復活した


ここで重要なことは、完成された世界がすでに存在していること。イデア論それを魂=精神は知っている。人は完成された世界を作り出すのではなく、想起するということ。心身二元論、理性主義。

世界の完全な設計図=イデアはすでに存在し、理性はそれを知っていること。ここにプラトン主義の最大の特徴である客観主義がある。このとき理性はこの世界の外に立っている。設計図とこの世界を客観的に見比べる神の位置を獲得している。まさに科学はこの客観主義を引き継いだことで成功した。世界を主観を排して、客観的に観察し、そして作り替えること。

プラトン主義というこの特殊な神学は、ローマ時代に忘れ去られ、ルネサンスに再発見される。そして近代化の中で世界を席巻する。まさに科学はプラトン主義を基礎としている。科学は世界の真実=イデアを発見する。イデアは数学的な調和で記述されている。人間の理性のみがそれを発見することができる。

現代人はプラトン主義者であるが、あまりにあまりまえすぎて自らがプラトン主義であることを意識しないし、だからプラトン主義の外があるとを知らない。プラトン主義の外がいかなるものか想像できるかい?




客観主義の臨界


ゼノンのパラドクスとう臨界で、客観主義の神の視線が明らかになる。たとえば時間を止めることできる人がいたとする。彼を神と呼ぶ。時間を止まられる人を人間と呼ぶ。神は時間を止めて、人間の動きをとめて、自分だけ動き回る。神が時間を動かさないと、人間は永遠に動けなくなる。というのは、おかしくて、人間の時間は進んでないから、人間は動けなくなっていない。神が時間を動かしたときに、人間は時間が止められたことを知らない。ゼノンのパラドクスも同じ。アキレスと亀はただの競走し、アキレスは亀をあっさり抜き去る。ただの神が時間を操り、数学的に無限に動かしたり止めたりして遊んでいるだけのこと。このときの神がボクたちなわけ。

たとえば20世紀に入り知の限界として、自己言及のパラドクスが現れた。ラッセルの嘘つきのパラドクス。ケインズ美人投票。そして量子力学など。すなわち世界を客観的に見ようとしても、この世界に自分がいることで、世界に影響を与えてしまう。客観主義の限界であり、人の知は限界点まで達したということだ。




プラトン主義の外とは?


プラトン主義の外、それは日常を生きることだ。日常を生きるときに、人は客観的な立場になく、この世界の一部として存在して、影響を与えてしまう。そして全体像ではなく、その場で調整し続けている。現実社会は、家を建てるように設計図がそれに向かって構築していくようなものではない。アリは設計図を持たない。そのつどつど調整しながら端から蟻塚は作られていく。たとえばそこで重要なことは理性ではなく、関わることで刻々と変わる現場と実際に関係する身体の感覚であり、その場の慣習である。

自らも現実の一部として絶えず変わり続ける現実がある。昨日の自分とは変わっている。変わり続ける。実際、人はそのように生きている。だから1回限りであり、二度と同じものはできない。リアリティ(現実)とはそういうものである。先が見えないと言って恐れることはない。アリは本能故に可能なのかも知れない。しかしボクたちには慣習がある。慣習は本能よりも固くはないが、思った以上にかなり頑丈で、また柔軟でもある。そして慣習は一人ではできない。長い時間の経過、そして祖先というローカルな努力の蓄積、そしてそれを祖先へつないでいく。




太陽が毎日東から昇るのは慣習による


数学は世界の絶対的な法則で、それを人間が発見したわけではない。人が文明の中で発明したもので、後世はその使い方を訓練して学び、また後世に慣習として伝承している。太陽が毎日東から昇るという知識も同じ。世界の絶対的な法則ではなく、後世は慣習として伝承されて知っているだけ。明日、太陽が東から昇るという証明はできない。

たとえば今視界に見えている世界も同様。見るとは目というレンズに光が入って見えるわけではない。見るとは自らの中で作り出すもの。見方には影響するのは言語と言われる。言語のように見る。言語は慣習そのもの。今見ている世界は、人が文明の中で発明したもので、後世はその使い方を訓練して学び、また後世に慣習として伝承している。

たとえば歩くことも同様。歩くとはただ足を前後に動かすわけではないだろ。歩き方は学び訓練して獲得する。歩き方は学ぶ文化、個人の経験によってそれぞれ違う、歩くことは、人が文明の中で発明したもので、後世はその使い方を訓練して学び、また後世に慣習として伝承している。

なぜそのような慣習になったのか。当時の偉い人が決めたのかもしてないし、その当時それが便利だったのかもしれない。慣習は歴史学的に考察はできても、起源はわからない。道は一つではなく、無数の経路でいまにたどり着いて、そして今も変わり続けているからだ。

アプリオリの問題。赤ちゃんが何らかの知をもって生まれてくることは確かだろう。そして慣習を訓練する。なにが遺伝子かと問うことは、同様に起源の問題であり、歴史学的に、生物学的に考察はできても、起源はわからない。道は一つではなく、無数の経路でいまにたどり着いて、そして今も変わり続けているからだ。




慣習論とは「当にそのように行為している」ことを受けいれること


慣習論を理解するためには、合理論思考を変えないといけない。よく間違えているのが、経験で合理的に説明するのが経験論と考えている合理論者が多い。そうではなく、慣習とは「当にそのように行為しているもの」で、そのことを受けいれること。西洋哲学の伝統の思考である客観主義、世界を神の視点から分析することをやめて、疑似問題への逃避をやめて、現実を生きること、慣習は信じるものではない。当にそのように行為しているものだ。

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」 

哲学探究 ウィトゲンシュタイン