恋するプラトン主義者たち

pikarrr2017-04-20

1 美人とはなにか


美人より美しいものがこの世にあるだろうか。美人は野に咲く花のように、限られた時期に、偶発的に生まれる。いかに金をかけて作られた作品よりも、ただ美しい。美人とは、左右均等説、黄金比説が有名だが、そこには性欲が欠いている。女性の美しさを考えるときには、単に造形的な美しさではなく、性的な魅力を抜きには考えられないでしょ。性的な魅力のおおもとは、若さでしょう。生殖を促す時期、十代後半から二十代。美人とは基本的な若さです。三十代、四十代でも美人はいますが、彼女たちは十代後半から二十代をイメージさせる造形です。逆に、十代後半から二十代の非美人は、老けた造形です。

美人とは、若さをイメージさせる造形です。美人はただ美しいと眺めることはない。相手の性的なものを掻き立てるものとともに来る。美人の前で落ち着かないのは、死ぬほど空腹時のカレーライスを見せられるだけで、食べることを禁止されているごとくだ。




2 プラトン主義は恋の病


しかしこの美人論は失敗している。若さをイメージ造形とはなにか?なぜ美人を語ることは必ず失敗するのか。美人は必ず人をプラトン主義にする。すなわちイデア論から逃れられない。逆に、プラトン主義の本質を暴露するともいえる。すなわちプラトン主義は美人を語るためにあり、そして必ず失敗する。すなわちプラトン主義とは恋の病である。数学者は数式に恋をする。科学者は世界に恋をする。精神分析でいえば、神経症

イデア論。完成された世界がすでに存在していること。心身二元論、理性主義。それを魂=精神は知っている。人は完成された世界を作り出すのではなく、想起するということ。客観主義。このとき理性はこの世界の外に立っている。設計図とこの世界を客観的に見比べる神の位置を獲得している。プラトン主義というこの特殊な神学は、ローマ時代に忘れ去られ、ルネサンスに再発見される。そして近代化の中で世界を席巻する。まさに科学はプラトン主義を基礎としている。まさに科学はこの客観主義を引き継いだことで成功した。世界を主観を排して、客観的に観察し、そして作り替えること。科学は世界の真実=イデアを発見する。イデアは数学的な調和で記述されている。人間の理性のみがそれを発見することができる。現代人はプラトン主義者であるが、あまりにあまりまえすぎて自らがプラトン主義であることを意識しないし、だからプラトン主義の外があることを知らない。




3 プラトン主義以前の世界


グーグルマップはプラトン主義的である。神の目線から地球を流れる。しかしこれは新しいだろうか。ボクたちは教育により、世界地図が頭に入っているし、自らのいる位置を知っている。このような俯瞰思考は別に地図だけではない。生物も博物的に分類され、さらに進化論的に時間軸に位置づけられている。

ルネサンス以降、世界を写実的に描くことが始まったが、同じく数量化することが始まった。世界を長さ、時間単位、個数など、あらゆるものが計測された。まさに科学のはじまる前だ。現代これらの知識は短期間で教育として与えられる。世界を客観的に認識する訓練である。もはや当たり前すぎる認識方法である。しかしそれはルネサンス以降、プラトン主義の回帰により始まった。すなわちそれ以前は、異なる認識が行われていた。それ以前、いかに人は世界と向き合っていたか。

環世界という考え方がある。たとえばクモはクモとして存在するのではなく、その環境と一体として世界を形成している。クモを捕まえ虫かごに入れて眺める。魚竿もして情けない。しかしそれはクモではない。クモの適切な環境にクモの巣を張り、完成性として存在する。それがクモの環世界だ。人も環世界を作り生きていた。彼らにとって世界は自らの行為と一体化された世界である。それを俯瞰して見ることもない。自らの行為が世界を作っている。それがプラトン主義以前の世界である。

現代も人は環世界を生きている。みずの行為に合わせてアフォーダンスさせている。しかし社会の流動性が高く、俯瞰的に自らを見ておかないと、途端に虫かごのクモのように魚竿することになる。

それでも人はプラトン主義を超えなければならない。事件は会議室でなく現場で起こっているからだ。世界を客観的に眺めてあーだこーだ考えるだけでなく、目の前の現実と向き合いそれに対して働きかける、調整すること、それがまさに生きるということだ。たとえそれが虫かごの中でも、巣を張らなければ何も始まらない。




4 美人は現場主義では生まれない


なぜ現場が重要であるのか。この世界には現場しか存在しないからだ。動物は、発情期に異性からの性的なシグナルに反応する。しかし人間は、性的なシグナルをフェティシズムとしてあらゆるものに感じる。指、靴、ハンカチ、排泄物・・・この謎の解を、フロイトは幼児の性に求めた。幼児時に性的な体験と結びついた対象がフェティシズムになる。大人になってそのことを覚えていないが、何故かある対象に性的な興奮を覚える。

人は知能を発達させたが、そのために脳が肥大して、十分に成長してから出産するには頭が大きくなりすぎた。だから未熟児で生まれていくる。動物が生まれてすぐに、生きるための行為をすることができるのに対して、人はまったくなにもできずに生まれてくる。その分、生まれてからの体験により、様々な大人が作られる。幼児期の体験、すなわち現場によって、人は多様に作られている。美人というイデアも、様々な現場から生まれてくるものでしかない。

美女に興奮するのは美女が美しいからではない。美しいのにボクらと同じにだからだ。性欲があり、自慰をして、おできがあり、うんちをして、ふきのこしでちょっと肛門にうんちがついていたりする。広瀬すずちゃんだって、鼻をほじって、ほじった指を舐める。若さとは動物的、すなわちグロいものだ。

古来、芸術家達は美人に魅せられて、絵や彫刻や写真などに治めようとしてきた。しかしいまだかつて成功した人はいない。ピカソより、ゴッホより、ラッセンより、今日駅で見かけた美人の方が億万倍美しい。だから芸術家は書き続けるわけだ。

やはり美人は現場主義では生まれない。現場的な美人など美人ではない。美人はプラトン主義からしか生まれない。美人はプラトン主義の極限だろう。魅了されることからプラトン主義は始まる。プラトン主義のもとであるピタゴラスは、数に魅せられた。世界が美しい調和でできていることに魅せられた。近代科学技術しかり、科学者達は世界が美しい調和でできていることに魅せられた。美人を前に人は必ずプラトン主義者になる。

美人は近代の発明だ。近代は視覚の時代と言われる。科学技術の発展は、社会の流動性を上げて、伝達手段として聴覚よりも、視覚を重視した。客観的で伝わり安いからだ。視覚による伝達により情報伝達の速度を上げた。まさにマスメディアは視覚を刺激する。美人は最高の人を魅了する対象だ。映画、テレビ、雑誌など、美人は作られた。イデアが作られたのは、ハリウッドだろう。グレースケリー。映画を通して拡散された。




5 現場で一番重要なことは反復がないということ


科学とは反証可能性である。誰がやっても再現できなければそれは科学ではない。科学における人は、無名な人間という種になる。フロイトは現場主義だ。精神分析は、精神分析学ではない。人は、人の症候はひとりひとり異なるから、学問として体系化するのでなく、現場の技と考えた。特に幼児の性を基本としたのは、幼児期という大人になるための反復できないたった一度の体験が、そこにあるからだ。そしてそれぞれの人が作られていく。

それでもフロイトプラトン主義の呪縛から逃れられなかった。結局、多くの体系を語った。超自我エス……それらは西洋の理性主義を継承している。それは、日本人に精神分析を当てはめたときに露呈する。

ラカンは日本人に無意識が存在しないといったが、日本人を西洋の精神分析で分析すると、範囲を超えてしまう。たとえば、甘えの構造では、日本人社会に甘えが溢れている。義理人情など。西洋の理性主義では、甘えは幼児性としか分析できない。しかし日本人ならわかるように、義理人情は幼児性とは真逆の高度な社会調整機能である。西洋の我ありに対して、無我、我なしを基本に据える日本では、高度な他者への配慮が重視される。これらはどの教科書にも載っていないし、あまりにも高度すぎて体系化もできない。空気の読み方は現場で学ぶしかない技である。

そして現場で一番重要なことは、反復がないということだ。現場では今日の現場は昨日の現場とは違うし、今日の自分は昨日の自分とは違う。日々の活動が新たな現場、新たな自分、そして新たな関係を作り、日々の向き合うしかない、ということ。

日本人は現場主義において優れている。現場での調整能力、改善能力。日本のハイレベルな社会インフラはまさにその賜物である。西洋人が枠組みだけ偉そうにいっている現場が雑なのに対して、この現場の繊細な調整は、生産性下げる。なぜなら価格に反映されないからだ。西洋人雑と費用が同じなら、国民総生産に繁栄されない。どころか無駄として生産性を下げる。しかし日本人はこの勤勉を互いに与え合う。それが慈悲エコノミーである。




現場主義化する人工知能


いままでAIはプラトン主義的に考えられていた。現象に対して俯瞰して解を求める。それが現場レベルの無数のケースに対応できなかった。それがAIのジレンマだった。ディープラーニングはどのように乗り越えたのか。現場を経験させたのだ。チェスなら、チェスの完全な解を求めるのではなく、休みなくチェスの勝負を繰り返させる。疲れを知らないから永遠にゲームし続ける。そしてその経験は他のAIに移植できる。そしてさらに強くなる。すなわち、最新のAIは現場主義ということ。

いま、時代は現場主義である。コンピュータの発達は、プラトン主義的な合理的な知だけでなく、現場主義的な暗黙知を可能にしてきた。合理的な知の限界は、無限の状況に対応できないことだ。まさに人工知能ディープラーニングは解を与えるのではなく、経験させて自ら深層学習する。その現場で学ぶ。まさに現場主義、体験することに人工知能は賢くなっていく。今日の現場は昨日の現場とは違うし、今日の人工知能は昨日の人工知能とは違う。日々の活動が新たな現場、新たな人工知能、そして新たな関係を作り、日々向き合う。

しかしこれは新たな問題でもある。暗黙知と言われるように、現場の知識は、プラトン主義の知のように単純でなく、言語表記も超えていく。ひとも自らの中にある暗黙知を知らない。人の無意識の領域に、人工知能は進出する。人の環世界へ人工知能は進出する。環世界を補完して、快適にする。しかし人はなにが起こっているかわからない。知らずに自らが作られる。これは高度な環境管理の世界だ。


プラトン主義

イデア論。完成された世界がすでに存在していること。心身二元論、理性主義。それを魂=精神は知っている。人は完成された世界を作り出すのではなく、想起するということ。客観主義。このとき理性はこの世界の外に立っている。設計図とこの世界を客観的に見比べる神の位置を獲得している。科学はこの客観主義を引き継いだことで成功した。世界を主観を排して、客観的に観察し、そして作り替えること。科学は世界の真実=イデアを発見する。


現場主義

現場で一番重要なことは、反復がないということだ。現場では今日の現場は昨日の現場とは違うし、今日の自分は昨日の自分とは違う。日々の活動が新たな現場、新たな自分、そして新たな関係を作り、日々の向き合うしかない、ということ。