日本の右翼とはなにか?

日本の左翼と右翼


日本において、左翼とは法を重視する立場、右翼とは通俗道徳を重視する立場と言える。

通俗道徳。江戸時代中後期の商品経済の展開とともに規範化されてきた勤勉、節約、孝行、和合、正直、謙譲、忍従などの、当為の徳目としてかかげられた日常の生活態度。この儒教的諸徳目は、18世紀末の石田梅岩石門心学、19世紀初の二宮尊徳の報徳社、大原幽学、中村道三らの老農により唱導され、豪農商や知識人による民衆教化の徳目となることで、家や村を没落の危機から救うための実践すべき生活規範として広範な民衆の日常生活に浸透していった。

また通俗道徳は、幕末以降の近代転換期に創唱された丸山教大本教などの民衆宗教の教説にもつらなる。あるいは非合法闘争である百姓一揆の指導者とされたもののもつ自己鍛錬という通俗道徳規範が、強訴徒党を抑制してもいた。

生活規範そのものの実践が目的であるにもかかわらず、その結果としていくぶんかの富が得られるという功利性や、民を保護すべき領主を恩頼するという仁政観念との相互規定性により、通俗道徳は幕藩体制を支えるイデオロギーとなった。

しかし他方で通俗道徳の実践は、「生死も富も貧苦も何もかも、心一つ用ひやるなり」(黒住宗忠)と、心の無限の可能性をも自覚化することとなり、ここにはじまる広範な生活者の主体的な自己形成・自己鍛錬への努力が、祭礼や遊興の制限や賭博・浪費の禁止を心がけるなど、生活や心の革新による新たな人間像を創出した。

これらの通俗道徳の実践は日常生活における人間存在そのものも変えることで、日本の近代化を根底から支えるエネルギーとなったが、しかし他方で社会の全体性を認識する思想体系には至らず、天皇イデオロギーの土台となった」(阿部[2001:361])


http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/4T/tu_tsuzokudotoku.html

ウェーバーが言ったように資本主義の成功には、プロテスタントの勤勉性があった。プロテスタントの勤勉は、天職概念によって支えられた。仕事は、神に与えられた天職だから全うしなければならない。その原動力が、初期の資本主義を成功に導いた。

では、日本人の通俗道徳はいかなる原動力よるか。それは、大乗仏教の慈悲だ。大乗仏教では、みなが互いに奉仕しあうことで、みんなで極楽にいくと考える。日本の通俗道徳は、日本人が互いに勤勉に働くことで日本人全体が幸福になることを目指す。

だからプロテスタントの勤勉が神と個人の関係に対して、日本人の通俗道徳は、現代的にいえば、相互監視的だ。私は頑張っている。ではお隣さんはどうか?要するに、それが江戸時代に成熟した世間という倫理だ。ここに日本人を信じるという右翼思想の源流がある。




天皇とは通俗道徳の究極の実践者


明治維新後、国家神道として、通俗道徳はいかに活用されたか。天皇は、キリスト教絶対神のような信仰対象ではない。そんなものをいきなり導入しても、日本人は受け入れない。天皇とは、日本人みなの幸福のための通俗道徳の完全な実践者という位置にいる。教育勅語は、通俗道徳そのものだが、天皇は完全に通俗道徳を実践している。だから日本人は天皇陛下を見習って、日本人のために通俗道徳を懸命に実践すること。それが国家神道の基本構造だ。お国の為に死ぬ。通俗道徳の実践であり、慈悲の実践、日本人みなが極楽に行くために奉仕するということ。

戦後、天皇は通俗道徳の究極的な実践者の位置を降りたが、基本的な日本人の通俗道徳の構造、世間体の構造はいまも変わっていない。日本人にとって、近代法よりも、世間体が重要だ。法によって処理されるだけでは納得せず、世間がなっとくすることを望む。




日本人の中の修羅


国を愛することは、近代国家のナショナリズムとして、どの国にもある。ただし敗戦前2年間に現れた日本人の愛国の姿は、通常のナショナリズムを超えていた。それはナショナリズムではなく、通俗道徳の変態。簡単に言えば、日本人総武士道化。慈悲は変態すると恐ろしい。無我だから。自らを無としみなのために奉仕する。

愛国は日本人の基本、近代以前から明治維新後もみな愛国のために頑張ってきた。そこにあるのはただ素朴な愛国だった。素朴に右翼だった。しかしその先に、敗戦前2年に地獄を見た。日本人は素朴に愛国を当たるのが怖くなった。日本人の中に済む修羅を見た。

それから、日本人の中の修羅は封印された。過去を語ること、真の日本人の歴史を語ることは禁止されて、日本人は温厚な人々で、世界の標準的な人々、右翼は恐ろしいものという封印教育が行われている。日本人自身が今もその姿に怯えている。また何かあれば変態するのでは?だから安易に愛国を語れない。




自民党一党体制は世間による国家運営に都合が良い


通常、先進国では、二大政党制など、その時々の政策によって選挙で選ばれる。日本が自民党一党であるのは、政策による選択より、世間が働いているからだ。日本人みなの幸福を目指す通俗道徳において、選択は必要ない。その場その場での合議によって国家運営は進められる。世間圧によって、政治が動くために、政党選択に意味が無い。むしろ民間団体、官僚と密接な関係をもつ自民党が政権にいることで、世間圧による国家運営がやりやすい。

民進党なんか左翼が政権をとった日には、民主主義だ、法だと、世間を無視して、西洋の理想論で国家運営を行い、世間と離れていってしまう。

日本の中道保守は、通俗道徳をもとにした右翼思想であり、日本人は左翼になることはあり得ない。日本人の通俗道徳の右翼ベースは、戦前の国家神道から戦後の自民党一党、官僚主導、会社主義、そして現代の空気を読むまで、繋がっている。




世間が支える生活空間としての高度な社会インフラ


近代の資本主義化で生まれた貧富の格差の地獄。人間の命さえ金で買える世界。自由と平等が生んだ世界。西洋はそれを社会保障という金の再配分というセーフティネットで補完している。日本人は世間という通俗道徳で補完している。世間は、左翼が言うような相互監視システムではない。みなのために奉仕しあうシステムだ。日本人はこの暖かいシステムを当たり前すぎて、意識しない。では日本人の世間とは何か?

日本の良さが若者をダメにする レジス・アルノー
http://newsweekjapan.jp/column/tokyoeye/2010/04/post-158.php


・・・18歳になるまで日本で暮らしたフランス人の多く(いや、ほとんどかもしれない)が選ぶのは、フランスよりも日本だ。なぜか。彼らは日本社会の柔和さや格差の小ささ、日常生活の質の高さを知っているからだ。

日本とフランスの両方で税務署や郵便局を利用したり、郊外の電車に乗ってみれば、よく分かる。日本は清潔で効率が良く、マナーもいい。フランスのこうした場所は、不潔で効率が悪くて、係員は攻撃的だ。2つの国で同じ体験をした人なら、100%私の意見に賛成するだろう。

・・・日本の若者は自分の国の良さをちゃんと理解していない。日本の本当の素晴らしさとは、自動車やロボットではなく日常生活にひそむ英知だ。だが日本と外国の両方で暮らしたことがなければ、このことに気付かない。ある意味で日本の生活は、素晴らし過ぎるのかもしれない。日本の若者も、日本で暮らすフランス人の若者も、どこかの国の王様のような快適な生活に慣れ切っている。外国に出れば、「ジャングル」が待ち受けているのだ。だからあえて言うが、若者はどうか世界に飛び出してほしい。ジャングルでのサバイバル法を学ばなければ、日本はますます世界から浮いて孤立することになる。「素晴らしくて孤独な国」という道を選ぶというのであれば別だが。

なぜ日本の街にはゴミ箱や灰皿が少ないのか
 「世界でもっとも清潔」だと、日本の街並みは外国人から高く評価されている
Newsweekjapan:http://www.newsweekjapan.jp/nippon/mystery/2017/03/188670.php


<街中にゴミ箱も灰皿も少ないのに「世界でもっとも清潔」だと、日本の街並みは外国人から高く評価されている>
「ゴミひとつ落ちていない!」や「世界でもっとも清潔な国だ」、そして「歓楽街ですらキレイなんて!」など、訪日外国人をインタビューするテレビ番組やネットの投稿などで、日本の清潔な街並みを賞賛する声を聞くことが多い。世界最大手の旅行クチコミサイト「トリップアドバイザー」の「旅行者による世界の都市調査」(2014年)でも、2位のシンガポール、3位のベルリンを抑え、街の清潔度で東京が1位を獲得と、その評価は世界的なようである。驚きの声と同時に彼らから上がるのが、「街にゴミ箱は少ないのになぜ!?」という疑問だ。

確かに、1995年の地下鉄サリン事件以降、テロ対策を名目に首都圏を中心に街中のゴミ箱は閉鎖・撤去されていったが、それ以降、コンビニエンスストアの店頭を除けば、現在もその数は大幅に減ったままだ。また、灰皿に関しても、以前は東京・銀座の中央通りに等間隔で置かれていた灰皿がすべて撤去されるなど、2002年以降に各自治体で制定されていった「路上喫煙禁止条例」を機に、路上の喫煙環境は大幅に縮小されている。

一方、欧米ではどうか。アメリカではニューヨークなどの大都市では1ブロックごとに大きなゴミ箱が配置されているものの、つねにゴミが溢れている状態だという。ヨーロッパ各国でも灰皿付きのゴミ箱が多く設置されているが、フランクフルト在住のマリア・ドイチュさんによれば、「ドイツでは歩きたばこがごく普通のこと。街中に灰皿もありますが、吸い殻のポイ捨てもあたりまえです」といった実情だ。ゴミ箱も灰皿も少ないのに、なぜ日本の街にはゴミも吸い殻も落ちていないのか――。多くの訪日外国人は日本の街、そして、日本人の清潔さを賞賛する一方で、あまりの清潔さにある種の畏怖にも似た不思議な感情を持っているのだろう。

一人当たりGDPがイタリア並みでも日本経済は素晴らしい

塚崎公義 (久留米大学商学部教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7677?layout=b


イタリアというと、「ローマ帝国の歴史は素晴らしいが、今の経済は低迷している」、という イメージが強いのですが、なんと2014年の一人当たり名目GDPは、日本とほとんど同じなのです。夏のバカンスを充分楽しみ、それ以外の時も「難しい顔をせずに」働いているイタリア人と、いつでも難しい顔で働いている日本人の年間GDPが同じだなんて、兎小屋に住むワーカホリック(日本のサラリーマンを指す昔の流行語。狭い家に住む働き中毒という意味)には、到底受け入れ難い統計です。

しかし実際には、日本人とイタリア人の豊かさは異なりますので、過度に悲観する必要はありません。今回は、日本とイタリアの経済の差について、考えてみましょう。はじめに、現在の日本人はイタリア人よりも豊かに暮らしているので、カリカリしなくても大丈夫、という話をしましょう。

第一に、為替レートの話、第二に、品質の比較の話です。2014年は、円安ユーロ高でした。その時の為替レートで換算すると、日本とイタリアの一人当たり名目GDPが同じだったという事は、その後に円高ユーロ安が進んでいることを考えると、今の為替レートで換算すると、一人当たり名目GDPは日本の方が遥かに大きい、という事になります。このように、為替レートが動くと「一人当たり名目GDPの国際比較」 が大きく変化するので、注意が必要なのですが、そのあたりの話は別の機会に譲りましょう。

いまひとつ、「日本人とイタリア人が同じものを使っている」という場合に、品質をどう比較するのか、という問題があります。たとえば日本の電車は非常に正確に動いています。5分遅れると社内放送でお詫びが流れます。そんな国はどこにも無いでしょう。少なくとも、イタリアは絶対に違います。その違いを無視して、「イタリアでも日本でも一人の乗客を100キロメートル運んでいるから同じGDPだ」といった計算をする事が問題なのです。豊かさという点では、電車が定時運行している国の方が豊かでしょう。その分がGDPの計算には織り込まれていないのです。電車を定時運行するためのコストは、おそらく非常に大きいでしょう。たとえば、何かあった時のために交代要因が各駅に待機しているかもしれません。簡単な故障なら自分で修理できるように全員が講習を受けているかもしれません。「30分までなら遅れても良い」ということだと、交代要因や修理工が30分以内に到着すれば良いですから、もしかすると会社全体の仕事量が1割減るかも知れません。そうだとすると、日本の鉄道はイタリアの鉄道より、1割多いサービスを提供しているということになるはずです。

その分だけ日本のGDPが大きくなっても良いのでしょうが、実際のGDP統計にはその違いは反映されていないのです。「5分遅れるとお詫びするのは過剰サービスだ。30分までの遅れは認める代わりに、運賃を10%引き下げるべきだ(あるいは鉄道職員は1割早く帰宅すべきだ)」というのは簡単ですが、問題は消費者が正確性を求めていることです。「頻繁に30分遅れるが10%安い鉄道会社」と「滅多に遅れないが料金が高い鉄道会社」があったとすると、イタリア人消費者は前者を、日本人消費者は後者を選ぶのでしょう。だから、両国で異なるサービスが提供されているのでしょう。なにしろ、製造業の世界でも、「日本の消費者は世界一うるさい。うるさい消費者に鍛えられたから日本製品は故障しにくいと世界で評判なのだ」と言われているくらいですから。


世間が相互監視システムとしか見えないのは、左翼が世間を貶めるためのネガティブキャンペーンによる。日本人の世間の倫理は、みなのために奉仕すること、最近の流行りではおもてなしにより、たとえば生活空間としての広義の社会インフラを向上させて、世界的にも優秀な豊かで公平な社会を実現させている。

日本にも経済格差はある。先進国の中では小さいにしても。日本人は経済格差を否定しない。それは職の結果であり、働くことの原動力の一つだからだ。たとえば日本人が100円でチョコレートを買うとき、それはすでに美味しいのである。チョコレート屋は100円の安い商品だろうが、美味しいものを作ろうと努力する。

日本の社会では高いからうまい、安いからまずいという左翼的経済の相関は成り立たない。西洋のサービスは、価格により明確にランク分けされている。だから誰もが使う公共サービスは質が悪い。対して、日本のおもてなしは対価に相関しない。安い金でもできる限りのおもてなしをする。それが日本人の世間の倫理だ。このように日本人は、西洋的な平等を排除して、公平で豊かな社会を構築してきた。