みそけん、大いに語る。その1

ここ数ヶ月、5ちゃんねるの哲学板で語った内容を掲載します。
スレッドは、「カール・マルクス」、「ものすごい勢いで誰かが質問に答えるスレ」、「仏教哲学」。
まずは、第一弾。「カール・マルクス」スレッドで語った内容から、どうぞ♪

なぜ農業社会では人権は成立しなかったのか
なぜ自由主義は格差を生み、共産主義独裁制に落ちるのか
なぜアメリカはかっこいいのか
なぜ自由主義は格差を生み、共産主義独裁制に落ちるのか その2
なぜ自由主義は成立できてるのか
なぜ日本はもっとも成功した社会主義国家になったのか
なぜ日本は世間社会主義なのか
なぜシェアリングエコノミーは、真のIT革命なのか。




■なぜ農業社会では人権は成立しなかったのか


農業社会から資本主義社会へのシフトは、人類史においても画期的な出来事だろう。マルクスもそれは否定しなかった。なんといっても「マルサスの罠」を抜けたのは画期的だ。農業社会では、社会全体の生産性を上げるためには、新たな土地を開拓し、耕地面積を広げなければならなかった。しかしそれは簡単には進まない。対して、人口は性交により簡単には増える。特に避妊ない時代だ。だからいつも人余りの時代だった。中絶はないので、生まれてすぐに間引きする。あるいは育っても土地を次ぐ長男以外は売られる。

でなくても、家を出て自らの生きる糧を得なければならない。その一番が兵隊になること。すぐに食料にありつける。うまくすれば出世できる。帰る場所もないので闘いで死んでいくことがほとんどだ。各国は土地の略奪をかけて、無駄に余った人口を使って絶えず戦争する。勝てなくても無駄な人が死ぬので意味がある。このように農業社会ではマルサスの罠から、人はいつも過剰で価値は低かった。人権なんてなきに等しい。

資本主義社会は、このマルサスの罠を突破した。経済が農業から、工業、商業へシフトすること、すなわち社会が分業体制になることで、社会の生産性は土地から解放される。人は労働力として、いるだけ価値を生む。人口と国民総生産の関係は比例するようになる。国家は人口を、国民として明確な境界を設けて、他国への流出を防ぎ、抱え込むようになる。そして国の生産性をあげるために、義務教育を実施する。国民の知的レベルを上げて、優秀な労働力にしあげて、国民総生産を上げる、すなわち経済成長率を目標に国家運営を進める。また国家単位で、人の生存を管理するよう、様々な衛生管理政策が進められて、人の価値が上がるとともに、人権概念が生まれて、民主主義、そして法治国家へとシフトし、各人が自由に競争して、さらに経済の成長を目指す。

人類史において、マルサスの罠でほとんど増えなかった人口は狂ったように増えていく。そしてそれでも、それだから経済は成長して、社会はどんどん豊かになる。

農業社会が階級制だったのは必然ともいえる。そもそも社会は人口全体を養うだけの富はない。人権という概念は成立しない。当然、社会の中で生存の競争が起こる。そして上流は自らの生存を保障するために、同じ人間ではない、すなわち違う生物だという構造を作る。下流は教育もなく、自らを下等な動物であることをただ受け入れて、日々農作業に従事する。それが原始社会から農業社会移った何万年か、続いてきた。資本主義へシフトするまで。

しかし資本主義へシフトするはじめは、多くの問題、格差を生み出した。農業社会の人に価値がない文化の中で、資本主義のシフトでは、人は奴隷として働かされた。そして資本家は農業社会での搾取以上の膨大な富を独占した。戦争も農業社会での延長で常態化したが、兵器の強力化により、今まで以上の戦死者が生まれた。

それが改善され出すのは、二度の世界大戦の教訓を得てからだ。現代でも軍事費は増え続けているが、基本的に先進国同士は戦争をしない。高度に発達した豊かな社会、また各国同士が国を超えて密接につながる経済では、戦争はあまりに非経済的な行為である。

農業社会の戦争のように、他国の土地を奪うことが自国の豊かさに繋がることはもはやない。やるならば経済戦争だ。




■なぜ自由主義は格差を生み、共産主義独裁制に落ちるのか


社会主義思想は、資本主義化が進む早い段階からあった。フランス革命ではまだ自由と平等は切り離されていなかった。貴族制から解放されて、より自由な経済活動をしたい程度のものだった。左翼的にはプルジョア革命である。

ブルジョア革命により資本家主義が進む中で、農業社会の文化から、労働者は下等な生物のように扱われることが問題になり、自由と分かれて、平等が重視される思想、社会主義、そして共産主義か生まれる。資本家が独占する生産手段を労働者の管理下において、共同運営し、生まれた富を平等に分ける。このコンセプトはマルクス以前からあった。

多かれ少なかれ、このような社会主義は取り入れられていく。特に国家運営としての社会主義化が進む。第一次世界大戦後の世界恐慌のあと、自由主義の危険を知り、国家が経済に介入する。国家が銀行を積極的に管理して、銀行を中心に産業を調整することも、当然、社会保障制度の充実など。国家社会主義党のヒトラーは、ハイウェイの建設など国家事業を推進して、第一次世界大戦で崩壊したドイツ経済を立て直した。またアメリカでは、ルーズベルトニューディール政策として、国家主導の産業推進を進めて、経済を回復させた。日本もまた満州に始まる国家主導経済を本国でも導入して、国家総動員体制を推進する。

これらの国家社会主義化が、産業としての軍事の強化にも繋がり、第二次世界大戦に繋がったのは皮肉だ。第二次世界大戦は、遅れて産業化して国、ドイツ、日本、アメリカが先にいたイギリス、フランスに挑んだ闘いだと言える。国家社会主義はその力をため込む役割を果たしたと言える。

自由競争をやめて、生産手段、富を等しく分配する共産主義は、社会主義の中でもハードルが高い。第二次世界大戦中にロシアで、共産主義国家が誕生したのは画期的である。なぜロシアなのか?一つは資本主義化が不十分で、自由主義陣営の抵抗が少なく、農業社会が中心であった後進国であったためか?世界大戦後に本格的な運営に入ったが、一時期は経済も成長して、資本主義の不況を尻目に、未来の政治システムとも言われたが、結局、ソ連の崩壊とともにその失敗が明らかになる。ほとんどの共産主義を目指した国家は独裁制に移っていった。

富を分配するために、富が中心で管理されるために、中心に権力が集中して、一度手に入れた中心の座を譲らず独占した。中央集権の危険が起こった。ほぼすべての共産主義国家で同じ問題が起こることが決定的な欠陥ともいえる。

生み出された巨大な富をどのように運営するかは、資本主義の基本的な課題である。自由主義の対策は、格差はあっても、自由競争により流動されること。いかなる金持ちも競争にさらされて、富を失う可能性があることである。

資本主義は、分業体制で飛躍的に生産効率が上がりこれだけ豊かな生活ができている。分業体制を支えるのが貨幣。すべてが貨幣価値に一元化される、すなわち商品となることで、分業体制が成立している。お金さえあればなんでも買える。だから人は分業体制の一部として働くだけで良い。

資本主義の問題として上がるのが格差。格差も自由競争の結果だから、資本主義の原動力なんだけど、格差が固定化する面がある。

ピケティが示したように資本主義は格差を固定させる面がある。労働による努力より、金融の方が金を生む。すなわち金持ちに優位。それは自由競争の不徹底なんだろう。金持ちには情報においても、優位な話しがくるし、知識も集まる。




■なぜアメリカはかっこいいのか


自由主義では、自由競争のリスクは避けられて、勝ち組は勝ち組で徒党を組み、負け組を排除し続ける。それは当然のこと。特にアメリカは、この傾向が強い。恐ろしい富の集中があり、それを許容しているのが、アメリカ文化。自由競争を超えて、弱肉強食を許容している。強いものが勝つのは正しい。

アメリカニズムの基盤を考えると、一つはピューリタンニズム、二つは開拓精神、三つは合理的科学主義。ここから生まれたのが、キリスト教原理主義プラグマティズム自由主義、自由競争、科学至上主義、ハードボイルド。

アメリカでは、開拓精神から言葉より実働が重視される。結果を出すものが正しい。だから自由競争も許容される。タフであること。

それでいて、ピューリタンニズムから厳しい倫理は重視される。排他的な面も強い。根強い黒人差別も、キリスト教原理主義と結びついている。白人至上として。

そしてなんと言っても、特徴的なことが、科学主義。マッドサイエンスの国だ。深い科学信仰があり、すべてを科学で記述できると考えている。心理学、認知科学社会学、遺伝工学、経営学、特に人間科学においては飛び抜けている。

たとえばIQはアメリカで開発されて、アメリカではIQで人間の良し悪しを図る。日本ではIQはネタでしかない。そんな数値で人間が測れると考えない。

20世紀はアメリカの世紀であるが、いまにつながる豊かな消費社会を作ったのはアメリカの、タフな勤勉さと、科学的合理性である。楽観的科学的主義。

アメリカはいまも啓蒙主義を生きている。19世紀のタイムカプセルである。啓蒙主義とは、楽観的な科学主義である。科学的な合理性で世界を設計することで、人々が幸福になると素直に信じられていた時代。理性とは人を科学的な合理性に位置づけための単位である。プロテスタンティズム啓蒙主義を持って、彼らは海を渡った。

そこから最初に生まれた思想がプラグマティズムである。実動を重視する。結果がすべてである。またそこ時代にアメリカ人が熱狂したのが進化論だ。特に社会進化論。弱肉強食は社会の摂理であり、格差はあって当然のもの。ヒトラー社会進化論を重視し、科学主義により、ユダヤ人を虐待したが、いまも世界で社会進化論を信じているのはアメリカ人だけだろう。

遺伝子工学認知科学、心理学、クローン技術、経済学、経営学ゲーム理論など、社会科学がアメリカが中心であるのは、楽観的科学主義により、倫理が低いからだ。マッドサイエンスの国。うるさいのは、キリスト教原理主義ぐらいだ。キリスト教に抵触する部分で急にうるさくなる。中絶や、進化論を信じないとか。

もう一つ、楽観的科学主義がアメリカ以外で、後退したのは、世界大戦の影響が大きい。楽観的科学主義のもと、突入した世界大戦において人々は地獄を見ることになる。科学的に発展した兵器の前に、人は動物になる。人権は失われて、名もなく消えていくのみ。その極限がホロコーストである。欧州もアジアも、傷を負った。ただアメリカだけが、本土を戦場とせず、むしろ世界一に成り上がった。その後、ベトナムイラク戦争を経験するが、遠い国の出来事だ。

IT革命がアメリカ人にしか無理なのは、IT革命は科学的合理主義の上に立っている初めて可能だ。IT革命は簡単に言えば、サービスをセルフサービスにして、コストを下げること。情弱は排除する弱肉強食、すなわち社会進化論の系譜がある。

特に日本人のように情弱を含めて補完することを基本とする国には無理だ。マイクロソフト、グーグル、アマゾン、ツイッターなどなど、いまや世界企業の彼らも、ユーザーへのサービス体制はなきと言って良い。

人々もパナソニックには文句を言うが、グーグルに文句を言っても仕方がないことを知っている。

そこにはまた、選民思想がある。セルフサービスできない、自己解決できない奴は情弱、負け組。社会進化論的に劣った人間。

アメリカ人のIT革命はいつもこの選民思想を基本に躍進してきた。最近のiPhoneに熱狂し、ガラケーを蔑視する日本人は、アメリカニズムの選民性の優越に乗っかっている。

弱者を置き去りにどんどん進むアメリカのかっこよさ。弱者に配慮し続けて全体を考えて、なかなか進まない日本人。

だからアメリカ人は競って、勝者になろうと競争を繰り広げる。それが活性となる。弱さを見せない。実行し勝つ。ハードボイルドだね。




■なぜ自由主義は格差を生み、共産主義独裁制に落ちるのか その2


マルクスの革命論はどこまでも論理的なもの。唯物史観があって、農業社会から資本主義社会、そして社会主義と移る。そして資本主義がなぜ社会主義へ変わるのかも、資本論において必然的。

実際、革命に暴力的なもんがあってもそれは変化のための結果であって、暴力革命ではない。

逆に言えば、それがマルクス主義の弱点。論理的に出来過ぎている故に、もろい。なぜ共産主義はことごとく、独裁制となるのか。簡単に言えばあまりにも人間を信じすぎているから。左翼はいつも甘い。

ピケティも資本主義が絶対的に世界を豊かにしていることは否定していない。ピケティが問題にしてあるのは、格差が固定すること。金持ちは金持ちで居続ける、

マルクスは資本主義を否定したわけではない。先の階級制社会からのプルジョア革命としては評価した。しかしそれだけでは不十分でプロレタリア革命が必要と考えた。必要というか、プロレタリア革命が起こり社会主義へ移るのが歴史の必然と考えた。たとえば資本論で商品、貨幣がいかに偶然の脆いものかを示すことで、世界恐慌により破綻をきたすと考えた。

シュンペーターイノベーション論は別の文脈から生まれた。セイの法則のように、資本主義は初めは生産が先行していた。いかに安価に大量生産するか、作れば消費はあとからついてくる。

生産も飽和に近づく中で、シュンペーターイノベーションのように、経済発展は、創造的破壊により、非連続に発展するや、ケインズのように消費重視の経済学へ変化する。実際、フォードの安価な自動車の大量生産は画期的であったが、すぐに単に安いだけでなくデザインなど付加価値を求められるようになった。


ケインズ有効需要論で、無駄な公共事業でも需要を作る出すことが、経済の発展に繋がるという、現代のマクロ経済論の基礎を作った。マクロにおいては無駄遣いこそが人々を豊かにする。それまでの、ものを大切に、清貧の思想とは逆の世界がマクロにはあるという、現代でもなんだかんだ言って、経済政策はケインズを基本としている。

ハイエクケインズのライバルで、アメリカの新自由主義政策で脚光を浴びた。自由な経済活動こそ、社会を豊かににする。これはピケティの資本主義の格差論と対立しない。まだまだ自由が足りないから、格差が生まれると考えることができる。自由が中途半端だから富を持つものが有利に働く、それがいまの資本主義だ。

要するに、ピケティは過去のデータから格差の固定を明らかにしたか、なぜかまでは明らかにしていない。

やはりポイントは資本だろう。資本とはなにか。交換手段でも、蓄蔵手段でもなく、積極的に金を生むために活用される金だ。金を貸す。そして時間をおいて返すときに増えて返ってくる。貨幣は交換手段においては、等価交換であるが、資本は金を使った贈与交換なのである。

贈与交換はそもそも信用を基本にする。信用なく、ものを貸しても返ってくる保証はない。等価交換はその場で一瞬で等価に精算されるので信用はいらない。

信用とはなにか。相手を見極めることだ。自由主義は、経済性を最優先に自由競争を行うことを求められる。相手が誰かではなく、もっとも経済的によい条件の相手を選ぶ。公共事業の入札が理想だ。

しかしここで資本の信用はグレーとなる。誰を信用するか。ここに客観的な判断は難しい。そして好き嫌いや、あるいは個人的な裏金など、おもわくが入る余地が生まれる。贈収賄

マルクスは資本そのものの金の分配を問題にしたが、贈与交換としての信用には触れなかった。なぜかわからない。アダムスミスなど正統派経済学を目指すマルクスは、贈与交換のようなグレーなものは入れたくなかったのかも知れない。この贈与交換、信用を排除したマルクスの潔癖さがその後の共産主義の躓きとなる。

なぜ共産主義はかならず独裁制に陥るのか。すなわち中央は贈収賄にまみれるのか。中央に集まる巨大な富の分配過程で生まれると、贈与交換に対処する機構がない。中央の官僚は潔癖でしかあり得ない。それが、マルクスの真面目さだ。

資本主義では、富は社会に流動して、中央に集まるのは一部である。さらに自由競争、機会の均等は簡単にギャンブルの世界だ。偶然が絶えず侵入して、誰にも負ける可能性がある。政府も偶然から無縁ではない。

柄谷がくじ引きで官僚を決めると言ったとか。まさに共産主義の中央に偶然を侵入させないと、信用という魔物を排除することはできない。権力は、必ず腐敗する。特に共産主義社会において、ということ。

今では贈収賄ゲーム理論において理にかなっている。長期間継続するゲームにおいて、信用により仲間を作ることが、決定的に有利である。ゲーム理論ごときが示すものは、当然人は社会で実行している。

すなわち贈収賄は貨幣交換に先行する。人は贈収賄を基本に経済を運営してきた。貨幣等価交換は最近後からきた新参者だ、交換とはそもそも贈収賄なのである。この基本的なことがマルクスにはわからなかった。

いまだに韓国は汚職国家だし、中国は習近平汚職撲滅で党員の大量粛清を行った。日本もリニア事業で大手ゼネコンたちの談合が問題になっている。

ある意味当然である。できるだけ自由競争を回避して贈与交換にすることが、勝負には合理的である。賭け事をするなら、元締めを味方にすることがもっとも確実な必勝法だ。先に贈与交換があり、近代に自由競争が入ってきた。

ハイエクの積極的な自由主義とはそのような意味でもある。さすが自由主義の祖ヒュームの継承者。自由競争は、徹底しないと雑草は増え続ける。自由は放任ではなく、自由は積極的推進するものだ。社会に偶然を侵入させて、活性化することで経済発展は生まれる。

マルクスは、資本が生む金を問題にした。これを労働者からの搾取と考えた。なぜ金が金を生むのか。金を貸すことは、返ってこないリスクを伴うからだ。投資することで、回収できないリスクがある。資本家はそのリスクを背負っている。そのリターンだ。

資本はそう簡単に金を生むわけではない。ケインズのアニマルスピリット。リスクのないところでの投資はリターンも少ない。さらに多くのプレーヤーがいて自由競争にさらされる。儲かるのは、リスクの高いところ。ベンチャーや、途上国など、未開の部分にアニマルスピリットで投資するときに儲かる。

問題は、この部分への投資の公平性。このような情報は裏情報になりやすい。金持ちに話が回ってくる。あるいは、リスクが高い投資は貧乏人には難しいなど。

すべて贈与交換が問題なんだよ。身近な人と助け合うという人間本来の性向。金持ちは金持ちで助け合い、リスクを減らす。自由主義は自由競争をスローガンにするがどこまで言っても限界がある。基本、自由競争なんて恐ろしいこと誰がやるの。

逆にブルジョワ革命は、贈与交換を解体にある部分成功したから、いまがある。ブルジョワ革命の起こした人類史の格差問題の解決。それを認めるべきだね。

なんと呼ぼうが、ブルジョワ革命は起こり、人類は解放された。結局、安倍政権のいまの日本は、人類史上、最も豊かで公平な社会であるんだから。その事実は認めないと。

再度、まとめると、資本主義において、金が儲かるのはリスクの高いイノベーションへのアニマルスピリット。そして成功して一度勝ち組になると、勝ち続けやすくなる、

流動性が低く、格差が固定しやすい。だからリスクを生む状況が定期的にあることで、流動性が生まれる。それが戦争。戦争だけが格差を解消する。それがピケティ論。




■なぜ自由主義は成立できているのか

wiki
社会主義(しゃかいしゅぎ、英: socialism)は、個人主義的な自由主義経済や資本主義の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指す思想、運動、体制[1]。歴史的にも社会主義を掲げる主張は多数あり、共産主義社会民主主義無政府主義国家社会主義なども含む[2]。

社会主義はフラン革命前?からあるわかりやすい考えだ。富をみんなに等しく分ける。むしろわからないのが自由主義。みんな好き勝手にやれば豊かになる?自由主義はどう考えても、人の思考からは出てこないだろう。やはり大航海時代以降の、実際に進んだ歴史、重商主義重農主義の流れのなかからしか出てこない。

大航海時代の交易により生まれたいままでにない巨大な富、まず重商主義はそれをゼロサムゲームとして、国家間で取り合った。自国に溜め込むことが最も富む方法と考えた。重農主義では、ただ交易の利益だけでは発展がなく、それにより自国の農業の発展を重視した。しかしここから飛躍がある。違う富は溜め込むものではない。活用してより富を生む。それも国家管理を離れてより自由に。こんなことだれも信じないし、現にイギリスが成功するまでは。

この発想は、実際に外交官として飛び回ったヒュームの実地の経験がなければ生まれなかったかもしれない。まさに活発な交易の現場で、肌で感じたんだろう。無駄な干渉はやめて自由にやらせれば良い。

それ以前に、ヒュームがフランス啓蒙主義から離れていたのが重要だろう。フランス啓蒙主義の合理性からは単純故に社会主義しか生まれてこない。イギリス啓蒙主義は、関係性重視の系譜がある。社会の基盤は、黙約、共感にある。その道徳哲学しか、自由主義という発想は生まれないだろう。みんな自由にやれば社会は豊かになる。いまだに信じがたいこの思想。

方や、ヒュームは、ベンサム功利主義の元と言われる。アダムスミスの神の手という楽観主義に比べて、効用を経済学に導入して、合理的な分析した。自由主義は単に人の善意によるものではない。効用を得られるという合理的な判断をもとにしている。そこにあるのは、ゼロサムゲームを超えたウィンウィンな関係だ。互いに協力して互いに効用を得られる。

しかしどちらにしろ、19世紀末のまだ楽観的な時代であることは確かだ。20世紀に入り、実際に運用が始まると現れたのは、凄惨な格差社会である。

ヒュームの思想はハイエクに継承されるが、実際に見直されるのは、20世紀末の新自由主義である。社会主義は、国家社会主義として世界大戦を生み、共産主義の実験は壮大に失敗し、そして現代、ヒュームに回帰した。

それでもいまだに自由主義はなにか謎である。管理のいない自由放任の世界。なぜそれがこんなにうまくいくのか。

その一つの解を与えたのが、ウェーバーの資本主義の精神とプロテスタンティズムの倫理である。勤勉であることが自由主義を支える。現にイギリス、アメリカとプロテスタトの国が成功している。特にアメリカ人は勤勉である。その根底に開拓において、働かなければ生きていけないこと、さらに働けば実るという体験がある。西洋では労働自体が卑しいものという思想がある。西洋の勤勉とは古い思想に囚われないことが重視である。

そして日本。世界一の勤勉の国である。当然、プロテスタンティズムではなく、独自に仏教から導き出した。特に江戸時代末期から勤勉思想が広がり明治の近代化の発展を支えた。その後も、戦後の高度成長期、そしていまも変わらず。日本人がピケティの格差論に当てはまらない理由の大きな理由の一つがここにある。

なんだかんだいって、民主主義の一番の問題は金がかかることだよ。1回セックスすると子供ができるわけで、ねずみ算式に人口は増える。急激に増える人口に対して、人権を確保して、平等を維持する。どれだけの金がかかるか。その意味で、自由主義は経済的な解だよ。
機会の平等の元、自然にゆだねる。金がかければないなりにやりくりする。

そこに言われるのが、北欧信仰。北欧では高い税金を払う代わりに、社会保障を充実されている。人々の充実度も高い。でも小さな規模だからできるんだろうと言われる。ようするに、北欧の経済は閉じているわけではない。輸入もすれば輸出もする。自由競争に値段の下がった製品や、途上国の安い製品を買っている。だから北欧のようなことを世界レベルでやったとき、もう逃げ場はない。閉じた中で成立できるか。

あるいは、ベーシックインカム。最初にある程度のお金を等しく渡す、って、それが無くなったらどうするの。社会保障費をそこに使ってると、もう補助する財政ないよ。共産主義のように、経済そのものを国家管理する。平等にする。言うのは簡単だけど、人の活動全般を管理するってどうなの?




■なぜ日本はもっとも成功した社会主義国家なのか


アメリカの占領政策にある。最初、アメリカは日本が再び戦争に走らないよう、軍部右翼を抑える政策にでた。日本の愛国政策は禁止、教育は左翼系の支配下になる。この時に平和憲法ができた。

しかしすぐにソ連との対立が始まり、朝鮮戦争が勃発。方針は真逆になり、右翼を解放、左翼を抑えて、日本に軍隊を作り、朝鮮に出撃するよう迫る。そのときできたのが自衛隊、そして自民党55年体制

政治は、アメリカとの安全保障条約とともに保守が引っ張ってきたが、教育現場はいまも左翼が強く、愛国教育をガードしている。保守政治国家でありつつ、愛国を語ることがタブーの国になった。ここまで自分の国を誇ることができない民族も、世界的に他にいないだろう。

愛国はグローバルスタンダードだよ。自国を誇ってあたり前。アメリカ人とは愛国すぎ。自分たち大好きすぎだろう。

日本人のほんと面白い特性で、日本人のことを語るとき、ネガティブにしか語れない。トラウマ的失語症になった。戦後後遺症だな。

それでも政治は保守が勝ち続けるのが面白いところ。言葉にしようとすると、言葉がでなくなるんだろう。精神的病だよ。

日本人の精神性は仏教の無我から来てるから、自らを主張せず、謙虚であることが美徳なんだけど、この場合は、謙虚と言うよりも、言葉が出てこない失語症。精神的病に近い。世界では賞讃されているのに、自らガラパゴスとか揶揄する。日本人を一番否定するのは日本人(笑)

日本人の精神性の原点がどこか、周り見てみればわかる。お寺だらけ。時代劇でも、みんな信心してるだろう。仏教だよ。仏教は無我の宗教。西洋が有我なら、日本人は無我。自らが出ず、相手を立てることを美徳するんだよ。空気読むのはうまいのに、なんでうまいかもわからん。無我を美徳とするからだ。

西洋は有我の思想、日本は仏教から無我の思想。特に、世間主義。日本人の富は国有ならぬ、世間共有財産の面を持つ。ある種の社会主義的であるが、共有が無我に支えられている点で大きく違う。また共有は国家運営ではなく、世間には中央がない。

もうみんなすっかり忘れてしまったが、明治以降、日本は今よりずっと自由競争社会だったということ。企業は株主を重視して、株式から資金を調達して、そして株主に還元する。従業員の流動性は激しく当然、終身雇用などない。景気が悪くなればバサッと首にされててる。また会社自身も競争が激しく、できては消えるを繰り返す。資金のあるものは株主になり儲け、労働者は低賃金ですぐに首を切られる、まさに自由主義格差社会

さらには明治政府の地租税改革は、農民に厳しく、地主に有利な税制だった。明治政府はとにかく金がなかった。江戸幕府、そして各藩は金がなくて借金だらけで、抵抗なく廃藩置県に応じたと言われる。それを引き継いだ明治政府も借金まみれで、しかし産業育っていたい時代、金を取るのは農民からしかない。税金を払えない農民は地主に土地を売る。地主、資本家が富み、農民、労働者が貧しい超格差社会だった。

産業振興もあり、企業に課する税金は安いだけでなく、殖産産業で政府が投資した工場を資本家にただ同然で払い下げる。いまのアメリカに近いような格差社会だった。

明治政府は左翼を徹底的に弾圧した。欧州視察の時代はまさに西洋革命の時代で、左翼の恐ろしさをまざまざと見てきたからだ。超格差社会でありながら、西洋のように労働運動が抑圧される。その頂点が昭和恐慌だった。世界恐慌と連続して起こった恐慌に、農民、労働者は子供を売るほど、苦しんだ、

その中で立ち上がったのが、右翼の青年将校たちだ。彼らの多くは農家の出だったら。226事件までの数年間は青年将校たちによる財閥幹部、政治家を狙った暗殺、そして国家社会主義を目指したクーデターが繰り返された。結局、226事件にしろ、クーデターは失敗に終わり、彼らは逮捕されて処刑された。しかしこれ以降、政治の主導権は軍部に移った。そして軍部、官僚主導の昭和維新政治改革が行われた。

それは国家総動員体制として、軍事費調達の政策の面が強調されるが、そこには、自由主義格差社会から国民のための国家社会主義的な政治転換の意味も大きい。まず株式相場は政府の管理下に置かれ、配当は制限された。企業は株式相場からの資金調達に変わり、国家からの管理された補助により資金調達する。すなわち国家による統制される。産業全体が官僚指導により進む。従業員の雇用安定として、終身雇用が推奨され、また中小企業を積極的に活用するよう推奨された。官僚はまた税金を地方へも回し、全国的な貧困対策を推進する。まさにここに日本型国家社会主義体制ができる。これにより日本の格差は解消して、景気も回復する。しかしすぐに戦争に突入する。

日本で初めて国家社会主義的な実験が試みられたのが満州である。日清、日露戦争で勝ち取り、満州事変後、国家にまで拡張した。鉄道網、そして豊富な地下資源など、国家主導の産業統制が進められた。その中心人物が、昭和の怪物岸信介である。そう、安倍首相のおじいちゃま。政府から鳴り物入りで派遣されて、その手腕で軌道に乗せる。その時に手本にしたのが、ソ連の計画経済と、ナチスドイツの国家社会主義である。その後、岸信介は日本に戻り、日本の国家総動員体制づくりを手伝うことになる。

多くの人が勘違いしているが、敗戦後、アメリカによる民主化が進んだと思っている。確かに、軍部は解体されて、民主主義化は進んだが、戦後から続く国家社会主義体制の解体は不十分だった。

その理由は、アメリカは産業分野には比較的手を入れなかったことと、すぐにソ連共産主義との対立で、日本の民主化を抑えて、戦前の官僚などを復活させて、運営を任せた。官僚主導の国家社会主義的な面は、法律含めてそのまま残された。そしてそれが結果的に、護送船団方式と呼ばれて、高度成長に活躍することになる。

敗戦後、岸も戦犯として拘束されるが、釈放後、政治家に転身し、自民党立ち上げの主翼メンバーとなる。自民党内、かつての国家総動員の人脈を駆使して、官僚とともに、戦前の国家社会主義的な運営を継続する。すなわち官僚主導の国家運営、その後、岸は首相となり、あの全共闘運動の抗争の中、やや強引な手法で日米安保条約を成立させる。

国家社会主義的な面を改革しようとしたのが、小泉内閣構造改革政策だ、金融などいくつかの面で、昭和維新以来の自由主義的な法改正にこぎつけた。しかし全体から見ればまだまただ。今となっては、格差の増加、非正規雇用はまさに小泉規制緩和で増加した。いまや失われた世代と言われている、そしていまの安倍政権は、政府主導の大企業への投資など、むしろ国家社会主義へ回帰している面が強い。

昭和維新岸信介国家社会主義は、北一輝を手本にしたわけだが、北一輝西郷隆盛を尊敬していた。なぜ西郷隆盛は明治政府と対立したか。そこにあるのは、西洋型自由主義を急速に取り入れる明治政府と、日本型社会主義?にこだわる西郷。

昭和維新は、西洋化に対する日本人の伝統的社会主義の揺り戻しがあり、そのときにできた法制度がいまだに運用されているというのが、日本型国家社会主義だろう。

北一輝は、226事件青年将校たちとともに処刑される。実行犯でもなければ、首謀者でもないのに、ただ226事件の精神的な師であっただけで、危険人物として。

しかし結局、その後、北一輝国家社会主義を学び、日本を作っていった。いまの日本の建国の父ともいえる、

北一輝国家社会主義の特徴は、西洋型の貨幣分配を基礎にするのに対して、献身的道徳による国家社会主義。日本人伝統の道徳を基礎にした。まさにいまの日本の国家社会主義の原型。要するに勤勉を基礎にした社会主義岸信介北一輝信者だった。

北一輝の思想
天皇は国民の支配者ではなく、国家の一機関。
ブルジョワ市民社会個人主義ではなく、献身的道徳による国家社会主義を実現すべき。
・国家は支配者の権力装置ではなく、国民の平等な政治的団結を示す社会。

サービス残業も日本人の美徳だったし、むしろみんな喜んでやった。それでいまの日本の繁栄があるんだけど、いつから悪者になったのか。いま、サービス残業を無くそうとしているのは労働者側ではなく、経営側であるのはポイントだね。




■なぜ日本は世間社会主義なのか


現代は百姓は農民のことのように言われるが、漁業も百姓だ。そもそも日本は自然に恵まれている。周りは海がある。海とはハイウェイだ。江戸時代より遡っても、農民は単に農業だけに従事していない。

さらには日本の農民の自治は戦国時代に遡る。秀吉や家康の全国統治は、すでにある農民たちの自治村を管轄したに過ぎない。基本的に、村の運営は農民に任せる故に、統治できた。日本の基盤は、戦国時代以降の、農民による自治村にある。それまでの荘園制度から、自治村へ。誰が統治しようがそれは揺るがない。それは明治になっても変わらない。

勤勉革命は江戸後期に起こったが、勤勉は自治であり、やればそれだけ豊かになる独立性から来ている。自治村故に根付いたものだ。

江戸時代はプレ資本主義だった。元禄に江戸で消費社会が花開いた。そして広がり、江戸の後期に各地の土地で消費社会が活発になる。農民はただ田畑を耕していただけではない。現代の地方の名産品の多くは江戸時代に作られた。農民は現金収入を得るためにも積極的に市場に参入した。もう一つは、武士は儒教的精神性から商売を嫌った。商売による利益を賤しいものとした。このことからも税収を農業からの年貢に絞り、商人からの徴収は緩く、農民もまた商業に積極的に関わった。日本人の勤勉の理由の一つがここにある。頑張ればそれだけ富が得られる。

農業から、とくに米を税収の中心に据えることで、それを現金に替える米相場が重要になる。しかし消費経済で緩やかにインフレしていく中で、米の価値は相対的に下がっていく。これによってどんどん幕府、藩の財政は悪化していく。このために江戸幕府がとったのが、享保の改革寛政の改革など、倹約令だ。消費を抑えて、インフレを抑えて藩の財政を立て直す。しかしそんなことで消費社会はとまるはずはなく、江戸末期には各藩の財政は破綻状態にあった。それに比べて、商人や農民はむしろ消費社会と勤勉ブームで潤っていた。

江戸はすでに世界一の大都市で、治安、清潔の面でも世界に他に例を見ない。結局、武士という世界に例を見ない真面目な支配者層故に、豊かで公平な社会が実現されていた。

農民の貧困は、幕府の取り立てではない。主に飢饉だ。こればかりは仕方が無いが、単に飢饉ではないのは、すでに市場経済故に、飢饉になると商人は米価をつり上げるために、米をため込む。いまのような国家の経済政策もなく、商人はやりたい放題。だから農民は、商人に打ち壊しに向かう。

すでに市場経済故に、飢饉になると商人は米価をつり上げるために、米をため込む。すると市場から米がなくなり、飢餓がサラに進む。

商人への税、運上がどこまで機能したか怪しい。そもそも商人がどれだけ稼いだか、知らないわけだから。冥加金はさらに怪しい。幕府が金がなくなったときに泣きついただけともいえる。土地の広さと連動した年貢に比べれは、ざる。

なぜ幕末、薩摩が力をつけたか。全国的に金欠の中で薩摩藩は沖縄などの産物を、長崎で外国に得る権益を持ち、財政的な潤っていたからだ。それを軍事に費やすことができた。

世界のどこに献身に働き、清貧を貫き、領民が贅沢する支配者層がいるだろう。西洋の支配者は労働を卑しいものとして、いかに領民から金をとって贅沢するかしか考えない。なぜなら支配者と領民は異なる人間種なんだから。

この伝統は日本の公平の伝統は今も引き継がれている。西郷隆盛を敬愛した北一輝国家社会主義、献身的道徳による国家社会主義とは、このような江戸時代からの流れで理解しなければならない。

明治に入ってきた勤勉は、プロテスタンティズムの勤勉をもとにした工業的なものだ。たとえば時間通りに仕事をする。秒単位で機械にそしてみんなで同期して働く。この意味で、明治に日本人は役に立たなかった。時間的な同期など気にしないやりたいようにやるから。しかしそれも義務教育などで克服していく。もともと勤勉なんだから、やり方を覚えるだけだ。

明治政府は、江戸時代に自主的に行われていた勤勉活動を国家推奨として、取り開けで推奨した。日本人は明治時代に勤勉を学んだのでなく、工業的な勤勉を学んだ。工業的な勤勉とは、分業。多くにおいて、時間的な連動だ。たとえば近代の軍隊もその特徴は連動にある。

話を戻すと、西郷隆盛を敬愛した北一輝国家社会主義、献身的道徳による国家社会主義とは、このような江戸時代からの流れで理解しなければならない。そしてなぜ日本が最も成功した社会主義国家になりえたかも。

社会は、明治にソサイエティの訳語として作られた。それ以前は、世間の一般的に使われて、いまのようなネガティブな言葉ではないどころが、ポジティブな言葉だった。世間はもともと仏教用語で世界のこと。倫理的な意味があった。

そもそも商売は、町人にとって生涯の仕事であり、親子代々に伝える家業であった。西鶴は、自分と家業との関係において、家業にはげみ、諸事倹約をまもることの必要性を説くいっぽう、<家業>と<世間>との関係において、「世間」の道徳にしたがうことの必要性を説いているのである。・・・西鶴の作品には、「世間」を道徳基準のよりどころとするような表現がなんと多いことであろうか。たとえば「世間並に夜をふかざす、人よりはやく朝起して、其家の商売をゆだんなく、たとへつかみ取りありとも、家業の外の買置物をする事なかれ」、というふうにである。P60-66

「世間体」の構造 社会心理史への試み 井上忠司 講談社学術文庫 ISBN:406159852X

江戸時代のウチとソトは、いまでいえば、ミウチと、大きなウチ。というのは、世間は自分も帰属して、価値観が通用する世界だから。今の外国のように、まったく価値観が通用しない外があると考えていない。だから渡る世間に鬼はなし。ミウチではないが、話せばわかり合える世界。

もう忘れられているんだが、江戸時代の人は思っている以上に仏教的な価値観の世界を生きていた。倫理も仏教基準だし、極楽と地獄。それが世間。

「いつまでいっていても仕方のないこと 。早く早く殺して殺して 」と 、最期を急げば 、「承知した 」と 、脇差をするりと抜き放し 、「サアただ今だ 、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 」といっても 、さすがにこの年月 、いとしい 、かわいいと 、抱きしめて寝た肌に刃が当てられようかと 、眼もくらみ 、手も震えて 、弱る心を引きしめ 、取り直してもなお震え 、突こうとはしても 、切っ先はあちらへはずれ 、こちらへそれ 、二 、三度ひらめく剣の刃 、あっと一声だけ上げたお初の喉笛にぐっと通るや 、「南無阿弥陀 、南無阿弥陀南無阿弥陀仏 」とえぐり通し 、えぐりつづける徳兵衛の腕先も弱ってゆく 。弱りきったお初を見ると 、両手を伸ばし 、断末魔の四苦八苦 、哀れといってもいい尽くせない 。「自分とても遅れようか 。息は一度に引き取ろう 」と剃刀取って喉に突きたて 、柄も折れよ 、刃もくだけよとえぐり 、ぐりぐりえぐりつづけると 、目もくらみ 、苦しむ息も 、暁の死ぬべき時刻をむかえて絶えはてた 。誰が告げるとはなく 、曾根崎の森の下風に乗って噂が伝えられ 、広まりつづけて 、身分の高下にかかわりなく大勢の人たちの回向を受けて 、未来成仏疑いのない恋の手本になった 。

曾根崎心中 冥途の飛脚 心中天の網島 近松門左衛門 角川ソフィア ISBN:4044011036

明治に社会が生まれたときに、社会は民主主義世界だから、世間はネガティブに捉えられるようになった。それでも、今も日本人は社会でなく、世間を生きている。世間の皆様に迷惑をかけないように。

日本の会社主義は特殊だと思うが、終身雇用とか、人生、家族そのものが帰属する。西洋では会社は会社、コミニティはコミュニティ。

社会は、個人単位、民主主義の法が基準。世間は、イエ、村単位、勤勉、正直、献身が基準。

日本の場合は、世間社会主義。世間は国家も政治家も自称左翼も、日本人すべてを内包する。日本人には、西洋的な、国家と市民、資本家と労働者の対立概念が薄い。みんな、世間じゃないか。安倍首相だって世間、話せばわかる。法律なんでいざとなれば改訂すればいい。法で裁かれたから償ったと思うなよ。世間がゆるさん。だから自民党一党政治で問題ない。自民党は世間のことを良く聞く。だってみんな世間なんだから。

世間を一番繁栄する政党が勝つ。左翼は世間を無視して暴走するから絶対政権は取らない。民主党のときもやばかった。合議を無視した暴走した。世間はカンカン菅直人、もうみんな二度と政権とらせないと言ってる。

自民党はとにかく合議だから。党内合議。野党と合議。世間と合議、だから日本の国会の法案成立率は低い。

日本人の格差を語るときに注意が必要なのは、日本人の経済は個人単位ではなく、家単位ということ。父は豊かで息子はそれに、寄生する例は多い。だけど、個人ベースでは息子は貧困になる。息子は贅沢に暮らしてるのに。

個人単位の集計と、家単位の実際故に、社会保障が貧しくない人たちにばらまかれてる。しかしさすがに政府は、家単位の話はできない。だから国の借金増やしても、どんどんばらまく。その方が支持率も上がるし。

結局、国債は国民の貯金で賄われてるから、国の借金で国民が潤い、さらには貯金が増える。
それで借金が賄われる……まあ、いいんじゃない?(笑)

大きな流れでは、親世代は金を持ち、それに息子世代は寄生する。しかし孫世代まで金が行かずに、子供の貧困は進んでいる感じかな。早く親世代は死んで、遺産を残して、孫世代まで潤わせるんだな。

なんだ、かんだ、いまの日本は歴史的にも絶頂期にある。国家社会主義として成熟している。成熟しすぎた故に怠けて子供を作らない。少子化。これはマジやばい。移民誘致をいつ進めるか、待ったなし。みんな外国人と仲良くやれよ。日本人ならできる。世間に外国人も招き入れよう。

日本人は、政治でも、世間を重視する。左翼が忖度で首相を批判するのは笑う。左翼なら忖度なんかで批判するな、法を基準を語れよといいたい(笑)

一般的に福祉国家は、社会保障費の充実だが、日本は社会保障費ではなく、雇用の安定により、社会主義を実現している。日本では個人に金をばらまくより、家を中心であることもあり、雇用を安定することが一番の社会保障と言われる。安倍政権も、もっとも重視したのが、失業率を下げること、新卒内定率。大企業の収益を安定させて、関連会社、取引先などの雇用を安定させる。

賃金が上がらないことが問題になっているが、実はサラリーマンは目先の小金を望んでいない。会社が安定し、雇用が安定することを望んでいる。

安倍政権の若者の支持率が高いのも、新卒内定率が高いことが要因と言われるよね。新卒で正社員になることが、その後の経済的な安定によりつながる。少しぐらい賃金が上がるより、会社の安定を望む。

さらに日本人に取って雇用は特別な意味があって、世間的に正規雇用になって一人前、社会的正員とみなされる。

日本では勤勉思想により、仕事は収入を得る手段でなく、社会的な貢献の意味を持つ。互いに貢献し合うことで、社会の豊かさを保っている。安価で豊かに暮らせる社会。これら日本の豊かさは雇用の安定を基本に成り立っている。

西洋ではサービスは商品だから価格に比例する。エコノミークラス、ビジネスクラス、ファーストクラスに分かれる。でも日本では全般的にビジネスクラスのサービスが提供される。コンビニでさえ、ある程度のサービスを期待できる。おもてなしの国。

そのかわり、サービス業の生産性が悪い、一人当たりのGDPは低くなる。それでみんな豊かに暮らせるんだから問題ないと言われる。またIT産業では、日本の消費者は悪名が高い。IT産業とは基本がセルフサービス化により、人件費を下げることだか、日本の消費者はセルフサービスのいうサービスの低下に納得しない。もとサービスします!いう日本語にあるように、サービスにはただの意味がある。サービスに価格意識がないから単なるサービス低下、手抜きととらえる。




■なぜシェアリングエコノミーは、真のIT革命なのか。


マルクス社会主義は結局何を目指したのか。共産主義国家のような国家管理型の共産主義か、あるいは夢のアソシエーションか。アソシエーション的な国家は成立したことがないが、今後、真のIT革命が起これば可能性がある。

シェアリング‐エコノミー(sharing economy)

物・サービス・場所などを、多くの人と共有・交換して利用する社会的な仕組み。自動車を個人や会社で共有するカーシェアリングをはじめ、ソーシャルメディアを活用して、個人間の貸し借りを仲介するさまざまなシェアリングサービスが登場している。シェアエコノミー。シェアエコ。共有型経済。

最近は、個人投資や、直接労働を売るシステムが広がってる。自分の得意を時間単位売る。

個人に投資する「VALU」サービス、仕組みとリスク・危険性・問題点
http://cslbook.com/business/5312/

あなたの30分が商品になる!?空き時間を売るタイムチケットとは?
https://hintos.jp/articles/timeticket_20170120/ #hintos

ネットでいまだにシェアリングエコノミーが広がっていないことの方が不思議だ。実はシェアリングエコノミーの手前まで来ている。交換されるのは、関心。いいね!ブクマなどを交換する。なぜこれが現金にならないのか?

単純に簡単に払えるお金がないから。ただそれだけだ。グーグルに儲けさせるなら、コンテンツ製作者に金を払うべきだ。

いまのITは便利だが、従来の大企業型を活性化する役目しかしていない、真のIT革命とは、集金システムを変えること、すなわち資本主義の金の流れを変えること。それで産業革命に匹敵する革命が起こる。ネットが広まってまだ20年。

IT革命は、生産、流通の民主化を行った。かつて大企業が高い投資でしかできなかったことが、個人で安価にできる。そしてそれを必要な人に届けることもできる。ただ最後のパーツがなかった。そこから金を取る方法。だからみんなネットに無料で公開する。一生懸命働いても趣味にしかならない。そしてそのネット上の人々が作った有用な商品、宝の山から金をとるのがグーグル、ユーチューブなどアフィリエートなどわずかな金を生産者に払って

でもいま換金手段がやっとできつつある。まあ、ビットコインは失敗したが?それに変わるものが次々出てくる。あるいはメルカリみたいな仕組みも広がりつつある。要するにC to Cだね。

今一番も問題は、C to Cの支払いシステムがない。あっても、中間マージンが高い。現金を渡すように、1 円単位の支払いをできる交換システムがなければ、C to Cは成立しない。

なぜならネットは一人1円を一万人集めるシステムだからだ。今のネット上の価値交換は、いいね!だ。関心交換は活発だ。これを貨幣価値化するには1円単位が重要になる。

シェアリングエコノミーの重要な特徴は、それが商品貨幣等価交換ではないということ。
そこにあるのは、贈与交換なのだ。

たとえばいまもっとも成功しているシェアリングエコノミーはメルカリだ。なぜヤフオクよりメルカリなのか。その利用者に女性、主婦が多いことがポイントだ。彼女たちは単に金がほしいだけではない。私のいらなくなったものを活用してください、という贈与交換要素がある。単に等価交換なら金を払った分の品質か、問題があるが、贈与なら品質が悪くても仕方ない。それは等価交換の二者の精算ではなく、多くにコミュニティの助け合いであり、そしてある種の善意の好感というコミュニケーションを楽しんでいる。これがシェアリングエコノミーの本質である。慈悲エコノミーなのだ。

農業自給自足社会から、大企業型資本主義社会へ、そしてこれから誰もが小さな生産者である民主型資本主義へやっと移行する。まあ、いままでのIT革命は前走、これからが本番だね。

誰もが生産、精算手段を持つことで、金の稼ぎ方が多様になる。すると今までのような正社員労働への依存が減る。雇う側と雇われる側の非対称。すなわち雇う側が有利な状況は解消される。各人が独立した生産者となり、また消費者となる。大企業に労働時間を売るモデルへの依存が弱まる。

おそらくそう遠くないうちに実現するだろう。すでにみな、大企業労働から離れて、趣味を含めて時間を使っている。そこに取引が入るだけ。労働形態はかなり多様になる。労働は、一部を大企業に売り、個人間で売り買いして、また労働へと拘束も減る。

唯物史観によれば、革命は下部構造、すなわち経済形態の変化でしか起こらない。シェアリングエコノミーは、生産の民主化であり、ビジネスが、B to B、B to Cから、C to Cへ。長らくお待たせしましたが、やっとそこまでテクノロジーがついてきました。

現在、グーグル、アマゾン、ツイッターなどは、みなの無償の労働コンテンツを元に膨大な収入を得ている。それを少しでも、正当に労働者に返す。今後もナビゲート機能は重要で、彼らの仕事はなくないだろうが、一人勝ち、搾取は許せない。

世界の富の創出の基礎にある・・・生産消費の価値が実際に、経済専門家が計測している金銭経済の総生産とほぼ変わらない規模があるのであれば、生産消費は「隠れた半分」だといえる。同様の推測を世界全体に適用し、とくに生産消費だけで生活している何億人もの農民の生産高を考慮すれば、おそらくは見失われている金額が五十兆ドルに達するだろう。

これらの点がきわめて重要なのは、知識革命がつぎの段階に入るとともに、経済のうち生産消費セクターが目ざましく変化し、歴史的な大転換が起ころうとしているからである。貧しい国で大量の農民が徐々に金銭経済に組み込まれていく一方、豊かな国では大量の人がまさに逆の動きをとっている。世界経済のうち非金銭的な部分、生産消費の部分での活動が急速に拡大しているのである。日曜大工やDIYの類に止まらない広範囲な分野で。この結果、まったく新しい市場が開かれ、古い市場が消えていく。生産消費の役割が拡大するとともに、消費者の役割が変化していく。医療、年金、教育、技術、技術革新、財政に大きな影響を与える。バイオ、ナノ・ツール、デスクトップ生産、夢の新素材などによって、過去には想像すらできなかったことが誰でも、生産消費者として行えるようになる世界を考えるべきだ。P294-296 


「富の未来」 アルビン・トフラー (ISBN:4062134527