みそけん、大いに語る。その2

ここ数ヶ月、5ちゃんねるの哲学板で語った内容を掲載します。
スレッドは、「カール・マルクス」、「ものすごい勢いで誰かが質問に答えるスレ」、「仏教哲学」。
第二弾は、「ものすごい勢いで誰かが質問に答えるスレ」、「仏教哲学」スレッドで語った内容からです。どうぞ♪

なぜ日本人の精神は仏教が作ったのか
なぜ慈悲は経済なのか
なぜ日本人は技術によって世界に慈悲を広めるのか
なぜ日本人はすべて慈悲を基本とするのか
なぜリベラル圧には逆らえないのか




■なぜ日本人の精神は仏教が作ったのか


まず仏教の素晴らしさを知らなあかん。というか、キミの中にすでにあるわけやが、なんと言って寛容。キリスト教イスラム教のような原理主義排他主義ではない。だからインドから中央アジアを通って中国、そして日本へ。広がるたびにその地に合わせて変化する。だから日本人の仏教は日本だけのもの。

たとえば日本で仏教言えば葬式仏教。そんな仏教は日本にしかない。葬式仏教は日本人だけの仏教。そもそもインド仏教に墓なんかない。輪廻転生で魂が生まれ変わるから墓なんか意味ない、死んだら体は川に流すだけ。

でもこの葬式仏教こそが日本人には大切。なんでか?葬式、墓とは、家やから。日本人は家を基本とする。日本人は仏教徒かどうかはわからんが、仏教が日本人の精神性を高度に育てた。そしてはじめて国民レベルで空を達成した。



縄文時代


太古の日本人を考えるとき、一番は日本語だろう。中国語とも朝鮮語とも違う発祥不明な謎の言葉。稲作の伝来とともに、中国大陸から化が入って来た。それ以後に、この謎の日本語をもって伝来した人々はいないわけで、するとそれ以前に日本語が日本列島で広く使われていた。

なんといっても縄文時代は、1万年以上という世界一長い文化を継承していたわけだから、日本語の起源は1万年以上あると考えた方がいい。そして稲作伝来で、弥生人が多く到来したとしても、言葉が日本語のままだったということは、征服された訳でもない。いまでに水田稲作伝来前に、農耕が行われていたことがわかっているし、水田稲作という生産性の良い農法が伝わり、日本にいた人々も学んだと考えられる。


聖徳太子


それまで、竪穴式住居だ土偶という中にいきなり聖徳太子の時代に仏教がやってくる。今でもお寺より木造とか、仏像とか、すごい技術だよね。それがいきなり輸入されてくる。といっても、一番はその思想だから。文字もなかったから日本にはどかーんと、今でも高度な仏教思想が流れ込んでくる。その衝撃たるや。

中国には、仏教の前に、老荘思想儒教などのこれまた高度な思想があった。中国で仏教と混ざって、日本にやってきた。特に唐の時代は中国の第一仏教ブームだった。その後、中国では儒教時代になるんが、日本ではその中国仏教が根付いていく。

稲作のあと、中国大陸から文化はどんどん入って来て、有名なのが、儒教と仏教伝来の聖徳太子時代だよね。聖徳太子は、仏教に関する論文をすでに書いている。十七条憲法は、明らかに儒教、仏教の影響のもと書かれているんだけど、なぞなのが、第一条に「和をもって尊しを成す」をもってきたところ。和を一番にする考え方、仏教にも儒教にもない。日本人独自の考え方があるんだろうね。和を重視って、いまだに日本人らしくて面白い。すでに、日本人の精神性はできていたのか。

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/66_yuimakyo/index.html

聖徳太子によって日本で初めて解説された仏典の一つ「維摩経」。「理想の生き方は、世俗社会で生きながらもそれに執着しないこと」「すべては関係性によって成立しており、実体はない」「だからこそ自らの修行の完成ばかりを目指さず、社会性や他者性を重視せよ」。維摩の主張には、既存仏教の枠組みさえ解体しかねない破壊力があります。それどころか、現代人の私たちがつい陥りがちな「役に立つ・役に立たない」「損・得」「敵・味方」「仕事・遊び」「公的・私的」のように、全てを二項対立で考えてしまう思考法をことごとく粉砕します。

聖徳太子がこれを選んだのか偶然か。必然か。まさに今の日本人につながるし、さらには現代人でも難解な空の真髄。最初に覚醒した日本人は聖徳太子か。そして江戸時代に庶民レベルの覚醒に至る。


<奈良平安時代


韓国は唐に征服されたこともあり、いまだに儒教が国の基本なんだけど、日本は儒教的なものの影響を受けたんだけど、本来儒教というのは、論語の道徳であるよりも、儀礼体系なんだけど、そういうのはほとんど採用していない。日本人が影響を受けたのは仏教。そして仏教も中国で儒教化されたのが中国仏教なんだけど、また日本人は変わっていて、仏教を国家管理にしたんだよね。

僧侶になるのも国家資格がいる。そして僧侶に求められたのは、国家安泰の祈祷。それで空海は名をあげる訳だけど。日本は悪霊を信じていた。無念で死んだ人々、有名なのは菅原道真とかいるけど、後は天皇になるために、多くの血族を殺すわけだし、怨霊化して国を滅ぼすと考えて、卑弥呼の時代から、祈祷による国の安泰が天皇の一番の仕事だった。だから意味不明に遷都を繰り返してた。怨霊から逃げるために。陰陽師とかもあるんだけど、最新の祈祷技術が仏教だと考えて、国で抱え込んだ。なんともはや、日本人独特だね。

そもそも儒教には禅譲という考え方があって、徳のある人が代々、皇帝を引きつぐと考える。だから血族ではないんだけど、ご存じのとおり、天皇には禅譲はない。天皇の血統が天皇を続ける。なにせ天皇は神の子供なので、徳があるのはあたり前。だからそれが未だに続くって世界最長なわけだけど、

ここにも日本独自がある。ようするに疑似単一民族だから、多民族による革命がないわけだよね。いままで天皇へ変わろうとしたのは、平将門ぐらい。

中国大陸からの文化をいい感じで吸収して、独自の改良する。まさに近代に今度は、西洋文化を速やかに吸収する。清国が儒教などの古い文化から簡単に近代化できなかったのとは、大違い。


<平安鎌倉時代


日本で庶民レベルで仏教が広まった一つが、平安時代源信の往生要集。 これは、死後の極楽、地獄を絵的に臨場感たっぷりに書かれている。 良いことをすれば極楽に、悪いことをすれば地獄に落ちてこんなひどい目に合う。 だから生きてるうちに慈悲を施しなさいと言うわかりやすい道徳本。 空もなにもない。 このわかりやすくが受けて、庶民レベルに仏教倫理が受け入れられた。平安時代の幼稚な仏教観の時は、慈悲ポイントを貯めるみたいな気軽さがある。 いじめられた亀を助ける。慈悲ポイントを5点! 死ぬまでに100点貯めて、極楽に行こう!的な。

鎌倉時代親鸞歎異抄はいわば、この幼稚な仏教観への対抗になっている。善行をすれば極楽に、そんなもんじゃない。 鎌倉以降が新仏教と言われる一つが、庶民レベルに仏教の真髄である空が教えられていくところにある。 それでも、この極楽、地獄観のわかりやすさは、日本人の死生観としていまも当たり前に根付いている。

善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない 」 といいます。これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。しかしそのような人でも、自力にとらわれた心をあらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、真実の浄土に往生することができるのです。

歎異抄」3章

私は善人である、良いことをしたから救われる。そんな打算的、そして小さな事に救いはない、ということ。まさに慈悲ですよね。真の慈悲とは仏の慈悲であり、私ごときの打算は慈悲とはおこがましい。悪行と善行を越えたところ、空において、救いはある。。(超意訳)

親鸞歎異抄にしても、読みやすいが精神的に高度だ。親鸞は地方に飛ばされて、そこで教えを広めたが、そこは倫理的に低い野蛮な人々の世界だったと思う。そこでわかりやすいように、高度な倫理を広めていった。


<戦国時代>


日本において、仏教が庶民へ果たした役割は、今で言うと西洋近代化の科学技術、民主主義、自由主義に近いんだよね。ここがわからないと日本の仏教まったくわからない。

仏教が広がる以前の日本は、迷信、ドグマの世界。特に日本人は祟り、穢れを恐れた。人を死に貶める伝染病みたいな感じ。

空海が名をあげたのも、雨乞いの祈祷だった。祟りによる日照り、飢饉を、回避する。仏教の一番の力は、清めること。怨霊を成仏させたり、穢れを清めたり、それによって、いままで人が近寄れなかった暗部を清め、開拓した。昔話でも、鬼とか妖怪を、坊さんが退治するという話しがあるが、まさにそれ。

その最大が死。いままで穢れると避けられていた死を、清めて、成仏させる。人々は葬式を上げることができるようになった。そして、倫理。偏見、差別、欺すなど、まだ野蛮な日本人を、慈悲を教えることで、倫理的な人間に、いまでいうリベラルな人間に作り替える。

さらに仏教はその時代の実働的な能力もあった。読み書きを教える。法など、社会の仕組みを教える。また実際に多くの僧侶は全国ネットワークを使って、商人としての流通を担っていた。村々に、貨幣を流通させる。あるいは金貸しのようなこともする。

すなわち野蛮な日本人を、リベラルで知的な人間へ変える。そして生活も迷信をドグマを取り払い、文明化させる。

一部では、現代リベラルよりむしろ仏教による改革の方が進んで面がある。それが慈悲。職分主義。勤勉。西洋近代化は、科学技術の進歩によって、物質的に豊かにするが、個人主義に陥り、経済的な格差を生む。孤独を生む。


<葬式仏教>


実際、日本人の死生観というのは良くわからない。 本来仏教は輪廻転生で、死んだら魂は現世の行いに合わせて、生まれ変わる。 それを永遠に繰り返す。これはあくまで魂個々の運動で家族でさえ一期一会。 このサイクルから抜け出すためには悟りを開かなければならない。

でも日本人の死生観はちょっと違う。魂は家族とひも付いて、先祖の霊になったりする。本来仏教にはお墓、位牌はないが、祖先が帰ってくる目印としてあり、生きている人は供養する。さらにはなにか輪廻して、現世に生まれ変われることが喜びみたいな感じがある。中国では融合した儒教観を大きくごちゃごちゃになってる。基本的には、仏教の生きてることが苦であるのに、現世大好き、家族大好きな日本人。

戦国時代以降、農民も仏教を信仰するようになる。その一番が葬式仏教。それ以前、農民に葬式やお墓はなかった。荘園制から惣村という農民自治へ進む中で、土地と人が結びつき、家族、先祖が生まれて、家族を弔う需要が生まれて、それに答えたのが一部の僧侶。そもそも仏教に、僧侶自身を弔うことはあっても、庶民を弔う方法なんてなかった。仏教も生きてる人を救済することを目的にするから。

戦国時代から江戸時代にかけて、葬式仏教のニーズに応えるために、村に一軒のお寺時代が生まれる。すると、お寺は葬式だけでなく、多様な役割として機能する。知識機関、僧侶は知識人だし倫理を持つ、教えを請う、問題解決、手紙を書いてもらう、寺子や、お寺は宗派の全国ネットワークを持つから情報機関、お寺はネットワークを使い、商売の仲買も行ってた。

そんな農民とお寺の密接な関係は、新たな価値観をつくることになる。今の日本昔話なんかは、その中から生まれてきた倫理観をベースにしたりしてる。僧侶は知識人だから作家でもあったから。そして仏教の真髄である無我、そして慈悲、空観が日本人の基底になっていく。

無我とは、自他不二の倫理。自己を否定して他人に合一する方向の運動。他人を知るにはまず自分を否定すること。現代なら禅的と言う方がわかりやすいか。日本人は禅的だ、言われるが、それは文化の基底に空観があるから。

自他という二項対立を脱構築するために、まず自己を否定する。我が!我が!が嫌われ、謙遜するというのもそのため。曖昧と言われるもの、二項対立を回避するため。西洋人が耐えられない宙づりも平気なのは空観を身につけてるから、無用な争いを避けて、寛容でいられる。


<江戸時代 世間>


そして江戸時代の平安の中で生まれたのが無我の倫理圏として世間。みなが自己を否定して、世間のためを考えること。だから我が!我が!は、世間の倫理から嫌われる。

江戸初期に流行ったのが殉死。主君が死ぬと、身近な家臣はあとをおい自害する。武士道精神。確かに武士道という言葉は当時なかったが、山本常朝の葉隠に書かれたように、「武士とは死ぬことと見つけたり

忠臣蔵もまた武士道。常朝は忠臣蔵は武士道としては甘いと批判した。真の武士は、作戦を練るのでなく、その時すぐにただ仇討ちに向かう、死をかける

このような武士道を抑制しようとしたのが幕府。戦国時代も終わり、いつまでも殺伐としてると、いつ幕府に刃向かうかわからないから、それで儒教を導入した。

儒教は合理的だから、殉死とか、仇討ちとか、非合理的な行為を処罰した。忠臣蔵に対しての儒学者の判断が、処刑でなく、切腹だったのは温情だろう。世間の注目もあるし、武士道もわかるから、名誉ある死を与えた。

このような武士道が戦国時代にあったかは疑問。江戸になり、戦さがなくなる中で、武士が武士として生きるために、精神的な洗練に向かった。葉隠の山本常朝も、元禄の人だから戦さをしたことはなかった。

忠臣蔵にしても、武士の精神が理想化していって、それが実際に具現化したのは、世間が武士かっこいー!ってなったんだろう。もう武士は、役者だったと言える。赤穂浪士自体も酔っていた面もある。

殉死には有名な阿部一族事件があるよね。主君が死に家臣が殉死する中で、幕府の儒教的な殉死禁止により、殉死できなかった男が、周りから卑怯者呼ばわりされて、家族共々、殉死してくれと頼まれて、殉死する。いざ殉死すると、幕府の命令に背いたと、家の格を落とされて、それに家族がブチ切れて暴れて、幕府により家族もろとも殺される。

この武士道と儒教の差分はなにか。儒教の合理性を超えた美学。これは仏教の空からきたものだろうね。無我。我を滅して君主のために、さらには君主というより家臣としての役割を全うすることに、死をいとわない。

実際に戦国時代という実践ではどうだったか、戦国時代はもっと打算的な利益を求めるだましあいだったろうが、むしろ江戸時代に武士とはなにか?これからどうしていくべきか?という中で、洗練されてきたんだろう。そこには世間圧がすごかったという。それは現代タレントが不倫や軽犯罪を叩かれるのとは基本的には変わらないだろう。世間とは倫理である。

武士道という言葉は、明治にできたが、言葉がないから武士道がなかったわけではない。客観視されたのが明治だろう。明治に日本人思想はなんだと聞かれて、答えたのが武士道。しかし実際の武士はどうなんだろうね。そこまで格好良かったのか

江戸幕府から元禄当たりまでのまだきな臭い時代。最初の武士道的成熟は、武士がサラリーマン化する中で、武士とは何かが考えられた。殉死して見せたり、仇討ちしたり。赤穂浪士の頃は最後の侍的のことでないかな。だから庶民も熱狂した。

でも武士道の最盛期は、太平洋戦争だよな。明治以降、武士道は武士から庶民に移植されて、昭和には総国民武士化が完了する。敗戦後も、それは続いて、ボクらはみんなサムライだから。


<明治時代>


明治以降の近代化、富国強兵政策で、この日本人の無我は利用された。世間のためにが、国のために、天皇のためにすり替わり、仏教は破壊されて、国家神道にすり替わった。近代化は西洋キリスト教原理主義をベースにするから、日本人も原理主義的な強さが必要で、国家神道原理主義が捏造されて、仏教は排斥されて、無我の思想だけが利用された。


<戦後>


戦後、国家神道は否定されても、仏教が復活することはなかった。ただ世間の倫理は、江戸時代からずっと言葉にされない慣習として、日本人のベースとして続いている。戦後も経済戦争は続くから、会社のために!日本国のために!が残るのは致し方ないよ。それは近代の宿命さ。

現代でも、リーマンだろうが、バイトだろうが、主婦だろうが、そのベースには、世間のためにある。しかしそれを原理にはしない。みなができる範囲で世間を思う。いまの日本の豊かさは世間の倫理からできている。単に豊かになっただけでなく、みんなが世間ためのおもてなしを考えるから、住みやすい社会ができている。

最近、20秒電車の出発が早かったと鉄道会社が謝罪して、世界が驚いたが、それも世間への気遣いから来ている。これはやりすぎ感もあるが、日本人はみんな多かれ少なかれこのような気遣いはする。日本人以外はわからないだろうが。

日本人は空観能力という素晴らしいものを持っていることを自覚することが大切だと思うんだよね。変に利用されないためにもさ。




■なぜ慈悲は経済なのか


経済とは人は一人では生きられない。交換せずには生きられないという基本的な原則のこと。人がいるところには必ず経済がある。経済のもっとも原初の形態は、贈与交換。貸し借り。

wiki カール・ポランニー

経済の定義
人間は自分と自然との間の制度化された相互作用により生活し、自然環境と仲間たちに依存する。この過程が経済だとした。また、経済は社会の中に埋め込まれており(Embeddedness)、経済的機能として意識されないことがあると主張した。ポランニーは、「経済的」という言葉の定義について2つをあげる。1. 実在的な定義。欲求・充足の物質的な手段の提供についての意味。人間とその環境の間の相互作用と、その過程の制度化のふたつのレベルから成る。2. 形式的な定義。稀少性、あるいは最大化による合理性についての意味。前者の経済過程の制度化は、場所の移動、専有の移動という2種類の移動から説明できる。従来の経済学では後者が重視されているが、それは狭い定義であると指摘した。

日本人にとって、空や慈悲は、観念ではなく、現場的な経済です。

経済の基本の法則は、

贈与交換 贈り物とお返し、
再分配 税、
貨幣交換 お金による等価交換。

そして、慈悲は、

慈悲型の贈与交換。 返礼を求めない贈与。おもてなし。

まさに日本経済の豊かさは、慈悲型の贈与交換によって、みなが返礼を求めず贈与しあうことで支えられている。それは、日本人が空観をもっているから。そして日本人が謙遜するのも、経済の一環。

貨幣交換 (お金による等価交換) → 自由主義経済
再分配 (税) → 国家
贈与交換 (贈り物とお返し) →家庭、友達、親しい人々

これはどの国でもある。そして日本では、

慈悲型の贈与交換 (返礼を求めない贈与。) → 世間をみんなで豊かにする。おもてなし。

空、慈悲は、精神論ではなく、経済そのもの。

農業社会の前、狩猟社会では、原始共産制とも言われる社会ではあったと言います。一つの村が一つの家族のような。農業が発展すると富の蓄積ができて、その富を巡って、闘争がおき、勝った者か権力者となる。その権力範囲が初期の国家でしょうが。近代に繋がる巨大な国家は、それらを束ねる絶対主義国家の登場と言われます。

このような絶対主義国家は大航海時代など、農業を超えた公益によりより巨大な富が生まれたからです。

絶対主義国家と、近代民主主義国家は連続性があります。集約されて巨大な国家の富をいかに管理するか。そしてさらに発展するにはどうすればいいか。その解が自由民主主義です。

イタリア都市国家ポルトガル→スペイン→オランダ→イギリス、フランス。海外交易をめぐり、欧州の強国は移りました。これは富の移動であり、また政治体制の変化でもあります。絶対主義国家から、自由民主主義国家へ。

三段階に、経済構造を示しましたが、それぞれに主要な交換様式は先にあげたものになります。

原始社会 贈与交換 (贈り物とお返し) →家庭、友達、親しい人々

農耕社会 再分配 (税) → 国家

近代資本主義 貨幣交換 (お金による等価交換) → 自由主義経済


日本の場合、江戸時代は基本は農耕社会ですが、ブレ資本主義経済が育ち、江戸は世界一の商業都市でした。その中で日本人の慈悲型贈与交換は、農耕、資本主義経済を補完する形で広がりました、

再度、日本人の空、慈悲型贈与交換とは、すなわち勤勉です。勤勉とは一生懸命働くとではなく、世間のためにはたらくことです。近江商人の教え。「買い手よし、売り手よし、世間よし」。この世間よしが勤勉です。今もトヨタの社訓でもあります。

鈴木正三


どの仕事もみな仏道修行である。人それぞれの所作の上で、成仏なさるべきである。仏道修行で無い仕事はあるはずがない。一切の[人間の]振舞いは、皆すべて世の為となることをもって知るべきである。このような有り難い仏の本性を人々[は皆]具えている。本当に成仏を願う人であるなら、ただ自分自身を信じるべきである。自身とはつまり仏であるから、仏の心を信じるべきである。

石田梅岩


士農工商は、天下が治まるために役立ちます。その中の一つでも欠けてしまったら、世の中はうまく動かなくなるでしょう。士農工商を治めるのは君主の仕事であり、君主を助けるのは、士農工商の仕事です。侍は、位をもった臣下です。農民は、野にある臣下で、商工は市井の臣下なのです。臣としては、君主を助けるのが正しい道です。


日本で勤勉のような自主的な経済活動が発展した理由はいろいろあるが一つは、戦国時代の下克上秩序崩壊が上げられる。飛鳥時代天皇を頂点とした中央集権を制定したが、実際は豪族、貴族とのせめぎ合いが続く。それが貴族の私有地である荘園制である。

貴族が私有地として土地を囲い、農民を働かせる。平安時代以降は荘園制の時代と言える。それが変わるのが戦国時代の混沌である。

権力構造の変化の中で、農民は自立し自治的に惣村と言われる自治村を運用し出す。村は治安維持の武士、商人、そして教育機関、情報機関としてのお寺を内包する。

戦国時代も収まり、秀吉、家康はこの自治村を利用する。荘園制では中間搾取が横行したが、より直接村から税を徴収する。それが新たな権力者と農民ともに有効である。検地で公平な税を、刀狩りで武士で、商人を城下町に移す。日本の農民が西洋のような農奴でなく、自治的、そして生産性を上げればそれだけ自らの富となる勤勉性はここから来る。

さらに自治において大きな役割を果たしたのがお寺である。主には葬式仏教。葬式の始まりは、家族を生み、そして先祖を生み出す。そして村としての共同体としての助け合いを生み出す。これを利用したのが、家康の寺請制だ。


贈与交換は、人間の経済活動の基本だが、その基本は知り合いに限られる。困ったときは助け合う信頼関係を作る。慈悲型は、助け合い圏がより広くなる。必ずしも顔を知らなくても、みなで助け合おうという経済だ。

日常の労働を仏行とする。わざわざ祈る必要も、座る必要もない。働くことそのものが仏行であり、慈悲である。この画期的な発明。

思い出すのがウェバーで有名になったプロテスタンティズムの天職概念。労働が天職という神に与えられた奉仕である。それが資本主義の原動力となった。日本人の職分仏行論、すなわち勤勉はこれに近い。しかし日本人の勤勉は、資本主義の初期に限らない。いまも変わらない。

勤勉の発明は、たとえば目の前の困っている人を助ける必要はない。他人に冷たくてもいい。ただ自らの仕事を全うすれば言い。貢献は間接的であることが重要だ。

様々な宗教の慈愛のような高度な行為を求めない、ただ自分の仕事を行うだけで、慈悲仏行なのである。高潔な精神性を求めない。理性も求めない。ただ懸命に勤勉であればいい。

西洋では、心の中に宿る絶対神に忠実、と言うことでしょ。そこにはすでに最初から絶対的な価値がある。しかし仏教では、神はいない。みなでともに向上していく。それが日本人の勤勉だ。


西洋においては、労働より思惟が高い地位にあります。肉体よりも精神が高尚です。勤勉の地位は低い。プラトン主義ですね。しかし西洋においても、プラトン主義が力を持つのは近代です。科学がプラトン主義だからです。

日本人も科学を重視しますが、日本人らしいとは科学よりも科学技術を重視します。技術は、プラトン主義だけでは上手くいかず、現場での調整が重要です。勤勉です。

西洋人はとかくプラトン主義であり、設計主義です。理想的な解があることを信じ、求めます。しかし日本人さ現場主義です。理屈では上手くいかないことを知って、最後は現場での調整、さらには改善します。それは理屈ではありません。

そこに空があるのです。理屈に囚われない。いつも脱構築する。そしてその原動力が世間ためです。すごい理論を構築して、我を誇るより、実際に世間の役に立つことが大切です。だから勤勉は公平でオープンソースです。日本にもジョブズ級の人間はたくさんいるでしょうが、無我を美徳とします。




■なぜ日本人は技術によって世界に慈悲を広めるのか


多くの家電製品はアメリカで発明されて、日本でおもてなしを組み込まれて中国で作られ、世界中に広がる。日本の工場での、品質、改善。かつては日本の経済発展の推進力と言われて、たとえばアメリカ製品は品質が悪く競争にならなかったものが、いまや海外でも日本人式の工場運営が広まって、高い品質を達成するようになっています。まさに空が広まった例ですね。

確かにこのようなシステムはマニュアル化されて、広まった面もありますが、それとともに従業員への教育、訓練が大切です。勤勉さはマニュアル化できない。

果たして、西洋思想と日本人の品質思想は、どちらが世界へより大きな影響を与えているんでしょうか。

最近、オゾンホールが小さくなったというニュースがありました。まさにここ数年の環境技術の成果ですね。環境技術と言えば、日本です。車にしろ、エアコンにしろ、快適を進めつつ、省エネする。ここには名もなき多くの技術者の勤勉さとサービス残業があったわけです。名もなく地球を救うって、超クールじゃないですか?さすが日本人ですね。

ほら日本人は勤勉の国だから、電車の管理も高度なように、電力の安定供給もすごいんだよね。海外だと結構不安定だったり、地域的にムラがあったり、だから日本はその分、自然エネルギーみたいな不安定な発生源を嫌う。クールで安定と言えばやっぱ、原子力だったんだけど、福島で使いづらくなって、だから火力でクリーンということで石炭発電を力を入れてるわけ。日本独特な事情だから世界的はわからんだろうね。

アメリカで開発された品質管理、生産管理、フォーディズムテーラー主義。そこから日本は多くを学んだ。しかし日本で成功したのは、そこに決定的な違いがあったからですね。それが空です。

アメリカ人は、大量生産の効率化を目指した訳ですが、日本人はそうではなく、おもてなしを組みこんだわけです。安くて、良いもの、使いやすいもの、世間が喜んでもらう。それはアメリカの品質管理と決定的に違うわけです。

日本人は空によって、とかく過剰になりやすい。たとえばガラパゴス化ですね。サービス精神が旺盛でやり過ぎる。

最近、電車が20秒速く出発してしまって、鉄道会社が謝罪して、世界が驚愕しました。世界的には数十分の遅れとかあたり前でしょう。とかく過剰になる。

擁護するつもりはないですが、日本人の品質偽装も、20秒なんですね。過剰品質故に不良が多く出る、そうすると社内ノルマの中で20秒ぐらいいいんじゃない、となってしまう。

松下幸之助も、日本の技術者はとかくやり過ぎる。それよりも、安く世間に提供することを目指した訳ですね。


日本人の空の一つの批判が、保守に傾きがちと言うのがある。すべての対立を回収する強力さからは革命は起こりえない。だから江戸時代から現代まで日本には革命はない。江戸時代に多くの一揆があったが、それは体制への抗議であって体制そのものの反対はこれっぽっちもない。戦後も自民党の一党政権が続いているのもしかりだ。これは日本人が権力に従順であるのとは違う。左翼構図、権力者と非権力者の二項対立が成立しない。権力者も日本人である以上、権力者たりえない。

近代化の中ですっかり日本史は左翼に捏造されて、武士と農民の関係は権力の二項対立になってしまったが、そもそも武士と農民は職業である。職業で区分しているであって、階級で区分しているのではない。江戸時代に以前から日本の農民は自立性が高く、自治を行い、そして国に税を納めていた。

武士の役割は今で言う行政、政治家である。彼らは民主的に選ばれたわけではないが、より専門職だった。そして職業を全うしない、勤勉でない者には世間は黙っていない。世間圧は武士において強かった。

この構図は今の自民党政権でも変わらない。彼らが政権にいられるのは、勤勉に務めて、世間を読み反映するからだ。党内、さらに野党と合議を目指す。その中で世間の反応を見る。

このような自民党政治は、先進国でも独特だ。西洋では、選挙で民意が問われて、政権を取ると与党の方針に進む。そのために定期的な政権交代によるバランスが重要になる。トランプが暴走しているが、任期があり実際に政策が執行されるのは、次の大統領のときだから、そのまま進めるか、次の大統領選で問われる。

先の日本で民主党が政権をとったときに、西洋式に党内、野党のと、調整はあまり行われなかった。世間を読むこともなかった。それが左翼のやり方だが、それが心情的に日本人の反発を招いた。空気を読めない左翼のイメージをより明らかにした。

日本では政治家はまさに江戸時代から世間の空気を読む。すなわち権力者と非権力者の対立を空により解体し、勤勉な日本人、すなわち世間の一部であることが大切である。


日本人は世界的に見て、そんなに他者に優しいか。おそらく直接的にはキリスト教徒の方がずっと優しいです。電車でお年寄りに席を代わるのに、シルバーシートなんていりません。ボランティアは市民として当然の行為です。多くにおいて日本人は他人に薄情です。日本人はあからさまな他者救済を好みません。

ここにも空があります。空においても、強者と弱者は解体されます。困っているから助ける。それでいいんでしょうか?それは自分が業者で相手が弱者として決めつけているようなものです。また助けられる方も弱者認定されて恥をかくかもしれません。

シルバーシートは、気兼ねなく他者を助けて良いしるしです。そこでは弱者であることを認めた人がいます。助けても相手に恥になりません。やや面倒くさいですが、それが、空です。それだけ難解で簡単に国民レベルで実現するようなものではありません。

日本人が空の実践として発明したのが、職分仏行論です。みなが勤勉に働くことが仏行である。このような間接的な慈悲では誰が強者とか弱者とか、あからさまな我もありません。このような空、慈悲の実践は日本人の発明です。

直接的には他人に冷たく厳しい日本人は、間接的に優しい。そして西洋に比べても、豊かで公平な社会を実現しています。日本人はお百姓さんに、技術者に、働く人々に、そしてその作られたものに、感謝します。

こうして、日本人は初めて空を国民レベルで実践しえた人々になりえたのです。日本人は、数々の奇跡を起こしています。江戸は世界一の人口を誇る大都市でしたし、調和されたエコシステムは、その清潔さはその時代では奇跡的でした。明治には短期で西洋に追いつき、戦後も奇跡の復活を遂げます。これらの根底にあるのは勤勉です。勤勉は懸命に働くことではなく、世間のために働くことです。空による労働です。


いまは高度成長期体制の延長だから、日本人の勤勉が閉塞してる。 勤勉を正社員雇用で賄うのは限界。 だからいままで率先していたサービス残業議論が出てくる。

時代に合わせて勤勉を発揮できる環境づくりということで、安倍内閣働き方改革はすごく大切なんだけど、国ができるのは大枠だから、基本は民間の力で変わっていかないと行けない。まだまだ時間がかかりそうだ。

いかに日本人の勤勉の力を活用するか。そこに日本人の未来がある。

日本の大企業も活力を失って、自由に勤勉を発揮できる状況にない。効率を求める処理的な仕事が増えてる。それに対して、ネットの登場で、安価に生産手段が手に入るから、個人が様々に生産する時代。今は、それらは一括りで趣味と言われている。

ようするに、個人の生産物を販売する手段が不十分だから。様々な得意な作業を販売する時代になるんだろうな。闇では、特定の企業をウイルス攻撃するハッキングが売りに出されているらしいが。

そこで注目されているのが、シェアリングエコノミーだ。
(続きは、みそけん大いに語る。その1参照)




■なぜ日本人はすべて慈悲を基本とするのか


仏教の最大の謎は、価値相対化の先に、西洋のように相対化、神経症の精神崩壊に陥らず、慈悲が立ち上がってくることだ。しかしそうではなく、慈悲は空に至る唯一の方法であり、慈悲により初めて、価値相対化が可能になるのではないだろうか。どちらにしろ、仏教の悟りは論理ではなく、体験なので、言葉では表せない。

慈悲の実践とは、見返りなくより知らない人により多くを与えること。返礼を期待してより身近な人により多くを与えるという文明の原点と言われる法則、すなわち贈与交換に逆らうこと。価値相対化であり、これはまさに神の行為とされてきた。

慈悲の特別さのもう一つは、これが自然の恵みのメタファであること。自然の恵みは見返りなく、分け隔てなく与える。しかし人が見返りなくより知らない人により多くを与えることは、頭がおかしい。やはり我が大切だから我に近い人に見返りを期待して与える。ここでは、自他が解体されている。生死しかり、そして有無も。まさに空である。

自然の恵みは空である。西洋の相対主義はどこにもいかない。ただの崩壊でしかない。しかし慈悲は空に近づく。相対主義でありつつ、崩壊しない地点。

慈悲は自然の恵みのようなものだとしても、仏教は慈悲を語るのではなく、慈悲の実践すなわち空に至ることを目指すものだ。

たとえばそのための有名な言葉は、親鸞の「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」
これは弱者こそ強者に慈悲を施さなければならない。と言ってもいいだろう。日本人は現に実践しているこの意味を、西洋人は理解できないだろう。

慈悲は自然の恵みのようなものであるというのは簡単だが、実際に人がそのように振る舞うときに問題になるのはなにか?そこにこそ、キリスト教の慈愛とは異なる仏教の慈悲の真髄がある。

与えることそのものはそう難しくない。共感、同情、困っている人を助けるというのは、人の本能と言えるほど、基本的な特性だ。西洋人が仮にそれを愛と呼び特別なものに感じるとすれば、キリスト教の為だろう。あたかもそれが、神の教えのように再構築した。

難しいのは与えることではなく、見返りなく与えること。たとえば困っている人がいて助ける。そのときに助けた人が余計なことすると、言われると、せっかく助けてやったのに、なんだ!となる。与える、助けるとき、人はそこに自分を強者、相手を弱者、そして見返りの心理が生まれる。これもまた人の本能と言えるほど、基本な特性だ。

自分の恵みのように与えるとは、そこに強者、見返りの心理を持たないこと。これは、ほぼ人には無理な行為だ。しかし慈悲による空は、それを求める。

しかし困ったことに、慈悲の試練はそこでは終わらない。与える、助けるとき、自分は強者、見返りの心理が生まれ、与えられる相手は弱者、負債の心理をもつ。

慈悲は、見返りを求めない、とともに、相手に負債を与えないことを求める。そこに強者、弱者の関係が生まれないよう、求める。

たとえば自然の恵みでさえ、人はそこに負債を感じ、自然に感謝し、崇めるというのに、それを生むなという。慈悲いかに困難な実践かわかる。その不可能にこそ、唯一の空への実践としての慈悲がある。


日本人の道徳はこのような難解な慈悲が基本となっている。

たとえばおもてなし。西洋人の道徳則は合理的だ。困っている人がいれば与える。そこに強者、弱者が生まれたとしても、それで困っている人が助かるならそれでいいじゃないか。

おもてなしの理想とは、サービスを与えることだが、相手にサービスを与えられることに感謝する。すなわち強者にならずに、相手がサービスを与えられることを重く思わないようする。すなわち負債を与えない。

このように日本人の道徳則はすべて慈悲を基本とする。自らが強者にならないよう、。相手を弱者にしないよう、配慮することを基本とする。配慮の道徳だ。おそらくこのような配慮の道徳則をもつ民族は日本人以外いないと思う。

たとえば空気を読む。空気を読むとは、自らが強者にならないよう、。相手を弱者にしないよう、配慮しあうことを基本とする。

たとえば勤勉。勤勉とは、懸命に働くことではない。自らが強者にならないよう、世間(相手)を弱者にしないよう、配慮し勤めることを基本とする。

日本人が空に達してと言うことではないが、空の心を基本にしている。それを日本人の頭は知らないが、体が知っている。

実際、江戸末期以降、日本を訪れた西洋人が日本人召使いを雇ったときに驚いたのはこれだった。西洋の召使いは言われたことをする、する前にはお伺いを立てるのを基本とする。しかし日本人の召使いは慈悲を行う。主人に配慮しより自ら良い選択を行う。西洋人は少しプライドを傷つけられるとともにその配慮に驚き、心地よさを感じる。それが日本人の勤勉である。奴隷だからこそ慈悲を施す。




■なぜリベラル圧には逆らえないのか


ピラミッドが作られたぐらいだから、昔から算術はある。しかしそれを数学とすること、すなわち抽象化することは違う。設計など具体的な現場的実用的な知を、抽象化する意味がどこにあるのか。その起源と言われるのがピタゴラス教。ピタゴラス教は、算術を抽象化可能ことに、この世界の普遍的法則を見た。簡単には神の啓示を受けた。快感。そして神の言葉を探し求めた。

その弟子のプラトンはそれをさらに拡張して、数学を超えて、イデアとして拡張した。それはキリスト教神学などにも応用されるが、

しかしこのピタゴラス教が真に花開くのは近代だ。ニュートンが惑星の運行を簡単な数式で表したとき、世界が快感に打たれた。そして神の言葉探しが始まった。

ピタゴラス教は秘技であり、当時において変人集団だった。プラトンにおいてもそれは変わらないだろう。その変態が普遍であり正義とされる現代はなんなんだろう。近代以前、言語学と言えば修辞学であり、論理学はごくごくニッチだった。この現代の異常性はなにか。

なぜ変態ピタゴラス教、プラトン主義が近代に世界の普遍となりえたのか?この理由は簡単で、儲かるからだ。

数学、論理を基本とした科学技術は力となり、金を生む。すなわち農業社会から資本主義という経済的な変態へ移行させた。世界の価値観は、ピタゴラス教へと一気に変わった。

なぜ儲かるのか。行き着くと、なぜ世界は数学で記述できるのかとなる。実際に数学は科学技術として現実的に巨大な力を作り出すわけで、それが普遍、真理だから考えたくなるとは当然だ。

なぜ世界を数学で記述できるのか。数学は独立した知識体系で、発見ではなく、発明だ。新たな手法が開発される。現実との関係を持たないために、ある程度自由に改良される。さらには、世界を数学で記述できることは、論理的に考えても偶然でしかない。必然性を証明できることは不可能だ。

その中で、数学が世界を記述できる理由としては、もともと数学は算術から発生したということがある。算術は建築など現場を記述できるように考えられた。その抽象化から生まれた数学も、その特性を受け継いでいる。たとえばユークリッド幾何学の定義は、建築的であることが知られている。

しかしこれで言い尽くされたか?やはり数学は神が世界を設計した言語であり、それを人間が探すというピタゴラス教はあまりに魅力的、快感であり、現代では疑うことが難しい教えだ。


しかし当然問題もある。数学があまりに強力なために、人間も取り込まれてしまう。数学にすべてを抽象化するので、代替可能にする。1は1である。一人は1個であり、一粒である。それ対抗して近代に人権主義が生まれた。一人を1個に還元しないように。かけがえのない人として扱うように。

たとえばこれはものについても言える。近代以前、工芸品しかなかったが、近代には、大量生産品と、かけがえのない芸術品に分かれた。ピタゴラス教が協力である故にそれを補完する。そしてアウラな芸術品は高額となる。

さらに科学技術に対して、アウラを扱うのが近代哲学だ。もはや哲学は世界の真理を扱うものではない。近代、哲学は科学を補完して、アウラな人権を扱う倫理学となった。

科学の経済合理性に対して、アウラな人権倫理、それで本当に人は救済されているのか?アウラな人権など、すなわちリベラルとは、後ろめたさからくる都合の良い言い訳ではないか。

だから日本人はリベラルに警戒する。リベラルとは、異なる科学技術の扱いを編み出している。日本人は近代に、科学技術、産業、資本主義を素早く取り入れ自分のものにした。しかし方や、民主主義についてはいまだに根付いていないと言われる。ここにピタゴラス教に陥らない日本人の空の智慧がある。

経済、すなわち合理性と社会、すなわち民主人権主義の間に、世間、すなわち空、すなわち勤勉がある。

人権主義、平等、民主主義には、その最初に個人が前提とされている。等しい個人、ここに隠されたピタゴラス教。たとえば現代のリベラルにわかりやすい。平等という暴力。伝統や文化を排除する不寛容さ。

この平等主義に対して、日本人は空を持って対処する。男女平等を笑う。幼児性欲への不寛容を笑う。捕鯨反対を笑う。それが世間である。世間では曖昧さを曖昧さのままに生きる。世間の中では曖昧さの恐怖から発狂しない。


再度言えば、近代において、工芸品は、量産品と芸術品に分かれた。それは救済だろうか。経済合理性の空間から逃れていない。芸術品もまたその一部だ。

人権も同じことが言えないだろうか、多くにおいて、人は量産品として処理されている。このために個人という還元は重要である。それを人類といってもいいだろう。人類は近代に発明された。それ以前は、人間を一括りにする考えはなかった。そして個人の人権が意味するものはなにか。この芸術品は何を意味するのか。

世間はこの個人への還元をくじく。だからといって、経済に反発して、貧しくてもいいと言うことではない。経済も発展させる。どのようにか?勤勉によってである。それぞれが世間へ貢献することによって。

再度、言おう。全体の調和という美しさに現実を閉じ込めるピタゴラス教は狂っている。しかし近代にそこに力が宿り、そして富を生み出した。その時、妥協の産物として、個人、人類、平等、人権が生み出された。そこにあるものまたピタゴラス教の美しさに見せられた狂気である。

平等は美しい故に正しいのであり、まさに狂気である。平等、個人はグロテスクでしかない。誰も一人では生きられない。現場の泥くささには、個人、等しいなど存在しない。

ならば、不平等でいいのか。これこそトリックである。平等と不平等の対立など存在しない。平等こそが不平等を生む。

ならば、もっとベタに言えば、原始社会は平等ではないが、公平だった。日本人はそれを国家レベルで成立させている。空を使って。

経済的に言えば、平等とは等価交換、公平とは贈与交換、世間は慈悲型贈与交換により大規模な公平を達成する。

等価交換は、人を選ばない。どの人種だろうが民族だろうが、金を持っていれば交換する。ただし金だけの関係だ。交換したあとのたれ死のうが知ったことではない。それが自由平等だ。

贈与交換は貸し借りだから信頼関係でしか成立しない。だから原始社会のような小さな集団では公平な関係を作る。困ったものは貸し借りにより助けられる。しかし知らない人は排除する。

日本人の慈悲型贈与交換は、見ず知らずの人々との貸し借りを可能にした。慈悲とは見ず知らずの人に見返りなく与えること。勤勉であるとはそういうことだ。売り手よし!買手良し!世間よし!

平等がいかに経済合理的に都合が良いかわかる。人権という名の下に、抑圧されて隠されているものは。

日本人の慈悲型贈与交換は、見ず知らずの人々との貸し借りを可能にした。慈悲とは見ず知らずの人に見返りなく与えること。勤勉であるとはそういうことだ。

より具体的に言えば、勤勉の発明は、たとえば目の前の困っている人を助ける必要はない。他人に冷たくてもいい。ただ自らの仕事を全うすれば言い。貢献は間接的であることが重要だ。

それによって、国家単位の贈与交換を可能にした。

平等は、貨幣と深い関係を持つ、貨幣は最大の平等主義者だ。相手が誰だろうか、貨幣を持つかどうか、それがすべてである。現代ではこれは当たり前すぎる。

しかし歴史的に、貨幣交換は特殊な交換であった。たとえば貨幣交換をになってきたのは商人であるが、社会的に忌み嫌われてきた。ベニスの商人

歴史的に基本となってきたのは贈与交換である。貸し借り。現代でも、家族や親しい人たちの間では、贈与交換が基本である。親しい人たちに、貨幣等価交換を強いるのは失礼でもある。貨幣等価交換は美しい。瞬間に精算されることの美しさ。しかしそれはグロテスクである。

貨幣等価交換はとても失礼で、不快な行為である。それは関係の精算だからだ。貨幣等価交換のあとにはなにも残らない。赤の他人だ。

贈与交換、貸し借りは、決して精算されない。永遠に続く信頼関係であり、困ったときに助け合う。


現代、個人が孤立することが問題になっている。それは平等の当然の帰結だ。平等は貨幣等価交換に支えられて初めて成立する。貨幣等価交換を国家レベルで成立させるために求められる。自由主義経済の発展は、貨幣等価交換、そして個人を平等に分断させることでしか、成立しない。人が個人という粒子となり、自由にブラウン運動するとき、自由主義経済は最大に活性化される。

その流動性の中で個人は孤立し、自らの位置を見失う。そして多少、何割かの粒が死のうが、全体の運動には大きな影響はない。平等は社会保障で補完される。それは金の補充である。

リベラルとは個人に干渉せず、金を与えて最低の生存を保障することである。ベーシックインカムは個人に最低の金を与えられて、好きに暮らせるから気楽かもしれない。その気楽で、自由と思っていても、自由主義経済のブラウン運動として、踊らされている。最大限に個々の関係性は貨幣により精算されて、分断されて、すべてを貨幣に依存するしかない。

人々は、歴史において、貨幣等価交換の強力な精算性を嫌い、排除してきた。それは共同体を分断するものだ。そして贈与交換を基本としてきた。決して精算されない交換関係。困ったときは助け合う。

共同体内の信頼関係を基本として、流動性は抑えられて、個々人は共同体内で役割を持つ。平等ではないが公平である。公平でなければ信頼関係が成立しないからだ。近代の自由主義経済のように経済成長はしない。進歩もない。同じ時が流れていく。

ただし贈与交換の大きな問題は、規模に限界があること。信頼関係が成立するには、赤の他人ではだめで、集団の規模に限界がある。そして共同体がいくつもできる。そして共同体間で絶え間ない争いが起こる。

それを補完するための装置が世界宗教である。世界宗教は、共同体を超えて、神の下に緩やかだか大きな規模の助け合いの信頼関係を作る装置として生まれた。キリスト教しかり、仏教しかり。

遠隔型贈与交換である。同じ信者だから知らない者同士でも信頼して助け合おう。共同体間の争いを緩和して、共同体からこぼれた人々を救済する。日本人の慈悲型贈与交換もこの一種といえる。


リベラル圧にはなかなか抵抗できない。やがて日本のイルカ漁はなくなり、捕鯨もどんどん縮小していくだろう。

リベラル圧とはなにか?国際標準であることだ。西洋ではこんなに人権が進んでいる。日本は遅れている。

それは単に思想的なものではなく、経済的な圧力を持つ。世界経済の中でしか生きられない以上、世界の常識に従うことになる。そうすることが、経済上、効率的、合理的になるからだ。

捕鯨など儲かりはしない。なら無理に続ける必要はない。イルカ漁にしても経済的な何の意味もない。

そうしてどんどん日本もリベラル化しているが、では世界標準にすべてが向かうのか。

性関係の問題は、難しい問題だ。男尊女卑の問題、そしてロリコン問題。オタク文化は国際標準としては、取り締まりの対象だろう。あからさまに幼児を性の対象とすることはリベラルには認められない。国際倫理団体からの活力もあり、ロリコン防止法は成立したが、まだまだ実質的な稼動は低い。最近、るろうに剣心の作者が所持で逮捕されたが、有名人をつかまえて社会的に圧力をかけるのは、麻薬などで見られる常套だ。全くのざるという訳でも内容だ。これらはオリンピックに向けての町の景観からも圧力が強まると言われる。

最近では、コンビニのエロ本も問題になっている。あれも近いうちになくなるだろう。今どきコンビニでエロ本を見るのはお年寄りか?今後、売り上げもどんどん下がるし、なくなるとは時間の問題だろう。

少年マンガのグラビアも、リベラル的には問題とされている。そこまで厳しくなくてもと思うものが、数年すると、世界の常識が変わる。