宗教と哲学の違い

343 :フェノ
ローティがいうように、「哲学はもはや、「会話」の一形態にすぎない。もし生き残るとすれば、文学の一ジャンルとして、その読書が美的快楽を感じるものである。」というところまで来ていますが。私は、哲学は文学ではなく、むしろ宗教に近いと思うのですね。現代の情報社会では、階級制をもつ封建主義的な宗教は、社会に受け入れられにくい。人々は宗教では神を捏造することが困難である。だから小さな神をうまく捏造してくれる民主主義的な哲学が必要とされると考えるのですが。
351 :考える名無しさん
うーん?ちょっと前に出てたが、宗教と哲学は本質を異にする。原理が書き換え可能のみならず、その原理の根底をなすものをさらに掘り返そうとする営為じゃない、哲学って。それゆえに、多くの人が、同じ思索をして同じ結論に達するであろうつきつめられた論理になる。多くの人が納得する=社会的影響力をもつ。マルクス主義を見ると分かるように・・・目の前の事物を色々して、同じ現象を再現することによって法則を実証する他の学問も、そういう意味では哲学の一分野ではあるが。
354:フェノ
宗教/哲学=原理書き換不可能/可能というように、単純な構図でしょうか。哲学に流動性がでたのは最近であり、最近は宗教も多様で流動的ですね。多くの人とは誰だろう?社会主義国家人民はほんとに理解し、納得していたのか。信仰に近いものでは。特に思想ではなく、指導者への信仰ですね。
357 :考える名無しさん
漏れはそういう単純な構図だと思ってるね。宗教は原理を疑うことを許さないが、哲学はそれをすることがひとつの目的である。多くの人。全共闘の人たちとか見て思わんかいw
366 :フェノ
イデオロギーについては、アルチュセールの「イデオロギー装置」が有名ですね。ジジェクはこれについて、イデオロギーの力は、人々がイデオロギーを信じているのではなく、信じているようにふるまってしまうことであると、いっています。これはイデオロギー対象aであるからということです。これは、宗教への「信仰」と同じ構造ではないでしょうか。人は、信仰=「神の捏造」なく、生きることはできないということでしょう。
379 :フェノ
ジジェクイデオロギー論は、フーコーパノプティコンにもつながると思います。いつも看守に見られているだろう状況とは、内在的な他者が看守化するということですね。人は、鏡像的に内在的他者を誰かとして捏造するわけです。だから自分の中に看守を住まわせるわけです。イデオロギーとは、内在的な他者がイデオロギー的他者化するということです。自分の中にそのイデオロギーを信じているだろう人を住まわせるわけです。だからジジェクのいうように、人々がイデオロギーを信じているか、どうかではなく、信じているようにふるまってしまうことです。個人が宗教的言説に納得し、選択すると考えると、宗教をみえないのはそのためです。自分の中に内在的な他者として、宗教を信じている人、あるいは神を住まわせるわけです。このような内在的な他者は、人にアプリオリですから、その他者を誰かでなければならないわけです。
380 :フェノ
ついでいいえば、東浩紀が、規律訓練型権力から環境管理型権力というときには、現代において、内在的な他者が失われたわけではなくて、内在的な他者を、かつてのように大きな物語として人々に共有されることが出来なくなっているということですね。大きな物語=宗教的神、マルキシズムなどなど。人々は、多様な価値の中で、様々な他者を捏造するということです。だから、内在的な他者を越えたより下層の共有部により管理する必要があるということです。すなわち家畜を管理するみたいに動物的(生理的)な部分で管理することになるだろう。それが環境管理型権力ですね。
383 :フェノ
大澤真幸が言っていましたが、現代は逆パノプティコンであるということです。みんな見られたがっているということです。これはネットにおいても顕著ですが、日記を書いて公開する、あるいは掲示板に買い込むもそうかもしれませんが、見られたい!ということで、他者をPCの向こうに捏造しています。これは現代が、内在的な他者をうまく捏造することが難しくなっている。内在的な他者がうまく捏造できないと、自己の同一性が保てないのですね。だれかに見られていることを強く意識することで、私がなにものか、(コミュニティへの帰属意識)を確認するのではないでしょうか。
386 :フェノ
ゴフマンのしめす儀礼的な世界。なぜわれわれは、日常生活を円滑に行えるのか。人混みでの無関心の儀礼という規範は、われわれが、コミュニティの他者を内的に捏造する。そのようなコミュニティに帰属しているということをみなが了承しているからですね。
385 :フェノ
ちょっと話が、それましたか・・・とにかく、内在的他者(神)を捏造するのは、人にアプリオリということです。だから、信仰という意味で、宗教を批判することに意味がない。信仰していない人はいないのだから。ってことです。

倫理と自然主義的誤謬

387 :考える名無しさん
倫理とか価値というのは、常に変化するものだ、だから、法律は変えることができなければいけない。前にも書いたけど、法律の中身がどうってよりも誰がどうやって法律を決めるのかっていうほうがより重要だ。王様の気まぐれとか、逆に素人の投票だけで法律を決めるのはまずい。今のシステムは、昔よりマシになったとはいえ、まだ単純すぎる嫌いはある。
390 :考える名無しさん
ちょっと急ぎすぎ。「どう変えるか」ってのはおいといて、まずは「どのように変えるか」ってことね。「どう変えるか」という手段の正当性によって、「どのように変えるか」って目的の部分を正当化することはできないんよ。んで、変えなくていい法律ってのはないというのは周知の通りだろうけど、でも価値ってのはそんなに変わるもんなのかい、と。いきなり殺人OKになったり、ならなかったりするほど簡単に変わるのかというとそうでもない。トランプの大貧民のようにいきなり価値体系は変わらんっしょ。んじゃ時代の価値観の変遷はどのような要因で起こったのかなとか考えると、事実の変化によって価値も変化したとか言えるのかもしれんね。
391 :フェノ
倫理の問題でいえば、先に私は否定しましたが、自然主義の問題は裂けられないとは思います。それは漠然としていえば、「生命は繁栄する志向性がある」。終末思想であろうと、繁栄の反面であり、間違った繁栄の仕方を直すという繁栄志向ということです。
395 :フェノ
これはマイノリティ排除であるとか、先の遺伝子の多様性によるひとの尊厳を確保できないとかいう問題はあります。さらに本質的に理性主義な哲学では、このようなアプリオリ自然主義を誤謬として嫌います。論理的にそれ以上議論することができないからですね。宗教にはこのような論理化できない人のアプリオリを、神話的に救う面もあるのではないでしょうか。たとえば日本昔ばなし的言説と人のアプリオリの関係です。
399 :フェノ
漠然的な話として示すと、人はコミュニティにとっての何ものかになりたい。これは欲求より下層のアポリオリな志向性です。だから他者が内在しているわけですが、ここには二つの力があります。私であろうという力=自律性、コミュニティへ帰属する力=従属性。この両義性をシステム論的にケストラーは「ホロン」と呼びました。
401 :フェノ
システム論における階層構造、細胞―臓器―生命―コミュニティにおいて各層間にはこのような両義性が働くのです。ならば人はコミュニティにとってなにものかでありたいという志向性は、ミジンコはコミュニティにとってなにものかでありたい志向性があり、ミジンコは内在的他者を捏造するという風に展開されます。
402 :フェノ
ミジンコが捏造するかということになりますが、他者志向性があるということです。生命において伝達されるのが遺伝子であるとすると、遺伝子には個体性と従属性のプログラムが内在されているということですね。
403 :フェノ
人の伝達には遺伝子の他にミームがあり、ミジンコとは違うわけです。倫理を考える場合も遺伝子のみには頼れないが、倫理の根源はこのような他者志向性に求められないかということです。他者は私であることによるコミュニティとしての尊厳の確保ということです。日本昔話の中身は、他者に対する思いやり、愛ということですね。
406 :フェノ
倫理はさらに複雑ですが、すべてが時代性に相対ではなく、やはり生命としての根源的志向性はあるのではないか、ということです。