倫理と自然主義的誤謬

387 :考える名無しさん
倫理とか価値というのは、常に変化するものだ、だから、法律は変えることができなければいけない。前にも書いたけど、法律の中身がどうってよりも誰がどうやって法律を決めるのかっていうほうがより重要だ。王様の気まぐれとか、逆に素人の投票だけで法律を決めるのはまずい。今のシステムは、昔よりマシになったとはいえ、まだ単純すぎる嫌いはある。
390 :考える名無しさん
ちょっと急ぎすぎ。「どう変えるか」ってのはおいといて、まずは「どのように変えるか」ってことね。「どう変えるか」という手段の正当性によって、「どのように変えるか」って目的の部分を正当化することはできないんよ。んで、変えなくていい法律ってのはないというのは周知の通りだろうけど、でも価値ってのはそんなに変わるもんなのかい、と。いきなり殺人OKになったり、ならなかったりするほど簡単に変わるのかというとそうでもない。トランプの大貧民のようにいきなり価値体系は変わらんっしょ。んじゃ時代の価値観の変遷はどのような要因で起こったのかなとか考えると、事実の変化によって価値も変化したとか言えるのかもしれんね。
391 :フェノ
倫理の問題でいえば、先に私は否定しましたが、自然主義の問題は裂けられないとは思います。それは漠然としていえば、「生命は繁栄する志向性がある」。終末思想であろうと、繁栄の反面であり、間違った繁栄の仕方を直すという繁栄志向ということです。
395 :フェノ
これはマイノリティ排除であるとか、先の遺伝子の多様性によるひとの尊厳を確保できないとかいう問題はあります。さらに本質的に理性主義な哲学では、このようなアプリオリ自然主義を誤謬として嫌います。論理的にそれ以上議論することができないからですね。宗教にはこのような論理化できない人のアプリオリを、神話的に救う面もあるのではないでしょうか。たとえば日本昔ばなし的言説と人のアプリオリの関係です。
399 :フェノ
漠然的な話として示すと、人はコミュニティにとっての何ものかになりたい。これは欲求より下層のアポリオリな志向性です。だから他者が内在しているわけですが、ここには二つの力があります。私であろうという力=自律性、コミュニティへ帰属する力=従属性。この両義性をシステム論的にケストラーは「ホロン」と呼びました。
401 :フェノ
システム論における階層構造、細胞―臓器―生命―コミュニティにおいて各層間にはこのような両義性が働くのです。ならば人はコミュニティにとってなにものかでありたいという志向性は、ミジンコはコミュニティにとってなにものかでありたい志向性があり、ミジンコは内在的他者を捏造するという風に展開されます。
402 :フェノ
ミジンコが捏造するかということになりますが、他者志向性があるということです。生命において伝達されるのが遺伝子であるとすると、遺伝子には個体性と従属性のプログラムが内在されているということですね。
403 :フェノ
人の伝達には遺伝子の他にミームがあり、ミジンコとは違うわけです。倫理を考える場合も遺伝子のみには頼れないが、倫理の根源はこのような他者志向性に求められないかということです。他者は私であることによるコミュニティとしての尊厳の確保ということです。日本昔話の中身は、他者に対する思いやり、愛ということですね。
406 :フェノ
倫理はさらに複雑ですが、すべてが時代性に相対ではなく、やはり生命としての根源的志向性はあるのではないか、ということです。