言語とはなにか その1 道具と言語
1)環境と「単位としての行為」
どのような行為にもうまいへたはある。山道の歩き方、字の書き方、ボタンのとめ方・・・。うまい行為とは環境との良好な関係だろう。良好とは経済性である。環境との関係においていかに労力少なく結果にいたるか。反復した環境との関係が上達を生み出し、それはまた「単位としての行為」となる。
環境は耐えず変化する。そして環境と行為の関係が一回限りでは上達するどころか行為という単位をもちえない。運動が(単位としての)行為となるためには環境に対して反復して上達することである。
2)社会とものまね行為
環境の中でも重要であるのは社会である。社会とは人の環境である。鏡像関係と言われるように他者の行為を真似ることは行為を形成する上でも特別である。行為を手に入れるための時間短縮できるハイウエィである。人は一から環境との関係から「単位としての行為」を生み出すことはほとんどなく、他者を真似ることで行為の基本単位を獲得する。ここに文化としての行為の伝承がある。そして伝承というコミュニケーションの反復また「単位としての行為」を洗練させ、多様化させていく。
3)道具と行為の拡張
さらに「単位としての行為」の多様性を画期的に広げるのが道具である。道具とは行為における身体の一部でありながら、身体と切り反され、脱着可能、使い方も多様なものである。棒は手に持ち叩くものとして身体の拡張であるが、なにを叩くかで、獲物を叩く武器、ポールを叩くバットなどと多様に変形される。そして変形された棒の周囲に行為の多様性を広げる。
これは広い意味での環境を加工するということである。人は単に自然環境に調和するのではなく、環境を道具として改良していく。そのたびに「単位としての行為」は拡張され、細分化されていく。そして新たな環境=道具(の使い方)は新たな行為を生み出している。それは遊びと言われる。
4)言語の使い方(行為)と文化
道具の中でも特に高い自由度を生み出しているのが言葉である。たとえば構造主義言語学において、シニフィアンという聴覚像とは、音を言語として聞くと言うことだ。たとえば「ai」という発話は音波的には人によって様々であっても、人はすべて「愛」という言葉として聞く。音を言葉として聞く行為、あるいは言葉を話すこと、書くことも、道具として言葉を使う「単位としての行為」である。
ソシュールがシニフィアンとシニフィエの恣意性を指摘するときも同様な意味を持つ。シニフィアンとシニフィエの関係は文化的な伝承でしかない、ということだ。ある音は言葉として聞かれて、意味を伝える道具として使われる。この道具の使われ方はある文化圏で伝承されている「単位としての行為」である。
さらに言語という道具の使い方はシニフィアン単位にとどまらない。それがどのような環境で使われるかによって切り離される。「ai」という音を「あい」と言葉として認識されても、「愛」なのか、「哀」なのか。さらには「愛」というシニフィアンでもあっても、どのような意味なのか、その場の環境(コンテクスト)との道具の使い方を学び判断する必要がある。
言語とはなにか その2 言語の自由度
5)同一性と言語
たとえば棒は棒という「同一性」もつ。ある棒もその他の棒も同一の棒である。この同一性はどのように使うかという行為との関係性において保たれている。たとえば切れ端は「叩く」という行為との関係において「棒」となる。 先に言ったように行為は他者との伝承によって「単位としての行為」 であるから、「叩く」という行為との関係によって単位としての棒=同一性をもつのだ。
たとえば「叩く」という行為に対して棒の種類の方が多様である。それは身体よりも道具の方が加工されるなどの変化に柔軟であるからだ。
道具の同一性と「単位としての行為」は多様に絡み合う。「棒」はボールを「打つ」という行為において「バット」と加工される。加工された「バット」によって「打つ」という行為は「バティングフォーム」へと加工される。あるいは「バット」という道具は闘争場面へ挿入されることで、武器という新たな意味を獲得する。
ここですでに言葉の次元にいるだろう。物質的な棒、バット、打つ、バッティングフォームであるが、すでに言葉でもある。叩くという「単位としての行為」、棒という同一性は言語によって指し示され、社会の中で伝承される。指し示しにおいて言語は道具、行為という物質性と同じ次元にある。
6)イメージ、レトリックという言語の自由
ただ言語の自由度は、必ずしも物質性をもつ必要がないということだ。実際の道具を加工することなく、言葉として加工し、変更することができる。また神、宇宙、ファルコンなどのように、想像(イメージ)によって無限に創造することも可能である。
これはさらに大きな意味を持つ。道具の同一性と「単位としての行為」の多様な絡み合いは、とも実在と関係がなく、絡み合いを展開していく。そこではもはや道具と行為の差異は消失して、単に自由な「物語」があるだけである。さらに詩的な表現においては、物語さえも解体され、ただシニフィアンの連鎖のみがある。
言語が他の道具よりも自由度が高いのは、道具への指示からイメージへと飛躍することができるからだ。さらに意味から離れてシニフィアンの連鎖として文章に挿入される。隠喩、換喩などのレトリックの世界である。
7)「言語ゲーム」の物質依存
それでも、言語がなんでもありというには語弊があるだろう。「棒で叩く」という文はあっても「棒で話す」という文がなりたたないのは、現実に物質性をもたないからだ。すなわち叩く武器が棒としての物質性に依存しているように、言語も物質性へ依存する。そうでなければ、言語はコミュニケーションとして成立せず、ただのフレーズの羅列になってしまう。
どこまで言語使用が物質に依存し、どこまでイメージ、レトリックのように物質から自由であるかは言語原理的な問題ではなく、社会の中でコミュニケーションとして成立するための言語の使い方の問題である。すなわち「言語ゲーム」の問題である。
「言語ゲーム」は、言語の原理論ではなくどこまでも日常という社会的実働における言語行為に関係する。言語原理的に「棒で話す」という文が正しくても、実際に実働に根ざさずに日常で使われていないことで「言語ゲーム」からは排除されるだろう。
8)「言語ゲーム」と伝達経路
たとえば源氏物語は意味を伝達しているだろうか。いまも現代語で翻訳されて読みやすくなり、人々を楽しませているが、そのかかれたときの意味が正確に伝わっているか疑問がある。源氏物語という文字を解読するためには、その時代のコンテクストと切り離すことができない。未解読な古代文字などはコミュニケーションとしての機能を果たしていない。文字はそれとともに使い方という行為が伝承されなければつかえない。
「時代の空気」とでもいうような次元を伝えることは困難なのである。これは伝達経路(メディア)の問題にもつながるだろう。話し言葉にしろ書き言葉にしろ、音、空気、紙などの伝達手段としての物質がなければならない。それでも対面という伝承でなければ、言語の使い方(行為)を伝えることは困難である。
9)「手紙は訓練すれば届くものだ」
ここにおいて、デリダの「エクリチュール(差延)」の概念は「言語ゲーム」とすれ違う。「エクリチュール」は言語の存在論的な原理論である。言語の原理においては、パロール(話し言葉)はエクリチュール(文字)の差異は解体される。
しかし日常(言語ゲーム)においてパロール(話し言葉)はエクリチュール(文字)よりもコミュニケーションとして優れている。なぜなら目の前で話すこと、身振り手振りが現前でありありと存在することは、「エクリチュール」では伝えない言語の行為を伝えるからだ。
コミュニケーションは絶えずすれ違い続けるということは間違いないが、実働においては、すれ違いがありながらも、人は他者の行為を真似ることで伝承され、「言語ゲーム」=社会は現に回っている。
伝達経路(メディア)についていえば、音、紙などいかなる伝達手段を使っても言葉の伝達は必ず失敗する。それはエクリチュールの誤配可能性にさかのぼるまでもなく、言語の使い方(行為)を伝えることは困難であるからだ。
ラカンが超越論的に「手紙は宛先に必ず届く」といい、デリダが存在論(原理論)的に「手紙は誤配される可能性がある」といえば、言語ゲームでは現実的に「手紙は訓練すれば届くものだ」ということになるだろう。
言語とはなにか その3 近代化と言語
10)数学という真理
数学の成功は徹底的に意味が排除されていることにある。数学において、「1」の意味は質的なものは排除されて、量にしかない。これによって逆に言語のもつ自由度は排除され、道具へ回帰させた。
数学はシニフィアンそのものを道具として徹底し、行為もまた道具の使い方として規則化する。このような言語の形式化によって実働的な誤配の可能性をなくした。一度、数学という使い方を覚えれば、誰がやっても同じ意味(解)に到達する。数学という言語ゲームは「(数学の)手紙は訓練すればかなり正確に届く」ということになるだろう。それは人々が真理であると錯覚するほどである。
様々に指摘されているように、数学は完全に整合性をもつ規則化された体系ではなく、様々な発明され、接ぎ木されてきた体系であって、接ぎ木ごとに使い方(行為)を訓練する必要があるのだが。
11)近代と論理学
論理学はアリストテレスの時代からあるが、体系化への展開を試みたのはフレーゲ以降である。ここには数学の例にならい、論理によって言語を共通言語としようという大きな試みがある。
そのために論理ではまずシニフィアンとシニフィエの関係が強く拘束される。「棒」という意味はコンスタティブなものに限定される。コンスタティブな意味とは何であるかということは大きな問題である。社会的に共有された意味ということだろう。そのような一元化の仮定によって論理学は形式化される。
言語のコンスタティブな意味に限定し、言語という道具を論理的法則性に従って使用する。これは簡単にいえば、道具(言語)、行為の一つの規格化である。これらは論理学という言語ゲームの作り込みである。
ここで歴史に入ろう。論理がめざすのは、より万人に共有されるための言語体系の基礎付けである。このような論理学の発展は、近代化と関係する。国家という文化の一元化。そして国家間の国際規格の標準化。このような共通言語は国家間のコミュニケーションを活発にする。資本主義経済におけるグローバリズムのための伝達道具である。
12)近代と言語の多様化
数学、数量化、論理学のような一元化とともに、もう一方で近代は言語の自由度も増す。文学、詩などの表現形式の自由度はいままで以上に飛躍する。これらの傾向は裏表として協調している。一方で一元化が進むほどに、そこからはみ出た多様性は一つの表現として集約され、活性化される。
かつての言語の自由度は、いわば無秩序なものであった。論理とレトリック(修辞)はそれほど離れたものではなかった。学術な公式な文においてもレトリックは使用された。それが近代化において論理という行為(方法論)とレトリックという行為(方法論)に分離された。それぞれが活性化された。
13)芸術行為の規格化
たとえばかつては芸術と生活は切り離されたものではなかった。いまは芸術は一つの行為であり、コンテクストである。芸術的であるという行為の領域がある。創造的、破壊的、既成概念からの自由という芸術行為は分類され、規格化されている。
現代の芸術のつまらなさがここにある。もはや芸術の創造性の自由は一つの行為としてカテゴライズされている。「便器」を芸術とよび、芸術というコンテクストを破るという「ショックの経験」そのものもカテゴライズされた芸術行為である。なにをしても「はいはい、芸術、芸術!(笑)」で回収されてしまう。
14)「言語ゲーム」と生成
芸術とはなんであるかは、芸術という行為として教育、訓練されている。それは数学などの一元化という方法(行為)が訓練されることと違いはない。だから規律訓練と自由は対立しない。芸術とはいかなるものか学ぶように自由がいかなるものか学ぶ。自由もまた近代において広がった道具であり、行為であり、規律訓練される。
自由とは「既存の規律を破壊する」という規律訓練である。というのはパラドクスだろうか。しかしパラドクスは論理学のコンテクストである。言語が現実に根ざした道具であり、その行為であるならば、それほどおかしなことではないだろう。価値を構築しつつ価値を破壊するというのは生成の基本である。資本主義社会という実働が生成を基本としているとすれば、その「言語ゲーム」の一部である言語もまた構築しつつ破壊する生成であることは当然といえる。
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*1:画像元 源氏物語ショートストーリー http://www.pref.kyoto.jp/2008genji/1214972764993.html