言語とはなにか  その3 近代化と言語

10)数学という真理


数学の成功は徹底的に意味が排除されていることにある。数学において、「1」の意味は質的なものは排除されて、量にしかない。これによって逆に言語のもつ自由度は排除され、道具へ回帰させた。

数学はシニフィアンそのものを道具として徹底し、行為もまた道具の使い方として規則化する。このような言語の形式化によって実働的な誤配の可能性をなくした。一度、数学という使い方を覚えれば、誰がやっても同じ意味(解)に到達する。数学という言語ゲーム「(数学の)手紙は訓練すればかなり正確に届く」ということになるだろう。それは人々が真理であると錯覚するほどである。

様々に指摘されているように、数学は完全に整合性をもつ規則化された体系ではなく、様々な発明され、接ぎ木されてきた体系であって、接ぎ木ごとに使い方(行為)を訓練する必要があるのだが。




11)近代と論理学


論理学はアリストテレスの時代からあるが、体系化への展開を試みたのはフレーゲ以降である。ここには数学の例にならい、論理によって言語を共通言語としようという大きな試みがある。

そのために論理ではまずシニフィアンシニフィエの関係が強く拘束される。「棒」という意味はコンスタティブなものに限定される。コンスタティブな意味とは何であるかということは大きな問題である。社会的に共有された意味ということだろう。そのような一元化の仮定によって論理学は形式化される。

言語のコンスタティブな意味に限定し、言語という道具を論理的法則性に従って使用する。これは簡単にいえば、道具(言語)、行為の一つの規格化である。これらは論理学という言語ゲームの作り込みである。

ここで歴史に入ろう。論理がめざすのは、より万人に共有されるための言語体系の基礎付けである。このような論理学の発展は、近代化と関係する。国家という文化の一元化。そして国家間の国際規格の標準化。このような共通言語は国家間のコミュニケーションを活発にする。資本主義経済におけるグローバリズムのための伝達道具である。




12)近代と言語の多様化


数学、数量化、論理学のような一元化とともに、もう一方で近代は言語の自由度も増す。文学、詩などの表現形式の自由度はいままで以上に飛躍する。これらの傾向は裏表として協調している。一方で一元化が進むほどに、そこからはみ出た多様性は一つの表現として集約され、活性化される。

かつての言語の自由度は、いわば無秩序なものであった。論理とレトリック(修辞)はそれほど離れたものではなかった。学術な公式な文においてもレトリックは使用された。それが近代化において論理という行為(方法論)とレトリックという行為(方法論)に分離された。それぞれが活性化された。




13)芸術行為の規格化


たとえばかつては芸術と生活は切り離されたものではなかった。いまは芸術は一つの行為であり、コンテクストである。芸術的であるという行為の領域がある。創造的、破壊的、既成概念からの自由という芸術行為は分類され、規格化されている。

現代の芸術のつまらなさがここにある。もはや芸術の創造性の自由は一つの行為としてカテゴライズされている。「便器」を芸術とよび、芸術というコンテクストを破るという「ショックの経験」そのものもカテゴライズされた芸術行為である。なにをしても「はいはい、芸術、芸術!(笑)」で回収されてしまう。




14)言語ゲームと生成


芸術とはなんであるかは、芸術という行為として教育、訓練されている。それは数学などの一元化という方法(行為)が訓練されることと違いはない。だから規律訓練と自由は対立しない。芸術とはいかなるものか学ぶように自由がいかなるものか学ぶ。自由もまた近代において広がった道具であり、行為であり、規律訓練される。

自由とは「既存の規律を破壊する」という規律訓練である。というのはパラドクスだろうか。しかしパラドクスは論理学のコンテクストである。言語が現実に根ざした道具であり、その行為であるならば、それほどおかしなことではないだろう。価値を構築しつつ価値を破壊するというのは生成の基本である。資本主義社会という実働が生成を基本としているとすれば、その言語ゲームの一部である言語もまた構築しつつ破壊する生成であることは当然といえる。
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*1:画像元 源氏物語ショートストーリー http://www.pref.kyoto.jp/2008genji/1214972764993.html