言語とはなにか  その1 道具と言語

pikarrr2008-12-17


1)環境と「単位としての行為」


どのような行為にもうまいへたはある。山道の歩き方、字の書き方、ボタンのとめ方・・・。うまい行為とは環境との良好な関係だろう。良好とは経済性である。環境との関係においていかに労力少なく結果にいたるか。反復した環境との関係が上達を生み出し、それはまた「単位としての行為」となる。

環境は耐えず変化する。そして環境と行為の関係が一回限りでは上達するどころか行為という単位をもちえない。運動が(単位としての)行為となるためには環境に対して反復して上達することである。




2)社会とものまね行為


環境の中でも重要であるのは社会である。社会とは人の環境である。鏡像関係と言われるように他者の行為を真似ることは行為を形成する上でも特別である。行為を手に入れるための時間短縮できるハイウエィである。人は一から環境との関係から「単位としての行為」を生み出すことはほとんどなく、他者を真似ることで行為の基本単位を獲得する。ここに文化としての行為の伝承がある。そして伝承というコミュニケーションの反復また「単位としての行為」を洗練させ、多様化させていく。




3)道具と行為の拡張


さらに「単位としての行為」の多様性を画期的に広げるのが道具である。道具とは行為における身体の一部でありながら、身体と切り反され、脱着可能、使い方も多様なものである。棒は手に持ち叩くものとして身体の拡張であるが、なにを叩くかで、獲物を叩く武器、ポールを叩くバットなどと多様に変形される。そして変形された棒の周囲に行為の多様性を広げる。

これは広い意味での環境を加工するということである。人は単に自然環境に調和するのではなく、環境を道具として改良していく。そのたびに「単位としての行為」は拡張され、細分化されていく。そして新たな環境=道具(の使い方)は新たな行為を生み出している。それは遊びと言われる。




4)言語の使い方(行為)と文化


道具の中でも特に高い自由度を生み出しているのが言葉である。たとえば構造主義言語学において、シニフィアンという聴覚像とは、音を言語として聞くと言うことだ。たとえば「ai」という発話は音波的には人によって様々であっても、人はすべて「愛」という言葉として聞く。音を言葉として聞く行為、あるいは言葉を話すこと、書くことも、道具として言葉を使う「単位としての行為」である。

ソシュールシニフィアンシニフィエの恣意性を指摘するときも同様な意味を持つ。シニフィアンシニフィエの関係は文化的な伝承でしかない、ということだ。ある音は言葉として聞かれて、意味を伝える道具として使われる。この道具の使われ方はある文化圏で伝承されている「単位としての行為」である。

さらに言語という道具の使い方はシニフィアン単位にとどまらない。それがどのような環境で使われるかによって切り離される。「ai」という音を「あい」と言葉として認識されても、「愛」なのか、「哀」なのか。さらには「愛」というシニフィアンでもあっても、どのような意味なのか、その場の環境(コンテクスト)との道具の使い方を学び判断する必要がある。