言語とはなにか  その2 言語の自由度

5)同一性と言語


たとえば棒は棒という「同一性」もつ。ある棒もその他の棒も同一の棒である。この同一性はどのように使うかという行為との関係性において保たれている。たとえば切れ端は「叩く」という行為との関係において「棒」となる。 先に言ったように行為は他者との伝承によって「単位としての行為」 であるから、「叩く」という行為との関係によって単位としての棒=同一性をもつのだ。

たとえば「叩く」という行為に対して棒の種類の方が多様である。それは身体よりも道具の方が加工されるなどの変化に柔軟であるからだ。

道具の同一性と「単位としての行為」は多様に絡み合う。「棒」はボールを「打つ」という行為において「バット」と加工される。加工された「バット」によって「打つ」という行為は「バティングフォーム」へと加工される。あるいは「バット」という道具は闘争場面へ挿入されることで、武器という新たな意味を獲得する。

ここですでに言葉の次元にいるだろう。物質的な棒、バット、打つ、バッティングフォームであるが、すでに言葉でもある。叩くという「単位としての行為」、棒という同一性は言語によって指し示され、社会の中で伝承される。指し示しにおいて言語は道具、行為という物質性と同じ次元にある。




6)イメージ、レトリックという言語の自由


ただ言語の自由度は、必ずしも物質性をもつ必要がないということだ。実際の道具を加工することなく、言葉として加工し、変更することができる。また神、宇宙、ファルコンなどのように、想像(イメージ)によって無限に創造することも可能である。

これはさらに大きな意味を持つ。道具の同一性と「単位としての行為」の多様な絡み合いは、とも実在と関係がなく、絡み合いを展開していく。そこではもはや道具と行為の差異は消失して、単に自由な「物語」があるだけである。さらに詩的な表現においては、物語さえも解体され、ただシニフィアンの連鎖のみがある。

言語が他の道具よりも自由度が高いのは、道具への指示からイメージへと飛躍することができるからだ。さらに意味から離れてシニフィアンの連鎖として文章に挿入される。隠喩、換喩などのレトリックの世界である。




7)言語ゲームの物質依存


それでも、言語がなんでもありというには語弊があるだろう。「棒で叩く」という文はあっても「棒で話す」という文がなりたたないのは、現実に物質性をもたないからだ。すなわち叩く武器が棒としての物質性に依存しているように、言語も物質性へ依存する。そうでなければ、言語はコミュニケーションとして成立せず、ただのフレーズの羅列になってしまう。

どこまで言語使用が物質に依存し、どこまでイメージ、レトリックのように物質から自由であるかは言語原理的な問題ではなく、社会の中でコミュニケーションとして成立するための言語の使い方の問題である。すなわち言語ゲームの問題である。

言語ゲームは、言語の原理論ではなくどこまでも日常という社会的実働における言語行為に関係する。言語原理的に「棒で話す」という文が正しくても、実際に実働に根ざさずに日常で使われていないことで言語ゲームからは排除されるだろう。




8)言語ゲームと伝達経路


たとえば源氏物語は意味を伝達しているだろうか。いまも現代語で翻訳されて読みやすくなり、人々を楽しませているが、そのかかれたときの意味が正確に伝わっているか疑問がある。源氏物語という文字を解読するためには、その時代のコンテクストと切り離すことができない。未解読な古代文字などはコミュニケーションとしての機能を果たしていない。文字はそれとともに使い方という行為が伝承されなければつかえない。

「時代の空気」とでもいうような次元を伝えることは困難なのである。これは伝達経路(メディア)の問題にもつながるだろう。話し言葉にしろ書き言葉にしろ、音、空気、紙などの伝達手段としての物質がなければならない。それでも対面という伝承でなければ、言語の使い方(行為)を伝えることは困難である。




9)「手紙は訓練すれば届くものだ」


ここにおいて、デリダエクリチュール差延)」の概念は言語ゲームとすれ違う。エクリチュールは言語の存在論的な原理論である。言語の原理においては、パロール話し言葉)はエクリチュール(文字)の差異は解体される。

しかし日常(言語ゲーム)においてパロール話し言葉)はエクリチュール(文字)よりもコミュニケーションとして優れている。なぜなら目の前で話すこと、身振り手振りが現前でありありと存在することは、エクリチュールでは伝えない言語の行為を伝えるからだ。

コミュニケーションは絶えずすれ違い続けるということは間違いないが、実働においては、すれ違いがありながらも、人は他者の行為を真似ることで伝承され、言語ゲーム=社会は現に回っている。

伝達経路(メディア)についていえば、音、紙などいかなる伝達手段を使っても言葉の伝達は必ず失敗する。それはエクリチュールの誤配可能性にさかのぼるまでもなく、言語の使い方(行為)を伝えることは困難であるからだ。

ラカンが超越論的に「手紙は宛先に必ず届く」といい、デリダ存在論(原理論)的に「手紙は誤配される可能性がある」といえば、言語ゲームでは現実的に「手紙は訓練すれば届くものだ」ということになるだろう。