コミュニケーションとしての「署名」の同じもの性について

エクリチュール的「署名」の同じもの性について

コミュニケーションとは

主体「表現、意味(意識された意味(デノテーション)、非意識意味(コノテーション))」→表現→客体「表現、意味(意識された意味(デノテーション)、非意識意味(コノテーション))」

と考えられます。

エクリチュールでは、主体「表現、意味」のうちの表現の反復可能性により、コミュニケーションは反復される可能性があります。すなわち客体は空間を越えて、時間を超えて、複数化(「客体たち」)する可能性がある。そして「客体」に多義的意味が生じる可能性があるとの同じく、「客体」の数だけ多義的意味が生じる可能性があります。
このために反復可能性は、意識された意味(デノテーション)を、解釈系(コンテクスト、ラング)によって、「客体たち」の意味=「社会的」な意味へを導きます。すなわち反復可能性は、「客体」に解釈系(コンテクスト、ラング)による「社会的な」一義的意味へ収束させることを要求する力があります。
そして解釈系(コンテクスト、ラング)は非意識意味(コノテーション)を抑圧しました。しかし反復可能性は、非意識的意味も「一義的な意味」へ収束させることを要求する力があります。これは反復可能性が「大衆的な共有非意識構造」へも作用することを示しています。たとえばそれがレヴィ=ストロースの示した構造主義的婚姻システムなどではないでしょうか。またマスメディアとは、このような「大衆の共有非意識構造」を研究することです。

デリダは、なぜ「署名」が客体たちに「同じもの」として認められるのか?考えました。すなわち「署名」は、主体により何度繰り返されて書かれますが、そのたびに筆跡の違いがでます(=多義性)。ではなぜ筆跡の違いが客体たちに「同じもの」として認められるのか?
デリダは以下のように解釈します。「署名」はエクリチュールですから、反復可能性があります。反復可能性はコンテクストからの断絶力です。すなわち反復可能性とは、コンテクストを越えて、断絶する力が存在する。これはコンテクストにより複数の「同一性」が生み出し、逆にそこに単一の「同じもの」があることを保証する。

これは上述のコミュニケーションとして考えると。署名では、主体「表現、意味」のうちの表現の反復可能性により、コミュニケーションは反復される可能性があります。すなわち客体は空間を越えて、時間を超えて、複数化(「客体たち」)する可能性を示します。そして「客体たち」には、「客体」にそれぞれ意味が生る可能性があります。そして「客体」の数だけ意味が生じる可能性があります。
ここで意味において、反復可能性があると言うことは、それは意識された意味を、解釈系(コンテクスト、ラング)によって、「客体たち」の意味=「社会的」な意味へを導きます。すなわち反復可能性は、「客体」に解釈系(コンテクスト、ラング)による「社会的な」一義的意味へ収束させることを要求する力があります。
「社会的な」意味=「ここで書かれたものは署名として解釈される。そしてこれは反復することが可能である。他の客体にも見せることもできれば、さらには筆跡鑑定に見せることもできる。」へ導きます。これが署名の「社会的な同じもの性」を保証します。ここでは、解釈系が強い社会的意味と結びつき、非意識意味、「変な署名だな。」=コノテーションを抑圧します。ここではデリダの「幽霊」=「反復可能性、コンテクストを越えて断絶する力」を、多くの「客体たち」によりコミュニケートされる可能性が、客体の意味を「客体たち意味」=「社会的な意味」へ導く強制力ととらえています。

パロール的「署名」の非同じもの性について
これに対して、パロールでは、主体と客体のコミュニケーションは唯一無為であり、反復可能性がありません。すなわち客体は唯一無二の体験として、意味が生じます。このために、意味は解釈系(コンテクスト、ラング)によって一義性は現れますが、それは必ずしも社会的意味を導きます。そしてそれは非意識意味=コノテーションを抑圧する方向にも働きません。

たとえば、「署名」がパロールで行うとどのようになるでしょうか。そこでは、主体と客体のコミュニケーションは唯一無為であり、反復可能性がありません。そのために、それは必ずしも「同じもの」があることを保証することができない。「ここで言われたものは反復することが不可能である。他の客体にも聞かせることもさらには音声鑑定に聞かせることもできない。」このためにパロールによる署名は「社会的な同じもの性」を保証しません。