2ちゃんねるとその周辺という脱構築

パロリチュール(書き言葉による会話)というコンスタティブとパフォーマティブ

わたしは2ちゃんねるの「どうよ?」は二つの「未理解」を生むといった。

そして「どうよ?」というコミュニケ−ションは、二つの「未理解」を生む。記号的「未理解」と心象的「未理解」ある。「未理解」とは、単純な知らないこと(知識)ではない。より解体欲を刺激するという意味で、「未理解」とは未開の地であり、秩序性が高いものである。すなわちそれは「問題」ではなく、「謎」である。記号「未理解」とは、デノテーション(外示)的「謎」である。上述の例では「生きる」ことに対する「謎」である。もう一つの心象「未理解」とは、コノテーション(共示)的「謎」である。それは発言者に対するものである。彼がなぜそのような疑問をもったのか?彼とは誰なのか?

2ちゃんねるは、このような「謎」を消費する装置である。消費とは、提示された「謎」にレスすることにより、解体しようとすることであり、また解体できない「謎」は噂、物語(誹謗中傷など)というシミュラークルを作りだす。これが「記号消費」である。対象は、政治、事件、学問、有名人などなど、各カテゴリーで世界のほぼすべての事象が網羅されている。

そして、2ちゃんねるで、より多く消費されているのは、記号「謎」よりも、2ちゃねらーそのものへの「謎」である。これは「人格消費」である。上述で「コミュニケーションが共有欲求に根ざしている。」といったが、これが発信者だけでなく、返答側にも起こっていることから考えれば、当然の事である。記号を理解するためには、それを発言した人を知らなければ、それは「迷い込んだ手紙」であり、それは言語の多義性から一義性への選択のための情報(主体心象)が決定的に欠落し、主体を失ったコミュニケーションにおいては、客体の心象は混乱する(不安になる)のである。id:pikarrr:20040221

記号「未理解」(デノテーション(外示)的「謎」)と心象「未理解」(コノテーション(共示)的「謎」)である。2ちゃんねるはこの二つを理解しようとして解体し消費する。記号消費と人格消費である。これはオースティンの言語行為論におけるコンスタティブな意味とパフォーマティブな意味に相当するのではないだろうか。デリダはこれを言語の引用可能性による二重所属性、分離できない二面性と考える。すなわち2ちゃんねるだけでなく、言語は同時に二つの読解レベルに所属しうるということである。

しかしここで重要なのが2ちゃんねるを象徴される記号として、なぜ「どうよ?」が選定されたのかである。ここに2ちゃんねるパロールエクリチュールの混合形態=パロリチュール(書き言葉による会話)の一面が現れている。たとえば「生きるってどうよ?」ということばは、コンスタティブには「生きるとはどういうことだろう?何だろう?」であり、パフォーマティブ=心象「未理解」では、たとえば「生きるのたいへんだよな、おれ大変なのよ」である。そしてこれはコンスタンティブな「未理解」として議論され、パフォーマティフな意味として、推測されるのである。

ここではパロールエクリチュールの違いとして、主体と客体の相互理解の度合いを考えている。パロール的に相互理解が高い、容易な場合は、記号消費より「人格消費」が勧められる。たとえば友達どうして、「生きるってどうよ?」という発言は、「なにかあったのか?」と心象「未理解」(コノテーション(共示)的「謎」)を生む。エクリチュール的に主体が失われた場合は、人格消費は消失し、記号消費へ誘導される。たとえば、書籍に「生きるとはどうよ?」と書かれていれば、著書の心象が見えない以上、それは記号「未理解」(デノテーション(外示)的「謎」)として理解されるだろう。

そしてパロリチュールではこれらは混在して現れる。このために2ちゃんねるでは記号「未理解」(デノテーション(外示)的「謎」)と心象「未理解」(コノテーション(共示)的「謎」)と生む「どうよ?」が象徴とされているのではないだろうか。すなわち「どうよ?」にはコンタティブとパフォーマティブ、また記号「未理解」(デノテーション(外示)的「謎」)と心象「未理解」(コノテーション(共示)的「謎」)というパロリチュール的な微妙なバランスが隠されているのである

「どうよ?」という脱構築

デリダパロールエクリチュールの対立から、パロールエクリチュールともに見出だしうる反復可能性という言語の断絶力の存在を提示し、言語全般のイデア的同一性を否定する。すなわち言語(記号)は反復可能性を持つ以上コンテクストに依存した無数の意味を持つことを示す。これはパロールという現前性による存在でさ不確かであり、この相互理解という幻想こそが、デリタの批判するロゴス中心主義である。

これに対しては、今のところ、構想としてデリダ的解答と非デリタ的解答を考えたい。

デリダ的解答は、デリダソシュール批判に対する反論に繋がる。ソシュールの言語の差異体系自体がロゴス主義であるということに対して、私は差異は言語の「発明」後に獲得されたものでなく、生命の認識行為の中に現れているのではないか?と考える。ならば生きることに根差した認識行為が限りなく相対主義であれば、生命は生き残れるだろうか。そこにはパロール的な現前性による存在認識の優位があるはずではないか、と言うことである。

もうひとつのデリダ的反論とは、2ちゃんねるがコンスタティブとパフォーマティブ、また記号「未理解」(デノテーション(外示)的「謎」)と心象「未理解」(コノテーション(共示)的「謎」)生むというパロリチュール的な微妙なバランス、そして両方を解体するシステムであるということである。そしてこれはデリダのいう脱構築ではないか?ということである。

デリダ相対主義を回避するために脱構築を提案する。すなわち言語意味を疑い、再度意味を構築するということである。2ちゃんねるの「どうよ?」は解体を促す言葉であり、「記号消費」として、政治、事件、学問、有名人などなど、各カテゴリーで世界のほぼすべての事象を解体し、「人格消費」として発言者(2ちゃねらー)自体を解体しようとする。そして解体されたあとの再構築はたとえばこの「はてな」のような「2ちゃんねる周辺」という構造体群として生まれるのではないだろうか。