ネタ的コミュニケーションはポストモダンを越えていく その3

ネタ的コミュニケーションはポストモダンを越えていく その3


ネタ的に解体されるポストモダン

上述のようにメールも含めて、パロリチュール(文字会話)のネタ的コミュニケーションは、円滑なコミュニケーションを可能にする面がある。しかしネタ的であることには、特に2ちゃんねるのように匿名の他者に開かれた場において、さらに本質的な意味があるように思う。

マジ的とはなにか?現代におけるマジ的とは、ポストモダン的世界における自己と記号の世界の中に記号組織化され、自己と(他者)記号の間で自己中心化され虚像化した価値である。このような状況の中で、突然ネットワークコミュニケーションにより扉が開かれた。そこに現前化する他者が現れたのである。

現前化する多数のマジ=自己的虚像価値とのコミュニケーションの中で、もはやポストモダン的な自己中心化された価値は、保たれないのではないか。他者との間で相対化され、ネットコミュニケーションする以前の自己はもはや滑稽でしかないのではないか。

「ネタ的コミュニケーション」

  • ネタ的コミュニケーションとは、コミュニケーションそのもののテンプレートへの言及を重ねて行われる、すべてがネタであるかのように振る舞うコミュニケーションの形式。
  • 例えばある書き込みにレスをつける際に、2ちゃんねるではまじめに返答することが必ずしも求められない。むしろ本来返答すべき解答とは微妙にズレた回答をすることでおもしろさを演出していこうとする。さらに興味深いのは、そのようなズレた回答へのさらなる(ズレた)言及が、全体としてコミュニケーションを切断させることなく続けていくという点だ。
  • すべてがネタである「かのように」振る舞うネタコミュニケーションは、どんなに本気にコミュニケーションをしようとしても周囲から「ネタ」として言及される対象なる可能性をはらんでいる。・・・ネタと了解されるものを本気でレスを返すと、「マジレス」を揶揄される(そしてマジレス自体がネタとして消費される)ことになる。
  • ネタとは元々お笑い用語で、芸人が客の前で見せる笑いの芸のことだ。・・・ネタか本気かと言う問題は、実は見るものと見られるものの相互関係の中で曖昧なままにされており、その曖昧さこそが笑いの源泉であるという、微妙な緊張関係にの中で起こるものなのだ。

(「暴走するインターネット 鈴木謙介」 id:pikarrr:20040329#p1)

このような他者のマジレスや、現実世界の価値を揶揄し、ネタ的な次元へ宙づりにする姿勢は、不真面目である。しかしその根底に現代のポストモダン的社会的な価値への懐疑の意味が含まれているのではないか。自己がそうであった価値がもはや滑稽でしかないということを、マジでなく、ネタ的に暴露しているのではないのか。ネタ的コミュニケーションでは、ポストモダン的な虚像価値は暴露され、脱構築されるのではないか。

2ちゃんねるなどのネットコミュニケーションに、不真面目、公共性、モラル、プライバシーなどの問題があることは否めない。そしてこれらのネタ的コミュニケーションの延長線上にこのような問題が位置することも確かである。しかしこれらの問題でネタ的コミュニケーションそのものを批判するのは、問題の本質が見えていないのではないだろうか。仮にネタ的コミュニケーションに現代社会の価値観を脱構築し、相対化する意味が込められているとしても、それは現代の社会的には受け入れがたいだろう。