ネタ的コミュニケーションはポストモダンを越えていく その2

ネタ的コミュニケーションはポストモダンを越えていく その2



マジ的コミュニケーションの消極的な姿勢

ネットコミュニケーションの他者とは、実社会でたまたま隣り合わせた受動的な他者でなく、コミュニケーションをするという能動的な目的をもって現前化してくる。そこには言いたいことがあるから、沈黙をやぶり現前化してきたのである。

たとえば「おまえは馬鹿だ。」というパロール(音声会話)では、単純にデノテーション的意味=中傷のみを伝えない。そこにはコノテーション的意味である親しみ、笑いなど、発信者の心象をつたえる。しかしエクリチュール(文字)は、本質的に発信者が不在であり、コノテーション的意味が隠され、デコノテーション的意味のみを伝える傾向がある。特にネットコミュニケーションでは発信者について情報がまったくなく、相手の心象を予想する情報が決定的にかけている。すなわちパロリチュール(文字会話)によるコミュニケーションではデノテーション的意味の交換になる傾向がある。それは論理的であり、理性的であり、すなわち「マジ的」である。

実社会における現前化する他者とのコミュニケーションでは、自己はコミュニケーションする他者との関係性により、社会的な位置に置かれる。上司という他者に対しての部下であり、子供という他者に対して親である。このような社会的な顔においては、必ずしも内になる声(本音)で語られない。そのようにして現前化する他者と円滑なコミュニケーションは図られる。

しかしネットコミュニケーションでは、他者の情報が決定的に隠されているために、このような社会的な関係性を機能させることはできない。個人掲示板やプログでよく見られるが、マジ的コミュニケーションではエクリチュールに規定された論理的、理性的、すなわちマジ的であるが故に、一度意見の相違があると、自己価値をかけた激しい衝突が起こる。このためにマジ的コミュニケーションは、他者に対して神経質な関係、さらには傍観する姿勢に向かう。



ネタ的「〜といってみた」の次元

ネタ的コミュニケーションは自己、または他者の発言をネタとマジの間で宙づりにする。自己の発言のみでなく、他者の発言さえもネタ的であるか、マジ的であるのかを曖昧にするのである。コミュニケーションを「〜といってみる。」の次元に導く。「おれはそのようにマジ的にいってみた。」「おまえはそのようにマジ的にいってみたんだろ。」

「〜といってみる。」の次元とは、自己と他者との距離を測るものである。ネットワークではpingのようなものかもしれない。「とりあえずいってみたが、あなたはどう思いますか?」それは「あなたは誰?」という空間であり、自己と他者の心象を同期させる可能性をさぐる間である。そして他者からの反応を確認しながら、他者との関係性の構築を探ることを可能にする。このように他者へのコンタクトは容易になる。

このようなパロリチュール(文字会話)のネタ的特性は、実社会で他者回避してきたポストモダンの住人に疑似的でも、現前の他者と向かい合うことを容易にしているのではないだろうか。これは2ちゃんねるだけでなく、現代におけるメールの爆発的普及につながっている。パロリチュールのネタ的な「〜といってみた」次元が開かれることにより、現前の他者とコミュニケーションは容易になり、そこに大衆が殺到しているのである。電話とメールの違いは何か。電話が社会的な関係性、コミュニケーションする必然性を求めるのに対して、メールはネタ的に「〜といってみた」の次元で他者へのアクセスことにより、これらの緊張関係を緩和する。メールはたわいもない内容でも発信されるのである。

パロリチュール(文字会話)のエクリチュール(文字)面は、本質的に発信者が不在であり、コノテーション的意味が隠され、デコノテーション的意味のみを伝える傾向があるといった。しかしエクリチュール(文字)は引用可能性により、コンスタティブとパフォーマティブともに開かれているのである。マジ的とはコンスタティブな意味を強調する関係性である。それに対して、パロリチュール(文字会話)のパロール(会話)の面では、他者が現前している。ネタ的とはこのようなパロール(会話)的次元において、パフォーマティブな意味、さらにはコノテーション的意味、すなわち発言者の心象を開こうとするものである。すなわちパロリチュールは、コンスタティブにもパフォーマティブにも関係性を構築し得る可能性を秘めているといえる。