溢るる余剰 その1 生命力という力

「正さ」の二重拘束


2ちゃんねるについて考えるきっかけがあるとすると、それはさまざまな2ちゃんねる論に対する違和感である。それは哲学の理性主義的傾向への違和感にもつながっているように思う。突き詰めれば、それらに感じる人に関する「不信感」というようなものだろうか。人は理性的でなければ、動物にもどり、無秩序に陥るだろう、2ちゃんねるは無放知だからモラルがないというようなことである。

さらにこれはネットワーク社会における共同体幻想にもつながっているように思う。スマートモブズなどに見られる明るい未来像にも、近代的理性主義的主体への願望が見え隠れする。それが「正しい」未来像なのであり、逆にネットワーク社会は無秩序に陥るという「間違う」可能性があることの裏返しである。そしてこのような理性主義的価値観において2ちゃんねるは、決して正しい姿ではないのである。

私はそこに、ニーチェがいうところのニヒリズムというようなものを感じ、人が生きているという「生」をもっと認めてもいいのではないだろうかと思うのである。知識人が2ちゃんねるをうまく表現できない理由の一つは、それが社会的、学問的価値観に照らして、「正しい」姿でないという評価をくだすしかないが、彼らの多くが潜在的ちゃねらーとして2ちゃんねるに参加する時に「正さ」を感じてしまうという、ある種の二重拘束にあるからではないだろうか。



強くあれというニヒリズム

さらには、それはポストモダニストたちにより言われているような近代的理性主義からの脱中心化がおこっているということになるのだろう。マ−ク・ボスターはネットワーク社会では、主体が空間を超越し存在し、さまざまなキャラクターを演じる(たとえば男になり女になることを可能)ことにより、いままでの近代的で自立した理性的な主体像は脱中心化され散乱するだろう。すなわちこれは主体の脱構築と言える状態であると指摘した。

しかしそれだけでは不十分ではないだろうか。ここにある主体の姿はテクノロジー、または社会の変化に対してあまりに受動的な主体像ではないだろうか。主体がより能動的にテクノロジー、または社会の変化に順応ししていく力、たとえばそれは「生命力」と呼ぶようなものであり、主体は錯乱することなく、自己同一性を保とうとするのではないだろうか、ということである。

それは哲学思想という論理的な世界構築にもいえる。論理的な世界構築とは、その根底に動物/人間=野蛮/理性という二項対立による理性主義が脈付いているのである。それはニーチェにおいてでさえ、ニヒリズムの克服に「力 」を必要としたし、またデリダにおいても、「脱構築」という問い続ける力を必要とした。これらには「強い意志」、すなわち思考的で論理的な力が望まれるのである。強くなるよう努力しろ!というわけである。

私は、そこにある強制力に対しても違和感を覚えるのである。結局、これは理解できない、管理できない世界への恐怖ではないのか。理解できないから、管理できないから、人の自然な姿、日々の生活にもある「生命力」を信じることができないのではないか、ということである。



「生命力」の単純さと複雑さ

では、「生命力」とはなんだろう。簡単にいえば、動物についてのTV番組で示されている「生命の驚異」である。われわれはそこに繰り広げられる生命界の魔術的たくましさ、不可思議な力に感嘆する。なーんだと思われるかもしれないが、そのような力はわれわれにも備わっている。それはニーチェの「力の意志」というような闘争的な力というわけではなく、より多くにおいて共生的なものである。主体は個体性であるとともに、集団性の一部である。そのようなシステムの中で、コミュニケーションの中で力はわき出る。

それでも現段階では「生命力」とは摩訶不思議なものである。そして「生命力」にすべてを回収することは、それは単純化であり、ニヒリズムであり、さらに否定神学的である。だからそれを学術的に求めるのは生物学であり、分子生物学であり、認知科学であり、進化心理学であり、複雑系であり、システム論ということになる。地球上のあらゆる場に順応し繁殖しつづける力、そして生命群の調和性、、限られた分子が組み合わさっただけのDNAがなぜにこれほど複雑な生命という秩序が構築されるのか。しかしそれらの研究においても現在のところ「生命力」は複雑であるという段階にとどまっているのは確かである。

だから私が「生命力」というときは、それらは多くにおいて観察による主観に頼ることになるわけである。そして私は社会にそのような力を感じるということである。ただこのような考察において重要なことは、何が正しくて、何が間違いであるということではない。そしてそのようにするべきとか、さらには強くなれ!というものではない。社会は変化している。そしてそれに順応しようとする生命群がいる。それを感じるので分析し記述するということである。そしてその記述の方法論として、哲学であり、社会学であり、心理学であり、科学的な知識を使うということである。

ただ人は生命の中でもっとも高度なものである。そこから動物でない人という特別性が哲学思想に繋がったわけであるが、勘違いしてはいけないのは、より複雑なのは、知能も含めた人の生理システムであって、人の創造物ではない。人が後天的に構築した論理的な創造物(哲学、科学など)は生命、この世界の複雑さにに比べてまだまだ稚拙なのである。そして多くの社会分析の中でこのような「生命力」の影響は欠落しているようにおもうのである。