溢れる余剰 その2 社会的コミュニティから記号コミュニティへ

記号コミュニティ


情報化社会では、複写技術による大量の複写物により、大衆は自己処理可能な以上の過剰な情報、価値にさらされる。そしてこのような社会の中で主体自己同一性は混乱する。このために主体内部には、世界を簡略化し認識しようとする力が働く。それは情報量の低減、複雑性の単純化である。それは、主体がそれを求め、マスメディアがそれに答えるかたちで進む。マスメディアはより大衆に受け入れられるように、単純化しなおかつイメージとしても意味を伝えようとするのである。

そしてこのようなイメージ化された多様な価値の中から選択することにより自己価値は形成されていく。そして情報は社会的コミュニティの他者、現前の他者からでなく、マスメディアから提示される。自己価値はそれを知らない他者とそれを知っている自己の差異化により獲得されるのだが、それはコミュニティの差異化の形をとる。

たとえば「わたしはシャネルというブランドを好きな人」というようにして他者と差異化されるのでなく、「わたしはシャネラーである」と差異化されるのである。シャネラーとは単に「シャネルが好きな人」ということではなく、シャネルが好きな人たちのコミュニティの一員であるということである。ではシャネラーなるコミュニティはどこに存在するのか。それは社会的な明確なコミュニティを形成しているわけではないが、シャネルが好きな個人がそういうコミュニティがあり、それに帰属しているという意識によってささえられている記号コミュニティである。

このような記号によるコミュニティの形成は、情報化と複写技術の発達により、瞬時に大量の複写物が社会へばらまかれて、共時的に大衆が同じ体験をすることが可能になったことによる。同じTV番組を1000万人単位で鑑賞し、同じ雑誌を100万人単位が読むということである。このような大衆共時体験が、記号コミュニティの形成を可能にしているのである。



記号コミュニティの記号意味(シニフィエ

では彼等はどのように記号コミュニティに気付くのか。それは現代では多くにおいてマスメディアからの情報である。マスメディアが「シャネラー」と名付けることにより、「わたしはシャネラーである」、「シャネラーというコミュニティがある」ことに気づかされる、すなわち「シャネラー」というコミュニティが差異化されるのである。そして「シャネラー」とは、単に「シャネルを買う人々」を意味するのではない。マスメディアが「シャネラー」と名付ける時には、同時に記号意味(シニフィエ)が提示される。たとえばそれは「一般大衆よりも少しリッチな人々」というようなイメージである。

シャネルを買うということは、「一般大衆よりも少しリッチな人々」のコミュニティへの参加を意味する。現代の情報社会における消費は、このような虚像的な記号コミュニティへ参加するためのパスを手に入れることを意味する。たとえば「家電の三種神器」などの記号は、中流家庭というコミュニティに参加するパスを手に入れることを意味するのである。また現代の「恋愛」という記号は、80年代からのTVドラマから提供されたシニフィエの影響を多く受けており、ドラマのような恋愛を、あるいはデートスポットを楽しむという「恋愛」コミュニティへ参加することであり、彼氏、または彼女というパスが必要とされるのである。このために「恋人」さえ記号化されている。

また「女子高生」は同様な服装をして、ギャル語なるものを使うことが「女子高生」コミュニティへ参加することのパスである。多くの場合に、それはマスメディアが提示した「女子高生」という記号を元にしている。そして記号を共有しあう、しあっていると思うことにより、そのようなコミュニティが存在していると感じるのであり、そのコミュニティーへ帰属していることを感じるのである。たとえば雑誌にいまどきの女子高生はこうである!と示されると、その情報を多くのものが共有することにより、女子高生というコミュニティに所属していると感じるのである。

そして記号コミュニティへ参加しつづけるためには、情報を入手しつづけることが必要とされる。そしてある記号コミュニティへの帰属が自己価値形成と密接に結びついている場合には、入手しつづけなければ、コミュニティから排除され、自己価値が維持されないという強迫観念に繋がる場合がある。たとえばこれは「ブランド品にはまる女性たち」などの記号への依存症である。



記号意味(シニフィエ)の記号組織化

このような記号コミュニティのシニフィエは、絶えず変化し続ける。たとえば「シャネル」が「一般大衆よりも少しリッチな人々」というイメージであったとしても、それがより広く大衆に広まることによって、そのブランドイメージは陳腐化したり、また「成金趣味」というイメージへ変容していくかもしれない。また「いま新しいのは、プラダである!」とマスメディアが新たに宣伝したり、ある人気女優が「ガルシア・マルケスがお気に入り」というと、「少しリッチな人々」というイメージはそちらに移っていくかもしれない。

このような記号シニフィエの変容は、マスメディアによる名付けがもとになっているとしても、マスメディアにより操作されているという単純な構造ではない。マスメディアによるほとんどの名付けは大量の情報の中に埋もれていく。そして記号が受け入れられるためには、そこに価値を見いだす大衆側の反応が必要になる。たとえばマスメディアが「シャネラー」を「一般大衆よりも少しリッチな人々」というシニフィエとして提示するときには、それはそのはじめに大衆の中にシャネル好きの人々というような潜在力が必要となる。

マスメディアもこのような大衆の動向に基づいて、新たな情報を発信する。すなわち記号はマスメディアと大衆のコミュニケーションを意味し、そのシニフィエはそのようなコミュニケーションの中で自律的に変化し続けているのである。私はこれを「記号意味(シニフィエ)の自己組織化構造」と呼んでいる。



記号コミュニティ内部への差異化運動

このような記号コミュニティは単数的に現れるものではない。たとえば「シャネルラー」は、女性雑誌など提供する記号意味、「少しリッチな人々」や「少しおしゃれな人々」というコミュニティの内部であったりする。そして階層的な記号コミュニティへの帰属によって、自己は価値を見いだすのである。

そしてシャネラーはさらにそれ自身のコミュニティ内部への差異化運動を持つ。人は単にシャネルをもつ人々/持たない人々程度の差異化では、自己価値を見いだすことができない。それはシャネラー内で、シャネルを数多くもつ人、最新のシャネルを持つ人などの内部を開拓する方向へ差異化され、自己価値はより細部にもとめられ、コミュニティ内部は複雑化するのである。



社会的コミュニティから記号コミュニティへ

このような差異化の運動によりさらにコミュニティ内部の細部へ向かい自己価値を見出だそうとすることはオタク思考である。情報化社会ではこのような記号コミュニティへの帰属によって自己価値は見いだされている。そしてそれは社会的なコミュニティ(家庭、地域、国家など)への帰属意識を希薄にし、また社会的コミュニティの中の現前の他者への興味を希薄にしているのである。そしてゴフマンのいう「儀礼的無関心」のように現前の他者に無関心であることが礼儀とされる社会につながる。街や、電車内などで、現前する他者は重要な相手ではなく、「儀礼的無関心」により必要以上にコミュニケーションしあわないことが望まれるのである。

欲望は社会的コミュニティ上では現れずに、記号コミュニティの細部にむけられる。しかし記号コミュニティへの欲望は、社会的な現前の他者には隠され、自己内部への運動として働くために、社会的コミュニティとしてみれば、人々が欲望をなくし「動物化」しているように写る。マクドナルドなどで人々が「動物化」するのは、店員を現前の他者として認識しコミュニケーションするのではなく、人々にとってマクドナルドでハンバーガーを買うという行為は重要なことではなく、それは形式的になされることを望むのである。

社会的なコミュニティへの帰属意識の低下は、情報化社会で価値の選択肢が増えていることからくるという考えられる。さらには家族、地域、市民、国家などの社会的コミュニティーは近代に形成されたものであり、すでにその価値基準は静的に固定されているために、世代が移り変わっていく中で、人々は固定された価値よりも、記号コミュニティという現在生まれくるような動的な価値を指向しているとうことである。

このような動的な価値を指向する傾向は、情報化社会に限らない。人は単に与えられた価値にしたがうよりも、価値形成というダイナミズムに参加することによる「生の充実」を得ようとするのである。さらにいえば、これは「生命」が根源的に持つ現状維持に満足しない変化を指向する傾向といえる。人に寿命がある理由は世代交代が社会の新陳代謝を促し、たえず社会にダイナミズムを生み続けるという生命システムの力であるともいえる。