(2ちゃんねる哲学板)激論?本能、進化論、ポピュラリティー



12 :イラクイクラ@初心者 ::04/04/29 16:23

>情報化社会は理性的で自立した男性的主体から、脱中心化された主体へ向かわせる。

ポストモダンを越えていく」=ヘーゲル・カント・サルトルなどへの回帰なのか?



19 :ぴかぁ〜 ◆PKPKs4sF8s ::04/04/29 16:36

するどい!?ある意味そうなるでしょうね。流れをば、脱肛?主義は、近代的な思考を形而上学として、脱構築したわけで、相対主義へ向かった。わしが考えているのは、ここに人間の「普通の生理」を導入しようと
しているわけです。形而上学も、脱構築も、理性的な主体を対象としていることには代わりがない。デリダは疑えと、脱構築しろといいますが、そりゃ、法や、思想などの問題はがんばってできるかもしれないが、日常生活で、そんな気張って生きれないよ。と私は泣きを入れるわけです。

そしていまでの人は日常でおうおうに形而上学的に思考する。第一印象で、いい人だな、こいつ悪いやるだなと決めつける。それを脱構築して、本当は他にどんな面があるか、知り合った人に「問いかけ」続けられない。

そんなことすれば、頭はパンクする。で、なにをするかというと、なぜ人は形而上学的に世界を認識しようとするのか、その分析をするわけです。なにが、良いとこ、悪いとか、どうすべきとかでなく、人の生理も含めて、分析するのです。その方法として、システム論を思考したいと考えているのです。



315 :胡頽子(グミ) ◆Yrg04PRYDU :04/04/28 22:25

はてなに書いてあったことについて質問します。

>個体性をシステムとして見た場合に、個体性の境界は、単体にのみ適用するものではないだろう。それは人の認識上の概念が関わっているのではないだろうか。

これは一体何を言ってるんでしょか?「概念」とは単体としての個体を超えて適用されるものであり、単体としての個体はこの「概念」に強い影響を受けるということですか?

>それは人が、自己という単体の個体性が強い生物であるために、その他生物や存在に擬人化しやすい形態として個体性を見いだすためである。
前の文とのつながりがよく分かりません。最初の「〜ために」の節は、後の「その他生物や・・・・ためである」にかかるはずですね。「ヒトは個体性が強い」ことが「その他の存在に擬人化し個体性を見出す」理由となるというのは意味不明ではないですか?また、この文全体が先の「個体性をシステムとしてみた場合に〜」という文にいかにしてつながるのでしょうか?

>すなわち人の生理的「イデア的同一性指向」の一つである。

一体、何が「すなわち」なのですか?「生理的」「イデア的同一性指向」とは何でしょう?さきの「概念」と「生理」との関連を詳しく展開してください。

>私は、自己とは記憶としての心象構造がコミュニケーション場において絶えず書き換えられていくシステムであり、そして記憶は1−先天的記憶、2−後天的文化記憶、3−後天的個体記憶でできている、と考えた。

1の「先天的記憶」とはDNAレベルの「本能」と考えていいですね。しかし、この「本能」とは「行動」レベルで見出せるものであり、これを「観念を含んだ心」に適用するには問題が多いのではないでしょうか?2の「後天的文化記憶」とは何のことでしょう? 「自分を取り巻く文化的諸伝統からの影響」のことですか?
そして、この2の記憶を3の記憶といかにして区別するのでしょうか?3の記憶とは個人の妄想レベルの記憶のことですか?



324 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/28 22:44

>個体性をシステムとして見た場合に、個体性の境界は、単体にのみ適用するものではないだろう。それは人の認識上の概念が関わっているのではないだろうか。

たとえば、個体性と集団性は、このような階層構造になっています。細胞/内臓器官/人/社会。内臓は細胞システムであり、人は内臓器官システムであり、社会は人システム。ここで個体性は、単体=自己にのみ適応するものでなく、内臓を個体性とすると、人は集団性となります。

>それは人が、自己という単体の個体性が強い生物であるために、その他生物や存在に擬人化しやすい形態として個体性を見いだすためである。

そして人は生命の中で単体=自己という個体性がもっとも強い生命である。私は私という単体であり、内臓は私の一部、社会は人の集まり。しかしアリの個体性は本当にアリ単体として考えるのだろうか。その個体性と集団性は明確なものでなく、アリ単体は個体性でもあり、集団性でもある存在です。しかし人は自己が個体性であるという強い観念を持っているために、人が擬人化しやすい形態に個体性を見いだそうとする。たとえばそれは植物のようなより個体性、集団性が不明確なものも、1本の木として、個体認識しようとする。

>すなわち人の生理的「イデア的同一性指向」の一つである。

そしてこのような個体性を見いだす人の生理的(心理的)な特性を「イデア的同一性指向」と読んでいます。
というのは、このような人の認識の特性は、人の知能の情報能力から来ているのではないかと考えるからです。人は世界を簡略化し、認識、記憶しようとします。情報処理を少なくして効率的に認識しようとする。たとえば形而上学でない。善/悪の二項対立は、世界には二つのものでできていると考える方が情報処理が楽ちんですから。

>1の「先天的記憶」とはDNAレベルの「本能」と考えていいですね。しかし、この「本能」とは「行動」レベルで見出せるものであり、これを「観念を含んだ心」に適用するには問題が多いのではないでしょうか?

「本能」というのはなかなかわかりにくい言葉ですね。「行動」レベルで見出せるものとは、どのような解釈でしょうか。私は「先天的記憶」をされに、広い意味で使っていると思います。

>そして、この2の記憶を3の記憶といかにして区別するのでしょうか?3の記憶とは個人の妄想レベルの記憶のことですか?
たしかに、3は文化で、個人を越えたところの社会的な記憶であり、2は個人的な体験による記憶です。たしかに2と3は区別しにくいというか、不可能ですね。さらにいえば、1も区別しにくいです。DNAは後天的記憶により発動するものも含まれていますから。これらは明確に区別できるものではないということです。



333 :考える名無しさん :04/04/28 22:56

私には「生命そのもの」よりも「人が後天的に構築した哲学的、科学的なもの」のほうが幼稚ではないものに思えるのですが……優越ということではなく。


334 :胡頽子 ◆Yrg04PRYDU :04/04/28 22:58

何を「個体」と見なすかという焦点のあわせ方で見え方が異なるということですね。だとしたら、「認識論上の」などというアカデミックな概念を不用意に用いるべきではない。類と種、あるいは形相と質料の相対性ということであれば、アリストテレスにさえ見出せる議論でしょう。

しかも、「細胞/内臓器官/ヒト/社会」という階層構造での認識は少しも真新しいものではないでしょう。 いろいろ問題もありますよ。 例えば、ヒトなしに内臓器官などを考察して意味があるでしょうか? ヒトが集まれば社会が成立しますか?「ヒトには社会性という本能がある」などという議論は探求の放棄にしか過ぎません。

>しかし人は自己が個体性であるという強い観念を持っているために、人が擬人化しやすい形態に個体性を見いだそうとする。
さて、それはどうでしょう?「葉緑体」に個体性を見出す見方もあれば、「一枚の葉」に個体性を見出す見方もある。「一本の枝」に個体性を見出す見方もあれば、「一枚の木」に個体性を見出す見方もある。「一つの森」に個体性を見出す見方もあれば、「一つの地方」に個体性を見出す見方もある。どれも極めて自然かつ常識的な見方ですね。

>たしかに、3は文化で、個人を越えたところの社会的な記憶であり、2は個人的な体験による記憶です。
「個人を超えた社会的な記憶」とは具体的にどのような記憶ですか?何らかの記録媒体を介した記憶ですか? 書物や各種メディアのような。

>たしかに2と3は区別しにくいというか、不可能ですね。
個人を超えた記憶と個人の脳内の記憶が区別不可能とはどういうことでしょう?



335 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/28 23:00

>>333
生命そのものの方が幼稚に思えるということですね。では、一つ。1+1を計算してくださいといいます。あなたは2と答えるでしょう。で、あなたのなかで何が起こったのですか?あなたはどのようにしてあなたの中から2という答えをだしたのでしょうか。

このようなことは、人工知能を作ろうとするときに現れます。人は様々な判断、思考をしますが、それがどのような生理システムとしてそのようなことが行っているか、わかりません。複雑すぎて。



339 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/28 23:04

>>334
アリストテレスにさえ見出せるから、「認識論上の」という言葉を使うことがおかしいと理由がわかりません。

例えば、ヒトなしに内臓器官などを考察してなぜ意味がないのでしょうか?ヒトが集まれば社会が成立しますよ。「ヒトには社会性という本能がある」などという議論がなぜ探求の放棄にしか過ぎないのか、わかりません。そもそも「本能」とう言葉に意味がないわけですが。

>さて、それはどうでしょう?「葉緑体」に個体性を見出す見方もあれば、「一枚の葉」に個体性を見出す見方もある。「一本の枝」に個体性を見出す見方もあれば、「一枚の木」に個体性を見出す見方もある。「一つの森」に個体性を見出す見方もあれば、「一つの地方」に個体性を見出す見方もある。どれも極めて自然かつ常識的な見方ですね。
まさにそれをいっているのです。個体性を見いだすこと自体が、人の認識の特性である。これらは、個体性であり集団性であるということです。人はそれを、個体性として見いだそうとする。しかしアリにおいて個体性は、アリ単体に見いだしますよね。一般的に。

>「個人を超えた社会的な記憶」とは具体的にどのような記憶ですか?何らかの記録媒体を介した記憶ですか? 書物や各種メディアのような。
文化ですね。よりわかりやすくいえば、自己が生死を越えた時間軸をもつ記憶ということでしょうか。

>個人を超えた記憶と個人の脳内の記憶が区別不可能とはどういうことでしょう?
最初は個人的な体験であったものが、記録媒体に書かれることにより文化として継承される可能性がありますよね。



345 :胡頽子 ◆Yrg04PRYDU :04/04/28 23:12

>>339
アリストテレスにさえ見出せるから、「認識論上の」という言葉を使うことがおかしいと理由がわかりません。
「認識論」と言えばデカルト、ロック、カントと引き継がれる近代哲学の方法の一傾向を指します。類と種の相対性を指摘したいのであれば、「存在論的な」と言ったほうが適切なのです。 

>「ヒトには社会性という本能がある」などという議論がなぜ>探求の放棄にしか過ぎないのか、わかりません。
「本能」で済ませられればややこしい議論などしなくて済みますが、そうはいきません。「モノは重さがあるから落ちる」と言っても何も説明したことにはならないのと同様です。

>そもそも「本能」とう言葉に意味がないわけですが。
それは、「先天的記憶」という言葉に意味が無いのと同じこと。

その「記録媒体を通した文化」が、「自己の記憶としての心象構造」の第2の階層に直接位置づけられている、それは何故なのですか?私の記憶は私の記憶であり、書物そのものとはまったく別のはずです。

>個体性を見いだすこと自体が、人の認識の特性である。これらは、個体性であり集団性であるということです。人はそれを、個体性として見いだそうとする。
だから、ある事物を一個体として見ること、そして、同時に、それが複数の要素から成り立っていると考えることは少しも矛盾しないのです。だれでもやっている見方です。しかも、ある事物を一個体としてみることは、なにも人間に限った見方ではないでしょう。



348 :326 :04/04/28 23:14

アリは匂いで仲間とよそ者を区別しているらしいが、人間が見るとき一匹のアリを「単体」として「見る」傾向が強いということ?

個人を超える記憶は、記録されたものの他に、生物学的・遺伝的に伝達されるもの
世代的に伝達されるものなど色々あります。



354 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/28 23:19

>「本能」で済ませられればややこしい議論などしなくて済みますが、そうはいきません。「モノは重さがあるから落ちる」と言っても何も説明したことにはならないのと同様です。そもそも「本能」とう言葉に意味がないわけですが。それは、「先天的記憶」という言葉に意味が無いのと同じこと。
だから「本能」とう言葉に意味がないのです。それはDNAという分子生物学的であり、複雑性として考えた
場合に、意味がないなどといえませんよ。そして私はそのような方向を思考しているのです。だからあなたが先ほどから「本能」とう言葉をつかうことに違和感があるのです。私はつかったことは一度もありませし、それは意図的に避けています。それは決定的に違いますから。

>その「記録媒体を通した文化」が、「自己の記憶としての心象構造」の第2の階層に直接位置づけられている、それは何故なのですか?私の記憶は私の記憶であり、書物そのものとはまったく別のはずです。
簡単にいえば、言語が「記録媒体を通した文化」であるからです。人の記憶の重要なものは、遺伝的な生理システム、言語、そして体験です。



356 :考える名無しさん :04/04/28 23:20

アリさんは立派にアリさん同士で挨拶しますよ。最近の人間たちより大人だと思いますね。あれは立派な「個」だと思います。他者との区別がつかない/いらない ような状況下ではあんな確認作業はいらないんです。



362 :326 :04/04/28 23:23

>>356
挨拶はしますが、「特定の個」として認めているかは分りません・・



370 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/28 23:26

>>356

細胞同士も密接なコミュニケーションしますよ。そうしないと、アリさんはあんなに見事なシステムとして作動しませんよ。



375 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/28 23:28

ただ、他にも書きましたが、私の考えは、個体性は人の認識により決定しているわけではないということです。アリは、強い個体性をもっていると思います。しかし個体性/集団性の二項対立ではないということです。そのようなものにも個体性と集団性が同居しているということですよ。



438 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/28 23:55

胡頽子 ◆Yrg04PRYDUとの指摘は、二つの面があると思います。一つめは、君はどれぐらいの哲学的知識があるのか?ということと、二つめは、自然主義的発言に対する、哲学側からの誤謬ではないかということですね。

哲学知識の厳密性は、私は確かに無頓着です。ということで、誤謬の問題は、私は誤謬と言われるものはおかして思考している。そこにまさに意味がある。ただそれは、システム論的なもので補完しようと試みている途中であるということです。だから先天的記憶と、本能とは全然違う。本能とは、理性と対立する、形而上学的な概念であり、胡頽子さんのいうように、思考停止です。私は、生理的な、進化論的な知見を思考しているわけです。



470 :417 :04/04/29 00:09

ちょっと「はてな」見ましたが、集団性とか共同性で「猿」同様みたいなというのは、違うでしょう。人間は「都市」を作って「過密」な環境に住んでいるわけで、人間の自然としての集団は「部族社会」的なもので、50〜200人程度かと推定されます。



476 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/29 00:12

>>470
いや、人にも根源的に「自然としての集団「部族社会」」があるでしょうという意味ですね。都市社会=猿社会ではないです。



488 :417 :04/04/29 00:17

自然な集団というのは、「見知っている人々」レベルに近く、コミュニケーションの
ごく一部を切り取った手段(ケータイとか)によって形成されるネットワークではないわけです。



497 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/29 00:23

>>481
そうですね。私はそれをパロールエクリチュール、パロリチュールと区分していますが、猿はパロール的ですね。すなわち現前の他者とのコミュニケーションです。しかしこれらには根源的な社会性、たとえばそれは「群れる」ということがあるということです。極端な話が、猿でも携帯でも、ネットでも、生理的(心理的)な「群れる」という集団性があるわけです。



502 :417 :04/04/29 00:29

そいう手段には「代替的圧縮的希薄化」みたいなもんがあるわけですよ。職場でも「成果主義」の方向
になるほどゲゼルシャフトになるのと似たわけで。


511 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/29 00:47

いや、そういうことではない。社会学的な集団の定義、ゲマインシャフトでも、ゲゼルシャフトでも、コミュニティでもいいですが、根源的な「群れ」さらにいえば、猿でなくとも、アリでもいいですが、集団性をもつ特性というものはなんでしょうか、ということですよ。



512 :502 :04/04/29 00:53

ゲゼルシャフトにおいては個と個が出会うなんてことは「無用」であり「現前」もいらない。「歯車」的機能
のみが評価される。つまり「群れ」を考えるのに「どっちでもいい」はずはない。


515 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/29 00:58

いや、「どっちでもいい」のではなくて、群れる生物の根源的な生理の話をしているわけです。そのような求心力が根源的にあって、ゲゼルシャフトであっても、根源的にそのような求心力はあるだろうということですよ。それが高度に社会性を持つ中で多様な集団形態が現れるだろうということですよ。



517 :考える名無しさん :04/04/29 01:01

「根源的な生理」なとどというのは形而上学ではないの。



527 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/29 01:06

先ほどの胡頽子さんと同じところに収束しましたね。「本能」は思考停止である。そして「根源的な生理」なとどというのは形而上学。二人ともある意味正しいですよ。哲学も、社会学でも、生理的、生物的なものは、そこで話が終わってしまう。なぜなら、哲学も、社会学にはそのような思考が組み込まれていなからですね。進化心理学知っていますか?



528 :考える名無しさん :04/04/29 01:07

社会性や集団性は自然な在り方とソフィスティケイトされた在り方等色々考え得る。しかし、基本線は「親密」とか「共感」のレベルにあるだろう。



529 :考える名無しさん :04/04/29 01:09

>>520
「生理」というもの自体が、哲学、心理学、社会学その他によって見出されたんだと思いますが。
ボン中山さんはAによって見出されたものBがAよりも根源的だという倒錯した見方をしている。



534 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/29 01:11

>>528
>しかし、基本線は「親密」とか「共感」のレベルにあるだろう。
コミュニケーション場ですね。しかしこれでもまだ甘い。たとえば、アリの集団性に「親密」とか「共感」と言えるか。だからシステム論だと思うんですね。人の集団も、アリも集団もシステムであるとみて、どのようにシステムが作動しているか考えていく。



542 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/29 01:16

>ぴかぁ〜さんはAによって見出されたものBがAよりも根源的だという倒錯した見方をしている。
これは倒錯ではなくて、進化論的思考ですね。進化論的思考は思考でいろいろ問題がありますが。たとえば進化心理学で心とは?と考えるときには、それは進化してきたと考えます。すなわちアリの「心のようなもの」→猿の「心のようなもの」→人の「心」なぜならば、人の脳も含めた体は、進化上の連続で考えられる。たとえば人の指がなぜ5本か、人の視神経のかたちがなぜそうなっているのかは、進化上で説明できる。なら心も進化してきただろうということですね。確かに人で爆発的に進化したわけですが。

わかってもらいたいのは、私は進化心理学やではないが、生物学的思考は、最近では進化心理学分子生物学、システム論、認知科学とあたらしく「心」を探求するアプローチとなっているということです。ここでは「本能」「生理」は決して、思考停止ではない。それをより科学的アプローチで分析するということで、ここには、根底に進化論思考があります。私はそのような思考を指向しているということです。まだまだぜんぜん稚拙ですが。



572 :529 :04/04/29 01:31

>>561
形而上学的思考の根源に単に生物学的思考を置くという俗流ニーチェ主義ではない、まだ過渡期なのだという主張なのかも知れませんが、はてなの書き方ではそれはちょっと伝わりませんね。もう少し哲学的アプローチが必要になってくると思いますよ。



586 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/29 01:38

>>572
なかなか手厳しいご指摘ですね。ご指摘の通りですね。さらにいえば、生物学的思考は私が生きている間には体系かされないだろうと。システム論の現在の混沌さを見ていると。ならポストモダン的にいくしかない。すなわちあんな感じです。

いやそれほど熱心な探求者ではないのですよ。開き直ると、結局は、どれだけの共感が得られるか。思想、思考とはそういうものでしょう。ということです。わざわざ来ていただいて、開き直るのはなんなのですが。



591 :胡頽子 ◆Yrg04PRYDU :04/04/29 01:42

>>438
私の2つの質問、すなわち、1−個体性認識の階層構造は当たり前のことなのではないか、と、2−心象の3つの領域区分の正当性はあやしいのではないかということについて、そして、この2つがどうして繋がり得るのかについて、さらに明解な回答を望む。



597 :529 :04/04/29 01:45

>>586
>いやそれほど熱心な探求者ではないのですよ。開き直ると、結局は、どれだけの共感が得られるか。思想、思考とはそういうものでしょう。ということです。
思想、思考とはそういうものじゃないと思うけどなあ。まあ、読み物として楽しむということを目指していると言われてしまうと・・・ああ、そうですかとしか答えるしかないかな。でもそれなら、あんなに誇大に書くことはないと思いますが。



598 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/29 01:45

>>591
>私の2つの質問、すなわち、1−個体性認識の階層構造は当たり前のことなのではないか、
そうですよ。

>2−心象の3つの領域区分の正当性はあやしいのではないかということについて、そして、この2つがどうして繋がり得るのかについて、さらに明解な回答を望む。
それは定義であると考えればよい。



602 :胡頽子 ◆Yrg04PRYDU :04/04/29 01:47

>>497
>猿はパロール的ですね。すなわち現前の他者とのコミュニケーションです。しかしこれらには根源的な社会性、たとえばそれは「群れる」ということがあるということです。
猿は言葉を話さない。今目の前にいる他者とコミュニケートすることが即parlerすることなのではない。 そもそも、デリダの指摘は直接的とみえるパロールには、必ずエクリチュールの次元が混入していること、そして、エクリチュールこそがパロールを実現させているということではなかったか?デリダの用語だけを安易に用いて連想ゲームをするべきではない。



604 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/29 01:48

>>597
合理主義と相対主義議論しますか?はてなにも書いていますが、思想、思考の評価はポピュラリティーでしかないですよ。

経験上、合理主義/相対主義議論をするとつきませんから。なんせ現代哲学の最重要問題ですから。それと知を思考する人は、やはりどこかで正当な評価方法があるそれは反証可能性でもいいですし、論理学的なものでもいいですが、あると信じることが健全です。

哲学など、結局文学の一形態でしかないというロ−ティまでのことはいわないが、知の合理性などない。それはポピュラリティーが決めるということです。詳しくは、はてなに書いています。



614 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/29 01:52

>>602
パロール的ということで、いいたいことは対面のコミュニケーションですね。私の婉曲使用です。そういうことです。

>そもそも、デリダの指摘は直接的とみえるパロールには、必ずエクリチュールの次元が混入していること、そして、エクリチュールこそがパロールを実現させているということではなかったか?
これもはてなに書いていますが、パロールエクリチュールは二項対立はしませんが、メディア論的には違います。それは他者に関する情報量が違います。デリダにはコンテクストに対する考察がない。というのはメディア論の一般的な見解(ポスター等)です。デリダ用語のこのような使用は、メディア論では結構ありますよ。

ようは読み方ですよ。簡単にいえば、私はデリダリアンではない。原エクリチュールという言語特性には引かれましたが、コンテクストへの言及がないのは、メディア論的には使えないということです。それは、メディア論者も指摘しているということです。



626 :胡頽子 ◆Yrg04PRYDU :04/04/29 02:01

デリダにはコンテクストに対する考察がない。というのはメディア論の一般的な見解(ポスター等)です。
「コンテクスト」なるものの背後に潜む、読み手・或いは書き手の形而上学性を暴露するのがデリダの実践ではなかったか?「コンテクストに対する考察がない」などと、そもそもデリダを読む必要さえなかったかのような批判があるのですか?


642 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/29 02:07

>「コンテクスト」なるものの背後に潜む、読み手・或いは書き手の形而上学性を暴露するのがデリダの実践ではなかったか?
いや、電子メディアについては、デリダの少しコンテクストに言及していますよ。メディア論でコンテクストとエクリチュールの関係を問わないわけにはいかないでしょう。デリダ用語をつかわなくても、マクルーマン以下会話/文字/電子メディアと主体というような分類は一般的ですから。



663 :胡頽子 ◆Yrg04PRYDU :04/04/29 02:16

デリダ用語をつかわなくても、マクルーマン以下会話/文字/電子メディア と主体というような分類は一般的ですから。
マクルーハンではなくてデリダの用語を使って思考する必然性が君にあるからデリダの用語で文章を書いたのでしょう?それなら、デリダの概念は厳密に把握すべきだ。そうでないと、デリダの文章とは程遠いマガイモノだけが一過性の流行として流通し、そして忘れ去られることになる。君はその繰り返しに加担している自分を省みるべきだ。



673 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/29 02:20

デリダとの使い方の違いははてなに書いています。確かにメディア論では、スピーチ/ライディングというのが、よく使われるのかもしれませんが。私はデリダの原エクリチュール、反復可能性は高く評価しているので。



682 :胡頽子 ◆Yrg04PRYDU :04/04/29 02:26

それでは、例えば「原エクリチュール」のどういう点を評価してますか?



691 :ぴかぁ〜◆PKPKs4sF8s :04/04/29 02:30

デリダ的解釈 名付けること=原エクリチュールを元にした原暴力
私的解釈 名付けること=原エクリチュールを元にした生命力