溢れる余剰 その4 ネットコミュニティの差異化運動

ネット上の記号コミュニティ


現代社会では大量の複写物によって過剰な情報と価値が供給される。このために自己の同一性は散乱する傾向がある。そのためにわたしたちは記号コミュニティに帰属し、自己価値を見いだそうとしている。大衆がマスメディアから大量にばらまかれる記号を共時的に体験をすることによって、記号コミュニティは形成される。それは社会的に明確なコミュニティを形成しているわけではなく、ある記号を指向するコミュニティが存在し、それに自分は帰属しているという各自の意識にささえられている。

ネット社会では、物理的な制約が少なく、クリックするだけで自由に移動できる。主体は空間を超越して存在することが可能になる。またある掲示板で男性であり、ある掲示板では女性であるというように多様な場に多様な主体としてあらわれることができる。このために主体の散乱は加速されるといわれている。

しかしこのようなインターネットの自由度に対して、多くのネットユーザーの行動は思った以上に狭いのではないだろうか。ネットワーク上には大きく分けてデーターベース場とコミュニケーション場がある。データベース場は情報を収集するために訪れる場所であり、ニュースサイトや興味を同じくするパーソナルなHPなどである。そしてコミュニケーション場は他者とコミュニケーションする場で、2ちゃんねるなどの掲示板である。データーベースとコミュニケーションは必ずしも異なるものではなく、一つの場に共存している機能である。

たとえばデーターベース場として回覧するところは、自分が帰属する記号コミュニティに関係するものであり、より有効な情報が集められる場としていくつかに絞り込まれる。そしてコミュニケーション場としては、自分と同じ記号コミュニティに帰属するものたちとのコミュニケーション場である。これらの場の選択は帰属する記号の選択を意味し、それは自己価値化行為である。

またネット社会では個人が情報を発信することを可能にした。ネットワーク上に構築されたパーソナルなホームページ、日記は、対価がないにもかかわらずに、多くの時間と労力が費やされ制作されている。これらは自分の興味のあることを提示するようにつくられている。すなわち自分が帰属する記号コミュニティの提示であり、ネット上で自己価値を誇示しているのである。またパーソナルなHPの多くは掲示板を併設し、コミュニケーション場として解放されている。それは自分が帰属する記号コミュニティのメンバーへの呼びかけである。



ネットコミュニティの差異化運動

現代社会の大量な情報、価値の中で、人々の帰属は社会的コミュニティから虚像的な記号コミュニティへ移行してきた。そして社会的コミュニティの現前の他者たちとのコミュニケーションは回避される方向で進んだのである。それは情報化社会の中へ自己価値を見いだすためであり、さらに記号コミュニティというダイナミッツクな価値生成場を指向するためである。それがネット上の記号コミュニティでは、現前化しなかった記号コミュニティの「メンバー」と直接コミュニケーションすることが可能になった。

同じ記号コミュニティへ帰属する他者との直接的なコミュニケーションは、記号コミュニティへのさらに強い帰属意識を生み出すのではないだろうか。自分と近い価値をもつ他者とコミュニケーションするということは、「より近い他者」と差異化するために異なる価値をもとめて、コミュニティ内部のより細部へ向かうという差異化運動を加速させるからだ。


ネットという主体が散乱しやすい場で、主体は回覧サイトの選択、パーソナルなHPの作成、記号コミュニティ「メンバー」との直接的なコミュニケーションによって、記号コミュニティ内への差異化運動を加速させている。記号コミュニティはネット上に移り、「ネットコミュニティ」として差異化運動を加速させているのである。ネット上の掲示板に参加する人たちは、たまたまそこで発言しているわけではなく、記号コミュニティという掲示板に帰属意識をもち参加している。このような差異化運動によって、ネットコミュニティはさらに細分化されている。いままでマスメディアによる共時的な体験として与えられていた記号ではなく、記号を自己制作する方向に進んでいるのである。



ネットにおけるディスコミュニケーション

しかしネットコミュニケーションには様々な問題がある。ネットコミュニケーションでは、多くにおいて他者は「匿名」であり、言語としてしか現れない。このために他者の情報、(社会的な情報や心象的な情報)が決定的に欠落し、主体はフラストレーションを感じ、他者を否定的み見るのである。さらにはネットコミュニケーションはだたいるだけということはありず、発言しなければ存在しないことになる。そして発言は、ネットの向こうの見えない他者たちに見られているのである。このような状況で発言することは緊張感を強いられる。たとえばそれははじめてパーソナルなHPなどの掲示板に投稿するときの緊張感を考えてみればわかる。

このようにネット上のコミュニケーション場は、感情的になりやすくセンシティブな場であり、ある程度の人口密度に達するとフレーミング(言い合い)の発生は避けられない。フレーミングは単に意図的に誰かが煽るようなことで始まるのではない。それは互いに相反する真面目な意見をもつものが対峙したときにおこる。そしてフレーミングに巻き込まれた者は、ネットの向こうの他者たちに見られているという強い意識をもち、そのコミュニケーション場での自分の立場を守るという危機感に繋がる。このためにただ「負けない」ことが目的化され発言は繰り返される。そして加熱するフレーミングは議論するものたちだけの問題ではなく、回りのものを巻き込んで、コミュニケーション場自体のコミュニケーション機能を麻痺させるのである。

このようなことから、特にパーソナルな掲示板では、閉鎖的であることが多い。新参者には神経質であり、掲示板内の意見と異なるものは排除される。このような閉鎖性により、コミュニティ内外を差異化し、コミュニティの帰属意識を高め、「社会性」を高めている面がある。