溢れる余剰 その6 2ちゃんねる/大衆

2ちゃんねる/大衆


2ちゃんねるが成功したもう一つの理由として考えなければならないのが、マスメディアとの関係ではないだろうか。2ちゃんねる住人の増加は、バスジャック事件など、マスメディアで取り上げられることによって膨らんできたのではないだろうか。最近では、人質事件でマスメディアに「モラルのない無法集団」として取り上げられたように、マスメディアが「2ちゃんねる」の記号意味(シニフィエ)を反「大衆」的として報道することによって、「2ちゃねらー」はマスメディア的「大衆」と差異化された「2ちゃんねる」という記号コミュニティへの帰属意識を深めていく。「2ちゃんねる」という記号コミュニティは、「2ちゃんねる」というシステムではなく、「2ちゃんねる」という記号コミュニティが存在し、「2ちゃんねる」という記号コミュニティに帰属しているという「2ちゃねらー」の意識によって支えられているのである。

ここでさらに考えるべきは、マスメディアが提示する「大衆」も記号であるということだ。この「大衆」という記号コミュニティは近代的な自律した主体を根底にしているとしても、消費社会の中で作られてきたのではないだろうか。消費社会では、社会的なコミュニティ(家庭、地域、国家など)への帰属意識を希薄にし、そして現前の他者との関係を希薄にし、欲望は記号コミュニティの内部に向った。社会的コミュニティは「大衆」という記号コミュニティとなり、人々は欲望を隠し理性的で「動物化」する。そして「大衆」という記号コミュニティは「大衆」という記号コミュニティに帰属しているという「大衆」の意識によって支えられてきたのである。

2ちゃんねる的現象は日本特有といわれるが、ネットの匿名性とディスコミュニケーションによるフラストレーションから、発言が過激に暴露的になることは、その他の国でも現れている傾向である。日本特有であるのは、これが巨大なコミュニティ化していることだろう。このような現象は、日本の「大衆」という帰属意識の高い記号コミュニティの差異としてなりたっている。その閉塞感が、「2ちゃんねる」という記号コミュニティを生んでいるのではないだろうか。



増殖する2ちゃんねる

2ちゃんねるは本来総合掲示板である。しかしいまや「フレーミングのゲーム化」によってネタ的なコミュニケーションゲームとして様式化され、またマスメディアに反「大衆」的に報道されることにより、「2ちゃんねる」という記号コミュニティが形成されている。2ちゃんねるへアクセスすることは、総合掲示板としてもどこかのスレッドへアクセスし、コミュニケーションすると言うよりも、「2ちゃんねる」へアクセスし、2ちゃんねるスタイルのコミュニケーションをすることが目的化されているのである。

このような2ちゃんねるスタイルは、ネット上はもとより社会生活へも進出する勢いである。ネット上には2ちゃんねるを表す記号があちこちで見られる。それはモナーというAAというわかりやすいものから、(*゜Д゜)のような絵文字であったりする。さらにはあちこちで掲示板で、パーソナルはHPでそれらは見られる。そこでは自分が2ちゃんねるに帰属していることは誇示されている。さらにネット上での体験は、2ちゃんねらーに報告され、ネタにされている。どこどこの掲示板のだれだれはDQNであると。

さらに社会コミュニティ的に不道徳的な、過激な発言を生み出し、社会コミュニティと摩擦を生んでいることは承知の事実であるし、最近ではイラク人質事件で人質が解放されたときにTV映像の後ろに「ぬるぽ」という紙がうちし出されていたが、(マスメディア側の隠れ2ちゃねらーが意図的に撮影していた?)あれは2ちゃねらーによる2ちゃねらーへのメッセージであり、2ちゃねらーとしての自己顕示である。



野蛮化する大衆

2ちゃんねる出現前には、不特定多数との直接的なコミュニケーションはありえなかった。わたしたちは理性的な「大衆」というコミュニティが存在し、そこに帰属していると考えてきた。そしてそのような帰属意識が「大衆」を支えてきた。しかし直接、コミュニケーションしてみるとそこに現れてきた「メンバー」たちは、そのような理性的な人々ではなかった。そしてマスメディアが「大衆」を提示するたびに、「大衆」という記号から溢れた余剰は、自己の中の隠されるべき欲望から、差異化された「2ちゃんねる」というコミュニティへと変わってきているのである。そしてそれはいまや欲望を暴露することが目的化され、そして2ちゃんねるスタイルを体現しているか?、2ちゃねらー的発言をしているか?ということが、「2ちゃんねる」記号コミュニティへの帰属意識を高め、差異化運動を生んでいるのである。

たしかに2ちゃんねるはスタイル化され、価値化され、差異化運動し、2ちゃねらーの言動は、より過激なものとしてあらわれ、社会コミュニティの運営上の問題となる場合も出てきている。しかしこのような欲望の暴露は、ネットコミュニケーションがもつ根源的な特性かもしれない。野蛮性は理性的であることを同じに人のもつ一面である。このような「普通の」大衆自身による大量な野蛮性の表出は、もしかすると歴史上なかったことかもしれない。ネットコミュニケーションの匿名性は暴露性を産み、フレーミング性は過激さを増殖させる。このような中で「普通の」大衆の欲望が表出してきているのかもしれない。

このような流れの中で、今は、マスメディアにより大衆/2ちゃんねる=理性/野蛮=善/悪というような形而上学的二交対立で表現されているが、それはやがて脱構築されていき、ネットが社会へより浸透していく中で、「大衆」の記号意味(シニフィエ)は、このような野蛮性を取り込みながら、変化していくのではないだろうか。今回の人質事件の「自己責任」論をマスメディアや大衆も指示したという傾向は、すでに「2ちゃんねる」的な、野蛮性へ「大衆」の記号意味(シニフィエ)を変化させつつあると考えるのは、少し強引だろうか。