Winny開発者逮捕と自己責任論

Winny開発者逮捕と自己責任論


タイーホ!キター(゜A゜;)

「現行のデジタルコンテンツのビジネススタイルに疑問を感じていた。警察に著作権法違反を取り締まらせて現体制を維持させているのはおかしい。体制を崩壊させるには、著作権侵害を蔓延(まんえん)させるしかない」と供述。インターネット上の掲示板「2ちゃんねる」上では、「そろそろ匿名性を実現できるファイル共有ソフトが出てきて現在の著作権に関する概念を変えざるを得なくなるはず」「自分でその流れを後押ししてみようってところでしょうか」 http://www.asahi.com/national/update/0510/004.html http://www.asahi.com/national/update/0510/020.html

Winnyの開発者が捕まった。彼はネット上の著作権への挑戦であり、さらに現在の法律ではつかまることはしかたがない、といっているらしい。これは問題提議であり、意図的に、理性的に「反社会」行為おこなったということである。ネット上の著作権の問題は以前から様々に議論されている問題である。Winnyの開発者と同じような考え方をする人たちも多くいる。

しかしWinnyの開発者のこのような体制批判に対して、同調する運動はおこるだろうか。知識人たちからは法的な問題として様々な意見がだされるだろう。しかし実際にWinny利用者たちからはあまり期待できないだろう。彼らの多くは反体制でなく、反「大衆」だからである。ただ楽しんでいるだけである。

さらにいえばWinnyを使うことは、それほど手に入れたいソフトがあるのだろうか。それはひとつのコミュニケーションゲームである。疑似現前の他者との善意の交換を楽しんでいるのである。そこでは著作権という「軽い」犯罪をおかしていることは「秘密の楽しみ」的な味付けになっているかもしれない。だからゲームを提供してくれた開発者に感謝はするが、つかまることは開発者の「自己責任」でしかないのである。そしてネットにおいてこのようなゲームがなくならないこともしっているし、さらに危険な味付けが加わった程度の認識しか持たないかもしれない。



普通の大衆

彼等をなにも考えない頭の悪いやつらだというのは簡単である。しかしこれが「普通の大衆」の姿であることが理解できないと、ネットでおこっていることを、これからの社会でおこることを理解できないだろう。

ネットは「便所の落書き」というときに、非「便所の落書き」とはなんだろうか。それは知的で理性的で論理的な言説だろう。それは社会のどこにあるのか。それは、かつての学生運動の頃の若者と2ちゃねらーの対比を言っているのかもしれない。かつての若者は反体制というスローガンのもと、理想を掲げ、論理的に主張したものだ。それがいまの若い奴は思いつきでネタ的に発言しているだけではないか、というようなことである。

2ちゃんねらー」、あるいはネット上の発言の多くは、非理性的に自分について告白するのである。そしてそれらは反「大衆」という記号によってコミュニティ化しているのである。これは2ちゃんねるで様式化されてきているが、インターネットのもつ一面だと考えられる。社会生活の中で、理性的「大衆」である人々が、ネット上で非理性的内面を暴露する「2ちゃねらー」になる。これは、人は理性的であることにより理想社会は達成されるという近代が目指した主体像の崩壊を意味しているのかもしれない。彼らはネット社会を生きる「普通の大衆」なのだ。



自己責任論

自己責任論を現代社会の傾向ととらえると、社会が記号コミュニティ化していることが考えられる。記号コミュニティは帰属意識をもったものたちではあるが、コミュニティメンバーはどこのだれかわからず、個人的な繋がりは希薄である。ネットによって記号コミュニティのメンバーと直接的なコミュニケーションは可能になったが、あいかわらず個人的にはだれかわからず関係性は希薄である。

自己責任論は今回注目されたが、現代社会では多くの人がもっている考え方ではないだろうか。ネット上では誰もが多かれ少なかれ、反社会的、反倫理的発言、行為をおこなっている。そのような場であることを承知で参加しているのだから、仮に災難にあっても、結局、自分の責任ということになる。今回のイラク人質事件ではネット上でこのような論理の延長線上で語られる、さらにマスメディアによって切り取られることによって、確認されただけだろう。

わたしは自己責任を擁護しているわけでなく、イラク人質問題は自己責任論としてかたづけるのはあまりに単純化しすぎるし、2ちゃんねるにはもっと多様な発言があることを知っている。