アウラな世界 その5 正義論1 正義という狂気

アウラな世界 その5 正義論1 正義という狂気 



恋は盲目

たとえば恋することとストーカー行為の違いはなんでしょうか。

恋愛とは「偶有性から単独性への転倒」が起こりやすい場です。運命の人、奇跡の出会い、僕の女神・・・恋するということは、無数のごとくいる人々の中から特別な人を読み込みます。相手を特別な人と読み込むことにより、相手に選ばれた私も特別性を勝ち得るのです。人はコミュニティの中の偶有的位置から自己を見出だそうとします。そしてそこに運命、奇跡という神を捏造します。

しかし想いが相手から拒絶される、失恋するということは、主体に大きなダメージを与えます。それは恋の相手は私の単独性を保証してくれる人であり、その相手から拒絶されることは、再び偶有的な存在へ戻されることを意味するからです。

恋愛は盲目といいますが、それでも相手への過剰続ける相手に迷惑をかけるような行動にでた場合に、ストーカーと呼ばれます。ストーカーと恋は紙一重です。自分を相手が受け入ないはずがない。なぜならこれは神が決めた運命の二人であるから。それを受け入れない相手は正しくないのであり、私はそれを相手に気付かせる使命がある。このような「アウラな場」で相手への過剰な読み込みが行われると、アウラ(神)による正当性が狂気に変わります。



正義という狂気

このような構図はテロリズムにもみられことがわかると思います。転倒において捏造された神は、正当性、そして正義です。だからこの正義を受け入れられない相手は、正しくないのであり、私はそれを相手に気付かせる使命がある。それは犠牲をともなっても。歴史における戦争、虐殺などは、いつもこのような転倒された正義のもとに「ジハード」としておこなわれてきたのです。

たとえば哲学はいつも神を伴って真理を探求してきました。捏造された神を理論武装するのが、真理であり、正義である。だから最近ではハイデガーや、マルクスなど歴史上の様々な哲学的言説が狂気を補完してきたという事実はある意味当然です。これら哲学家の言説が間違っていたと言う単純なことではなく、そもそもにおいて、哲学あるいは宗教という正義には、狂気がひそんでいるのです。

たとえばナチズムの狂気とはなんであったのか。ヒトラーという悪魔によるものでしょうか。しかしヒトラーは大衆の英雄であり、神格化された存在でした。そこにはヒトラーを支持する多くの人々がいたのです。そしてそこには彼らなりの正義があったのです。正義が狂気に変容することは容易です。しかしそれは変容ではなく、正義そのものが偶有性から単独性への転倒において捏造されるものであり、すでに狂気を内在しているといえます。それが時代性の中で強い帰属意識を持ったコミュニティとなったときに、「大きな狂気」が生まれるのではないでしょうか。そして歴史上の中でナチズムの狂気は特異なことではありません。ヒトラーのように制裁され、反省されることがなかった多くの狂気が歴史上生まれているのではないでしょうか。 



日常という狂気

恋愛は「アウラな場」ですが、ネットコミュニケーションにもそのような特性が見いだされるかもしれません。それは、相手が見えないという不安、匿名性という物理的関係性の欠如、さらには文字(エクリチュール)によるコミュニケーションであるということです。文字を書くということは、論理的な言説が要求されます。そしてそれは自己の正当性の表現という面が強く現れます。

ネットで繰り返されるフレーミングは、このような状況によっておこり、フレーミングによって、冷静な論理的な議論が、容易に誹謗中傷へ変容していくことはよく知られています。それはまさに正当性の衝突であり、2ちゃんねるの野蛮性も主体が理性的であるから起こっているというパラドクスであるかもしれません。


自己を見いだす、主体となるということは、それ自体、狂気がひそみ、暴力を内在しているのです。狂気は生きることの一面であり、だれの中にもあり、「正義という狂気」は容易に現れることを示しています。

現代は、「大きなアウラが消失した時代」であるということは、「大きな狂気」を生みにくい時代かもしれません。しかしテロリズムなどをみるとまだまだ世界には「大きな狂気」が潜んでいます。そして本来、「大きなアウラが消失した国」であるはずのアメリカが示すことは、「大きな狂気」の現前化に対して、「大きなアウラが消失した国」においても、「大きな狂気」が生まれる可能性が絶えず潜んでいるということかもしれません。たとえば日本においても、同じことがいえるのかもしれません。