アウラな世界 その9 正義論5 能動的なデリダと受動的なル

アウラな世界 その9 正義論5 能動的なデリダと受動的なルーマン 


アウラな場

正義論に再びもどると、デリダ脱構築ルーマンオートポイエーシスアウラ論に共通するのは、「正義」というときにコンテクストと主観によって、そこに複雑性の縮減が行われいるという懐疑です。このような神=正当性=正義が捏造されやすい場=唯一性が読み込みやすい場を「アウラな場」と呼びたいと思います。ベンヤミンにおいて、複写技術時代前の芸術作品はアウラな場であったということになります。さらに正義論、(政治、法、学問など)、金銭関係、愛情関係、さらには最近ではネット上などが考えられます。そしてこのような場は正義同士の闘争の場でもあるといえます。

私は、「アウラな場」、すなわち「偶有性から単独性への転倒」が起こりやすい場の一つとして、恋愛をあげました。「愛」とは無数にいる人から、唯一人を読み込むことです。そして唯一人を読み込むことにより、主体も高い唯一性を手に入れるということです。運命の出会いという超越論性は、「偶有性から単独性への転倒」による神の捏造です。「愛」は神に語りかけるように、唯一性をもって語られます。そしてそれは正当性を捏造します。「あなたのためなら死ねる。」とうような純愛は、そこに社会性とは、異なった神(正当性)を主体が見いだしたことによる強い意志表示です。

このように「偶有性から単独性への転倒」はわたしたちの日常レベルで起こるものです。そして私たちは日々、運命、奇跡、ついてる、祈る、信じるなどのように小さな神=正当性=正義を捏造しています。それが人が自己を見いだすことであり、人が自分であるということです。誰でももつ排他的、偏見的な小さな狂気は、生きることの一面です。だからヒットラーのような考えを主体レベルでもつ人は、現在においても見られるのではないでしょうか。


日常を脱構築する滑稽さ

では、このような「愛」を脱構築するとは、どういうことでしょうか。それは「愛」とは「幽霊」であるということです。「断絶する無数の伝達経路を、透明な全体性(自己同一性)へと縮減することから生じてくる、錯覚にすぎない。」あなたが、彼を好きになったのは、錯覚であるということですこのような日常レベルを、脱構築すること、たとえば、「あなたが彼を好きなこと」、「あなたがあのタレントを好きなこと」、「あなたが入っている宗教」、「あなたの子供」は、錯覚である。このような日常を脱構築することは滑稽です。

たとえば、デリダは自己の同一性について懐疑的です。それは絶えず「幽霊」であるといいます。また署名を偽ることにより、その幽霊性を示そうとします。しかしこれらの行為がすでに小さなアウラであり、デリダデリダたる自己の同一性を求める行為であるともいえないでしょうか。人が人であるということは、小さな神を捏造しつづけることであり、デリダは幽霊でありつづけるということと同じように、「デリダ」であろうとすることからは逃れられないということです。



デリダ脱構築の限界

デリダ脱構築はその根底において「主体が能動的に脱構築する」という行為を元にしています。そして何を脱構築するかという主体による「他者」の選択を必要とします。たとえばそれはデリダ脱構築の対象により、デリダの言説の「迫力」が大きく作用しているということはいえないでしょうか。

デリダが、形而上学、あるいはラカンおよびジジェクのいう「主体の空虚とそれを埋める「不可能なもの」(現実界ないし対象a)」に対して否定神学であると批判できるのは、それが理論化された言説であるためです。しかしデリダ脱構築の日常生活レベルへ展開することの滑稽さから、デリダラカンおよびジジェク否定神学と否定することに無理があるということを示しているのかもしれません。それはラカンおよびジジェクの射程が日常レベルをも視野に入れたものだからです。

では、脱構築はどこへ向かうべきでしょうか。それはデリダ自身が試行錯誤しているのではないでしょうか。サイードがこの点を指摘しています。「デリダはなぜヨーロッパの評価が確立されたテクストに向かうのか。」すなわちデリダが目指す方向は、アウラな場であり、伝統的で理論的なテクストが提示され、あるレベルの社会的な弊害が起こっている、起こりそうな「大きなアウラ」=「正義」についてということになるでしょう。

しかし愛という捏造によって、多くの事件が起きていますし、歴史上には権力者の愛憎が大きな悲劇につながった事例も多くあります。「愛」がコミュニティへ展開されても同じことがいえます。タレントのファン(信者)などは一人の人間にアウラ=正当性を見いだしますが、それは宗教者、権力者、あるいはテロ集団リーダーなどへと、同じ構造で発展していきます。法の問題も愛の問題も、そこに捏造される神=正義においては主体レベルで起こります。このような複雑性の中で脱構築の射程をどこに設定するか。そこに脱構築による正義論の難しさがあるように思います。



ルーマン脱構築の可能性

ルーマン脱構築は一つの示唆を与えているかもしれません。私は「偶有性から単独性へ転倒」は、コミュニティレベルと個体レベルで起こるといいました。主体は主体として単独性を見いだそうとし、コミュニティはコミュニティで単独性見いだそうとします。主体の単独性は主体の自己と深く結びついていますが、コミュニティは柔軟性が高いです。ルーマン脱構築は、標的をコミュニティレベルにします。

「言語を用いる観察者を観察することは、確かに脱構築的である。というのは、このレベルにおいては、超言的な作動を投入しうるからだ。つまり、観察されている観察者の観察を制御している区別を、拒絶したり受け入れたりできるのである。かくして、セカンド・オーダーの観察のレベルでは、すべてのものが(セカンド・オーダーの観察そのものを含めて)偶発的になるのである」(Luhmann[1995a:18])。

コミュニティ内の主体群がそれぞれ観察による単純化=自己形成、たとえば日常レベルの恋をして、趣向をもつ、宗教に入信するなどなどしながら、コミュニケーションする(議論し、否定し、肯定する)ことが、すでにコミュニティレベルの脱構築であるということです。コミュニティ自体が、事後的に成立し、コミュニティ価値は、偶有性が向かいます。

ルーマン脱構築は、いわば受動的な脱構築です。主体レベルでは、拒絶したり受け入れるという寛容性が含まれており、それがコミュニティレベルで脱構築されています。このためにルーマン脱構築は日常レベルも含めた広い範囲を射程にすることができます。

しかしルーマンの超言的作動は、ルーマンのシステム論全般に言われる保守的すぎるという批判があるかもしれません。現在においても、このようなコミュニティとしての脱構築は行われているのではないか。現状肯定でしかないということです。そのためにルーマン脱構築をより活発に機能させるコミュニケーション場が必要になります。私は、このような超言的な作動をより活性化させるものとして、ネットコミュニケーションの可能性に期待しています。