アウラな世界 その8 正義論4 アウラの脱構築

アウラな世界 その8 正義論3 アウラ脱構築


アウラ脱構築

クリプキの固有名議論をベンヤミンの芸術作品のアウラに展開すると。たとえば「モナリザ」という固有名は、フレーゲラッセルの記述理論によると、確定記述の束であるとなります。これに対してクリプキは、確定記述に回収できない新事実が判明すると、自己矛盾を起こす可能性があり、確定記述の束に還元できない「力」=「固定指示子」が宿っているといいます。ジジェクはこの「固定指示子」を「現実界」(象徴界の穴)に求め、それが「現実界」に対応するシニフィアン(記号記述)(対象a)であると言います。デリダは「固定指示子」、「対象a」を理論的に確保できない否定神学であり、単数化し、特権的な「超越論的シニフィアン」としていると批判します。デリダは散種→多義性を指摘します。固有名は齟齬を含み様々な経路を通って配達される。そして今「モナリザ」を現前化するときに多義性=確定記述の束が作られる。そして確定記述の束に還元できないのは、伝達経路で行方不明になった意味たちである。

ベンヤミンの「アウラ」も同様に言うことができます。アウラは確定記述の束に回収できない「力」であり、ジジェクのいう対象aです。しかしデリダ的解釈をするとそれは「超越論的シニフィアン」であり、いま「モナリザ」を現前化している鑑賞者が誤配可能性がある伝達経路を抹消して多義性=確定記述の束として還元するときに、伝達経路で配達されなかった意味ということになります。

私はアウラについて「偶有性から単独性の転倒」と言いました。「多くの芸術作品という偶有性、あるいはそれは色素が並べられたという偶有性が、「大きな物語」を持ち得た時代の多くの人々が礼拝的な価値を読み込みつづけた事実により、主体はそこに真正性を読み込む。」と言いました。これは本質的にはデリダの見解と近いものだと思いますが、さらにアウラが読み込まれた理由について示しています。

デリダの見解と私の見解を比較します。多くの芸術作品という偶有性とは、「モナリザ」とともにあった多くの固有名との関係性によってあらわれた「モナリザ」の無数の意味、すなわちデリダのいう散種です。主体はそこに多義性を読み込みます。

ここまではデリダの見解を同じです。続いて否定神学が生まれる構造を考えます。デリダはその剰余が否定神学となると言いましたが、私はこの多義性を読み込む行為そのものに神が捏造されるのだと思います。すなわち「名指しする」とは、それが神が介在し行われた行為であるとして、イデア的同一性をもち、余剰は否定神学性をもちます。



神が捏造される構造


なぜ固有名が特別なのでしょうか。デリダが示すように多義性への読み込みはコンテクストに依存します。そして固有名は「唯一なもの」というコンテクストによって特別なのです。人は人に高い唯一性を感じます。そしてコミュニティに広く認知されているという人も高い唯一性をもちます。さらには母の形見のようなものは、主体にとっては高い唯一性を持ちます。このように主体が高い唯一性を読み込むものほど、高い特別性を持ちます。

唯一性がなぜ特別なのかは、名指しという行為が、鏡像的に自己を形成するからです。名指しにおいて、神=アウラが捏造されるのは、それが自己の正当性を保証する行為だからです。だから唯一性の高い言語記号は、自己の単独性をより強く保証するために、より高いの神性が捏造されるのです。

ベンヤミンが、複写技術時代前の芸術作品に「大きなアウラ」を読み込んだのは、その芸術作品が主体が「大きな物語」という記号コミュニティがあると認識し、「大きな物語」という記号コミュニティにおいて高い唯一性をもっているという意識によるものです。すなわちこれは主体のコミュニティへの帰属し意識を強くするということです。すなわちアウラとは自己の単独性を高める唯一性をもっていると主体が認識するときに、捏造された神です。

再度示すと、名指し全般において、神は捏造され、鏡像的に自己形成につながります。そして読み込みは、デリダが示すようにコンテクストに依存します。そして唯一性が高いコンテクストほど、鏡像的に自己の単独性を高めるために、大きな神が捏造されるのです。たとえば「上から二冊目の本」と「モナリザ」の捏造される神の大きさ=アウラの大きさは、そのコンテクストに読み込む唯一性の度合いに依存するということです。



デリダルーマンアウラ

デリダ脱構築ルーマンオートポイエーシス、私のアウラ論の関係を示す。

デリダ 散種→多義性
言語記号一般の生成。多くにおいて「散種から多義性への転倒」がおこり、イデア的同一性、形而上学否定神学が生まれる。
ルーマン 複雑系→観察による単純化
複雑性の縮減
アウラ論 偶有性→単独性
コミュニティ内の自己位置の獲得、鏡像的な言語記号一般の制作。そのときに自己正当化のために神が捏造される。

クリプキの固有名論でデリダが展開した「散種→多義性」は、ルーマンの「複雑系→観察による単純化(複雑性の縮減)」に対応し、さらにわたしがいう「偶有性から単独性」に対応します。デリダがこの過程(正確には転倒)で生まれるとした対象aなどの否定神学は、わたしがいう「神の捏造」に対応する。すなわちわたしが小さなアウラというときは、それは「対象a」のメタレベルにある。

デリダがこの「散種→多義性」を言語記号一般の同一性を生む構造と考えたのに対して、わたしは鏡像的にコミュニティ内での自己を獲得する過程ととらえます。これはルーマンの自己観察に相当し、またラカンの鏡像に相当します。すなわち言語記号の獲得は鏡像的な自己獲得であり、デリダのいう「イデア的同一性」、「形而上学」、「否定神学」は自己獲得過程において、自己正当化するために「第三の審級」が捏造されたといえます。そして脱構築は「散種→多義性」を逆に読み込み、多義性に捏造された神を暴露することをあらわします。