フジワラノリカ

どうも最近フジワラノリカが気にかかる。ウィークリーマンション?のCMで、部屋を借りるとフジワラノリカがついてくるというCMがあるが、もはやフジワラノリカは一つの記号と化していることを象徴しているようなCMである。最近、フジワラノリカにかつての元気がないように思う。かつては、記号としてのフジワラノリカよりも、生としての藤原紀香が先行していた輝きがあったが、とうとう追いつかれたようなに感じる。

有名人の記号化は、古くはジェームスディーンや、マリリンモンロー、エルビスは有名であるが、有名人は、多くにおいて、生と記号化との闘争があるように思う。成功すればするほど、象徴的な記号として、周りから静的に規定される記号と、生身の人間としてありたいという闘争である。

たとえばオードリーヘップバーンはローマの休日で象徴となった。のちの、映画はもはや象徴としての姿しかない。そして彼女が最後には、難民支援へ向かったのは、象徴を守ることと、生を求めるところの折り合いとしての一つの解答のような気がする。フジワラノリカがアフガニスタンへ向かうのに同じような姿を見るようである。

このような象徴化と生との葛藤しつづける有名人は多いが、有名なところではジョンレノンが上げられるかもしれない。ジョンレノンはビートルズ解散後、一人人間であろうとし葛藤したことは有名である。ビートルズ解散後のアルバムの「Mother」など、生の人間であろうとする姿が見ることが出来るし、政治運動などに傾倒しつつ、戦いつづけた姿勢は、周りの人間からはなにがしたいのかよくわからなかった。結局、主夫になり安住の地を見つけるわけであるが、その葛藤は、記号化への闘争であり、一人の人間でありたいということだったのではないだろうか。

ボクは、人の根元的な傾向は、偶有性から単独性への転倒であるといっているが、有名人になり、多くのファンに指示されるということは、ある意味で単独性を見いだすことではある。しかしそれは、結局は、静的な位置へ押し込められる圧力であり、スターでさえ偶有的であることは否めないのかもしれない。人々はフジワラノリカをもとめるが、それが必ずしも、藤原紀香でなくてもよいということである。

コンサートで多くの人に熱狂されるときも、ステージの上で孤独を味わうといういうことを聞くが、それは結局、彼らは、有名人を偶有性から単独性への転倒するための道具としているだけであり、彼らにとってそれはだれでもいいのではないかということに気づいてしまうからかもしれない。