神話なき神話の時代


リオタールは大きな物語が凋落したといった。科学、論理の不完全性が様々なところで露呈し、われわれは世界を理解でき、真理に到達できるという信念は失われた。それはわれわれは神により保証された存在であるという裏付けによる自信であり、そこにわれわれの存在意味が見いだされるという筋書きであった。しかし人々は科学、論理のこのような不完全性が意識しているだろうか。日常生活において、宗教的言説が衰退したいまは、科学技術の確からしさの上に、日々を営んでいるのではないだろうか。現代は科学技術信仰の時代である。



われわれの様々な行為の論理的な正当性が証明できないことは明らかであるが、その中で如何にわれわれは日々行為を行っているのかという問題がある。人の行為は思いの外、論理性にかける。簡単にいえば適当!であり、まあ、やってみましょ!である。人はまあなんとかなるよ、というような楽観的な考えをもっている。なんとかなるとは、私はそれなりについているということである。

それはまったくもって正しい。たとえば人工知能のフレーム問題が示すことは、われわれの行為は無限の可能性がある。その中から何を選択するかを、論理的に検討していてはわれわれは一歩も前に進めない。同じように、ウィトゲンシュタインのパラドクスがしめすことは、数式でさえ、その正当性を完全に証明することは出来ない。

ただこのような適当さは、本当に適当であるが、ある種のコミュニケーションであるということだ。数式の正しさは、他者が承認した規則である故に正しいという信頼に基づいている。そして行為も他者の承認を捏造する。私はそれなりについているというのは、なにが付いているのか?宗教的な神ではない。それは小さな神である。



科学技術と宗教の決定的な違いは、科学技術には「意味」がないのということである。1+1=2には、意味がない。ただそのような規則があるだけであり、機能するだけである。たとえばスイッチをつければ、TVはつく。しかしなぜTVがつくのかは、われわれは理解する必要がない。それはただ機能しかなく、スイッチをつければ、TVがつくそれだけである。

私が理解できることは、しれている。だから専門家に頼るわけである。しかし専門家のもつ科学的技術がどれほど正しいか、私は判断できない。だから信頼し、問題を預けるしかない。呪術師より医者が実績をあげているという事実により、人は医者を信仰するというわけだ。だから実力があっても、素行が悪ければ問題である。犯罪をすることはもっての他であるが、道徳的に尊敬できない「先生」などは信用できない。「先生」は小さな神であってほしいのである。