ポピュラーミュージックはなぜ愛を歌うのか

芸術の余剰回収


誰かを好きになることは、言葉で言いつくせいない(言語意味に還元されない)。恋愛とは言語意味に還元されない「余剰」が価値を持つ世界である。「こういう理由で好きになった」と、語り尽くされてしまうとそれはもはや恋愛とは呼べない。「運命の人」「恋の魔法」「ハニー」という"さぶいぼ"がでそうな超越論的シニフィアンに余剰は回収される。

このような溢れる余剰はそれだけではおさまらず、言語の社会的に共有されたコンスタティブ(事実叙述的)な意味を越えて、創造的にシニフィアンを生み出し続ける。「みーたん」「じゅんじゅん」「ねこたん」。最近では携帯メールになるのだろうが、恋人たちのメール文のコンスタティブ意味には、「意味がなく」、ただ余剰を交換しあうことを目的としていると言えるだろう。「なにしてんの?(^0^)」「よしよし。(・・)\(^0^)」。。(これら例はフィクションであり、決してボクの体験談ではありませんよ。)

このような創造の延長線上に芸術はあるのではないだろうか。音楽、絵画、詩など芸術は、言語化できない余剰を他者に伝えようとする表現方法である。言語表現に比べて、様々な余剰をまったくよく吸収する。喜び、悲しみ、怒り、愛情、性欲・・・



芸術の快感

ニーチェは、ニヒリズムを乗り越える方法として、芸術を上げた。善という道徳観が後天的に捏造されたルサンチマンであるのに対して、美は生の力であるからだ。美しいと感じることは(多分に後天的であるが)、人の根元的な先天性であり、私の内面からわき上がってくる「力への意思」として見た。そして芸術はそのような余剰を表現する方法とみたのである。

たとえば、音楽の快感とはなんだろうか。われわれは会話の達人である。だから将棋の達人の如く、会話の流れをかなり先まで予期している。話の流れとして、一つのストーリーとして予期しながら相手を誘導しあう。相手は必ずしも予期した通りに話さないかもしれないが、そうすればストーリーは調整される。しかし多くにおいて、ある発話に対しては、その返答の内容、あるいは傾向は限定されるものである。それは多くにおいて相互行為という儀礼的なものであり、発話はまったくの自由な行為ではない。

たとえば笑いはこのような予期が極端に裏切られることにより起こる。予期の裏切りへの緊張から再び予期の流れへの緩和という落差に笑いは生まれる。親父ギャグがつまらないのはその裏切りがすでに、予期のうちに入っているからだろう。

音楽の心地良さはこのような予期と裏切りのバランスにある。人がやすらぐのは1/fゆらぎと言われ、予期できる反復と裏切りの周期の割合が半々だと言われている。人は音楽を聞くときにも、予期をおこなっているが、言語の予期への拘束よりも、音楽の拘束は自由度が高い。たとえは言語も詩的になれば自由度がまし、予期するのがむずかしい。

音楽が人へ与える快感はこれだけではないだろう。そこには生理に根ざした力があるだろう。



芸術の間主観性

芸術作品は、言語のように他者へ「正確に」意味を伝達することができない。芸術作品に感じることはまったくもって主観的なものである。しかしおもしろいのは、意味伝達において「正確さ」にかけるはずの芸術表現が、言語表現よりもコミュニティとしての結束力を高める作用があるように見えることである。この結束力は、芸術作品に回収された余剰が、ニーチェがいうように人の根元的なものである故に、人々が共感することができるということであり、主観的というよりも間主観的に働くということだろうか。

たとえばそれは、ベンヤミンのいうアウラにもつながるだろう。かつて芸術作品は、さまざまな余剰を「神への愛」という形で表す崇高な行為であった。そしてその作品をみた人々の感動も「神」というシニフィアン1点に回収されたのである。それがベンヤミンが芸術作品の礼拝的価値と呼ぶものである。それは複写技術がない時代には、作品の唯一性が「神」という唯一性と結びついてアウラを高めたのである。

芸術作品は言語では交換されないような余剰を間主観的に共感し、コミュニティが「一丸」となる。それが「神」という一つの対象へ向かうのである。芸術作品が、宗教の集客装置として働くことは、原始宗教から、現代の新興宗教までみられる。さらに現代のコンサートも同様に宗教的である。また芸術に関しては、カリスマ、神、教祖など神性な言葉がよく使われる。

それでも、本当に同じ余剰を共感しているどうかではなく、同じ余剰を感じているように感じられれば良いのである。



消費される芸術作品

ベンヤミンは複写技術時代には芸術作品の礼拝的な価値は失われ、展示的価値に変わるといった。現代の芸術作品は、もはや神への愛のためだけに作られるものではなく、複写技術によって大衆に配られる商品として、大衆のために作成されるようになったということではないだろうか。大衆を楽しませるために制作されるポピュラーミュージックは消費される商品である。

よく言われることだが、現代のような恋愛形態、恋の駆け引き、カップル像は比較的最近のものである。日本ではトレンディドラマが登場して、一般化してきたといえる。それは「若者」という商品からの延長線上に考えることができる。「若者」は、アメリカで戦後、大衆消費時代の発明品である。その前までは、子供は、直接大人にあったのである。ポピュラーミージックも、「若者」「恋愛」という商品のBGMと発展したきた。

たとえば、みなで踊り、歌い、さわぐ。大人になって、社会的な場でこのような情動的行為はをする場はなかなかない。われわれは儀礼的世界に生きている。予期からの逸脱は儀礼から反する行為である。それ故に、現代において、音楽は予期の逸脱が許された「予期の逸脱が予期された場」として消費される。



音楽は、作り手が余剰を歌に込め、聞き手はその歌を聴いてその余剰に共感する。言語によっては共感できないような余剰を交換されたと感じたときに、人は喜びを感じるのである。たとえば失恋すると悲しみが溢れてくる。悲しい歌はすでにかつての誰かの悲しみの記録である。そして悲しい歌を聞くことによって悲しみを共有したように感じるのである。

しかし現代の消費におけるポピュラーミュージックの意味は、もう少し複雑かもしれない。それは歌の悲しみと私の悲しみの共感関係だけでなく、共感関係と私の関係として現れる。すなわち「悲しい歌を聞いて悲しんでいる私」を見る私である。たとえばテレビドラマで見た悲しいヒロインのように悲しむ私を演じるということである。

恋愛の歌を聴くことによって、誰かを好きだという余剰を回収するだけではない。それは、恋愛の歌を聴くことによって、「恋愛」という商品を消費するのである。それを聞くことによって、ドラマでみたような「恋愛」をしているように感じる。また必ずしも恋人がいなくても、それを聞くことによって、ドラマでみたような「恋愛」を想像するのである。それはドラマのような「恋愛」という記号コミュニティへの帰属を捏造することである。



現代の消費においては、恋愛とはそのようなドラマの登場人物を演じることにある。相手を好きになるという本来の目的が、恋愛をすること自体が目的化される。だから、恋愛コミュニティへ帰属したいがために、かならずしも好きでもない恋人とつきあう。恋人は恋愛コミュニティへ帰属するためのパスポートである。現代のデートスポットは、そのようなドラマのような、娯楽商品としての恋愛を売るように演出されている。そして、ちまたに溢れる恋愛の歌は、そのようなドラマの挿入歌である。

現代におけるSEXも同様な意味をもつ。恋人と抱き合いたいのでなく、SEXをすることが目的化する。SEXを目的化するとは、「SEXするだけが目的」ということではなく、男性なら、AVのようなSEXを自分がしている自分に喜びを感じるのであり、「SEX」という記号コミュニティへ帰属することである。

かつては、余剰は、宗教によって捏造された神に回収されたように、現代は消費によって捏造される記号コミュニティへ回収されるのである。そこではいつも芸術が用いられる。現代では、余剰を多く生む場が恋愛であり、大量生産される芸術がポピュラーミュージックである。

ボクの場合ですか?ボクは人類が創造したもので、もっともすばらしいものは音楽だと思っていますし、まったくの純愛派なので、カノジョがかわいい服を着ている日の方が腰の振る回数が増える!なってことは決してありません。はい・・・