女子高生のスカートはなぜ短いのか


現代において、女子高生は高校に入るから、「女子高生」になるのではなく、制服のスカートを短くすることによって「女子高生」になる。高校に入るとは社会的なコミュニティへの帰属であるが、制服のスカートを短くするとは、「女子高生」という記号コミュニティへの帰属を意味する。ここでは私服よりも制服の方が性的であるということから、性的に見られたいわけではないが、ミニスカートをはいてしまうということがあるのかもしれない。そのような行為は、「女子高生」という記号コミュニティ内の差異化運動として行われている。いわば、コミュニティ内の競争原理である。



かわいい女性を見ることは、まったくもって「喜ばしい」ことである。あの喜ばしさはどこからくるのだろうか。簡単には性欲がちょっと満たされるということになるのだろうか。ゴフマンによるわれわれは儀礼的無関心の世界で生きているということだ。沈黙の世界にも他者とのコミュニケーションが成立しており、それが場の秩序を維持しようとしている、ということである。

このような沈黙の場においても、性関係の力学は働いている。それは儀礼的無関心世界に内在する一つの力です。仮にそれを儀礼的"性"関心」と呼べば、街の中で異性がすれ違う瞬間に、男性はかわいい女性を「捜している」。それは「捜す」いうには、あまりに受動的な行為であるかもしれないが、見つけてみることで、小さな「喜び」を得る。

しかしこれは単なるのぞき見ではない。一つにはそれは女性に意識されることを望んでいる。こちらが見ていることを、相手にも気づいて欲しい、こちらを認識していほしい、ということである。そこに相手が気づき、その中に「小さな好意」を見つけることを目的としている。



これは、ナンパの次元との違う。ナンパは、まったくもってリスクな高い行為である。それが多くにおいて、拒絶される苦痛を味あう。このために、まずナンパに必要とされる能力は、うまく女性を誘う能力ではなく、「ナンパされることを求めている」女性を捜す能力ではないだろうか。「ナンパされることを求める」とは、ナンパに対して心を開いている(俗にいう隙がある)ということである。かつて、気まぐれに?終電間近の混雑の中で、通勤上の女性をナンパするという暴挙にでた友人がいたが、当然のごとく簡単に玉砕された。さらには頭のおかしい人と思われたかもしれない。コンテクストから離れたナンパは、まったくもって無謀で、危険な行為としか言いようがない。

それに比べて、儀礼的性関心」は、コンテクストには、あまり依存しない。朝夕の通勤上だろうが、関係ない。たとえば、電車の乗り込むと、人は場を確認する。その場の確認の中に、女性のチェックを行っている。かわいい女性が目にとまると、その女性を意識する。そして、それは見つからないようにのぞき見るのではなく、その女性に自己が認識され、その中に「小さな好意」を見いだすのである。

それは、好意をもった人に承認される好意であり、自己の「性関係に関する魅力」を確認する行為だろう。そしてこのような他者による暗黙の承認好意は、性的関係以外でもみられる。自分が好意をもつ同姓、尊敬する人に認識してもらうことは、一つの喜びである。これは一つの自己形成行為といえるかもしれない。



儀礼的性関心」にはそれ以上の行動性はない。たとえば女性に無理に近づくとか、話しかけるというような接触は、儀礼的無関心を越えたものである。儀礼的無関心は、電車の中などで、人がその場を秩序を崩さないように、お互いに関心を持たないような振りをすることである。そこには、人は他者に関心があることの、裏面である。儀礼的性関心」は、儀礼的無関心をちょっとだけ越えた世界であり、そして儀礼的無関心という秩序を崩さない程度に行われる。

女性は見られる側で、男性は見る側という傾向はあるだろう。特に女性はたえず男性の目にさらされている。数年前に中国にいったときに、電車の各車両に接待係、兼切符きとして若い女性が乗っていた。かわいい子であったが、そこには「儀礼的性関心」はなかった。それは仕事をしているからとか、こちらがいやだからとか、そういう次元では、「儀礼的性関心」そのものがなかったように思う。彼女はまったくの「素」であり、無表情なのである。「儀礼的性関心」には各国の文化的な傾向が含まれている。そして日本は「わかりあえる」という文化であり、「儀礼的関心」という暗黙の秩序に敏感な国かもしれない。


たとえば女性が成長する中で、ある時期からこのような儀礼的性関心」の場に入っていく。男性から性的な関心をもって見られていることを意識するようになる。それは中高生頃ということになるのだろう。そういう意味では、女性高生の性的魅力を強調する身なり(色気づく?)は、そのような儀礼的性関心」の場へ入っていることのサインであるともいえる。

なんの変哲もない価値なはずの自分の容姿に、多くの男性が関心を寄せるという事実に驚きを感じるのではないだろうか。それは、儀礼的性関心」の場へ入ったことを意識する。それは、情報としては知っていたかもしれない。男性は女性好きについて過剰に語るが、自分がその対象になったことの、驚き、喜びがあるのではないだろうか。そしてそこにある可能性、自分はどれだけ男性に欲望される対象であるのかということへの興味はあるとだろう。このような中で自己の性的な魅力を確認していくのではないだろうか。女子高生のミニスカートは、そのような儀礼的性関心」の場へ入る「儀式」であるのかもしれない。


「女子高生」という記号は、女子高生の中で閉じていない。たとえば、ボクは10代の姿にアニミズム的な傾向をみる。社会的に管理されることから、イビツにはみ出た、性的で、暴力的で、発散的な沈黙の自己主張。このような「力への意志」は、現代の管理社会では貴重なものであり、欲望される対象である。そのために「女子高生」は女子高生によってつくられるわけではなく、社会文化が反映された創発的に生み出される現代を象徴する記号の一つではないだろうか。