人はなぜ繋がりたいのか?

「ブログ」記号コミュニティ

ブログは一つのコミュニティを形成してる。それはそもそもブログとはそのようにできている。どこかのブログであることを話題にする。それを見た他のブログでそれについて言及する。そのときトラックバックとして、話題にしたことを元のブログに送る。このような意味ではブログコミュニティはひとつの大きな掲示板のようなコミュニティを形成することになる。

そして最近の傾向では、ただはやりの記事のリンクを収集し、自分のブログに乗せることを目的とするブログが多くみられる。そこにあるのは、このようなブログコミュニティへの継続した帰属である。伝えたいから、ブログがあるのではなく、ブログの継続が目的化するのである。それはコミュニティへ参加しつづけることが目的化するのである。ブログを持っていることが「ブログ」記号コミュニティへのパスポートである。リンクを収集しつづけることによってコミュニティへ帰属しつづけるのである。

人はそうそう書くことなどない。自分の日々のことを印すにしても、匿名性の中では限界がある。さらには特殊な日常でないかぎり、そんなものだれも読みたいとは思わない。継続の方法の一つが、リンクを集めることとなる。リンクを集めること、新しい情報の収集が目的化する。多量な時間を割いて、精力的に情報を集め、時間を割けないブロガーに情報を効率的に共有する人気ブログ群があり、それを二次的に収集して継続するブログがある。そこにはアクセス数という価値を交換するシステムとしてのブログコミュニティがある。



コミュニケーションツールの発展と欲望の加速化

2ちゃんねるも同様に、伝えたい内容があるからレスするわけではなく、コミュニケーションそのものが目的化しているとよくいわれる。このようななにかを伝えたくてコミュニケーションするのではなく、コミュニケーションそのものが目的化することは、携帯電話、メールなどにも見られる。現代のコミュニケーションの一般的傾向である。

なぜ人はこれほどコミュニケーションをもとめるのか。コミュニケーションツールの発展は、伝達の利便性の向上である。利便性の向上は現代において科学技術の向上である。伝達内容を迅速に、正確に伝えようとする目的のもとに発展してきた。しかしこのようなコミュニケーションツールの発展が欲望の加速化させている面がある。利便性の向上によって、不満、不安が開拓されるのである。

たとえば、携帯電話は、携帯電話を持つことが、記号コミュニティへのパスポートとなっている。伝えたいことがあるわけでなくとも、コミュニケーションすることが目的化している。そして絶えず、つながっていなければ、記号コミュニティから取り残されるのではないか、という強迫観念を生む。

ブログにも同じ構造がある。ブログにおいては、パーソナルに発信することの可能性が広がることによって、発信しなければならない、不安が増幅するのである。日々ブログコミュニティ内の新しい情報を入手し、自分のブログを更新しし続けなければ、ブログ記号コミュニティから取り残される。ここにあるのは、相対的な価値観である。みなが、発信している中で、取り残されたくないということであり、記号コミュニティへ帰属し続けることへの強迫観念である。さらには、マニアであったり、オタクであったり、熱中するときには、記号コミュニティが捏造されている。それは根元には、繋がっていたい。コミュニティへ参加し続けたい、ということがある。

これは単に「人は寂しい動物」ということではない。それは、自分とはなんであるのか、ということである。自分とは、コミュニティに帰属し、その位置によって確立される。だから自分が自分であるためには、このような記号コミュニティへ帰属し続けなければならない。そしてテクノロジーの加速的な発展が、そのような欲望を加速させているのである。そしてその先にあるのが、「見られたい人」に見られたいということだ。それはコミュニティに帰属し、私がなにものであるかとということを、より複雑に、詳細に私のコミュニティ内の位置を相対化する他者である。



コミュニケーションの彼岸

コミュニケーションツールの発展は、遠くの人とも、リアルタイムでコミュニケーションを可能にした。しかしこのようなコミュニケーションの利便性の反面、現前の他者とのコミュニケーションは、希薄になりつつある。おもしろいのは、なぜ現前の隣人ではいけないのか、ということである。なぜテクノロジーの発達によって可能になった「遠くの隣人」につながりを求めるのか。

それはコミュニケーションがそもそも、見られたい人という超越的存在を捏造する構造を持っているからである。だからコミュニケーションツールの発展による、コミュニケーション範囲の拡大は、見られたい人の可能性を増大させるのである。より他者の情報が欠乏した状況ほど、「見られたい人」が存在するような錯覚を生み出しやすい。だからコミュニケーションツールの発展は、(私が)見られたい人の可能性を広げるように働く。すなわち欲望を加速化させる。わたしが一番憂うのは、本来、見られたい人としてもっとも機能するはずの我が子でさえ、満足できないという状況です。我が子幼児虐待とはいかなる自体か…

たとえばこれは神を捏造する構造に似ている。日常の不安への反動として、日常を越えた超越性に真実を求めるということであるが、神へのコミュニケーションは、信じる人にとっては確実なものであるが、また限りなく遠く、情報を欠いた他者である。現代、「神が死んだ」あとには、コミュニケーションツールの発展は、見られたい人を捏造するツールとして発展し、欲望を加速させているのである。

ボクですか?携帯メールは一日50通近くする寂しん坊です・・・