デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか

ipod




iPodゲッツ!

iPod(http://www.apple.co.jp/ipod/index.html)購入しました!MDウォークマンがつぶれてから、昔買ったCDウォークマンを持ち歩いていた。ポケットに入らないし、カバンからコードを垂らすというたいへんややこしい生活を送っていたが、それともおさらばである。来週にもiPod miniが発売されるらしいが、どこも予約でいっぱいみたいで、いまから予約してもいつ手にはいるかわからないとのことで、iPod購入することにした。なかなか使い心地もよく早くもCD5枚分を入れて聞いてみた。

ボクはあまり衝動買いというのが少なく、買う前には無駄にならないか考えて買うほうであるが、消費とはまったくもって楽しいものである。音楽を聴くことが本来の機能であるが、それはそれとして、お気に入りの音楽を入れて、いろいろメニューを端から端までさわり、カスタマイズし、「覚え込ませて」いくのである。また2ちゃんねるiPodスレを眺めて、「仲間たち」の談笑に参加できていること、同じように楽しんでいることを確認して、にやにやするのである。



身体的同一性/(意識)/コミュニティ同一性

生命は身体的同一性とコミュニティ同一性という両義的指向をもつ存在である。身体同一性は身体の秩序を維持する指向性であり、コミュニティ同一性とは身体が属する他者を含むコミュニティ及び環境秩序を維持する指向性である。

人への進化過程は、身体的同一性を向上させてきた。すなわち環境にに依存せずに身体秩序を保つという自己完結性へむかっているのである。この向上する身体同一性とコミュニティ同一性の間で生じる歪みに現れたのが、「コミュニケーションとしての意識」である。「コミュニケーションとしての意識」とは、情報へのアクセスであり、つまり世界を認識すること、すなわち意味世界へのアクセスである。それはただ指向するという身体的、生理的行為に対して、まず世界を意味としてとらえ(認識し)、そしてその意味に対応し行為することである。



自己同一性/記号コミュニティ

ここで重要なことは意味とはかならずコミュニティとしての意味であるということである。すなわちコミュニケーションとしての意識とは、コミュニティ同一性を補完するのである。世界を意味として共有すること、身体を間主観的世界に留めることである。そして人において、それは自己同一性として現れる。自己同一性とは「私が私である」ということであり、私とは意味世界の中の身体であり、コミュニティに共有された、あるいは承認された身体である。そして意味は言語表記(シニフィアン)にによって伝達される。

人は高い身体同一性故に、自己同一性により身体同一性/コミュニティ同一性のバランスをとるのである。しかしそこにはある種の不安定感が存在する。意味というバランス機構による個体とコミュニティ間のコミュニケーションは間接的である故に、共有されない余剰が生まれ続けるのである。

意味世界では、余剰は言語(シニフィアン)へ回収され伝達されるが、そこではたえずわかった「ふり」、共有した「ふり」をする必要がある。なぜなら、共有されなければ私の意味がコミュニティから承認されることが、不可能になり、私の意味はいつまでも中ずりになるからである。だからそれは「ふり」を越えて信仰されるのである。本当に共有したように超越的次元として捏造される。意味にはいつも「ふり」を含んでいる。宗教、イデオロギー、道徳、文化など、共有された「ふり」の超越的次元を含んだ意味であり、その意味を理解し、同意したように信仰されるのである。それは私に根ざした、コミュニティに根ざしたものであるからだ。

間主観的意味世界の中での「ふり」は、記号コミュニティへの帰属として現れる。記号コミュニティは、主体が帰属意識によって支えられる象徴的コミュニティである。そして記号コミュニティへの帰属には、パスポートとしてのシニフィアンが必要とされる。女子高生の短いスカート、ブロガーのブログ、東オタの波状論契約、仏教のナミアミダブツ、中流階級の新三種の神器などなど。人は記号コミュニティへの多重の帰属により自己同一性を維持する。逆にいえば消費の喜びとはシニフィアンの獲得、記号コミュニティへ帰属するためのパスポートの獲得であり、継続した帰属であり、「自己同一性」の新陳代謝である。他者による継続した私の承認である。



インテリジェンス商品の消費

ボードリアールは記号消費社会では、製品そのものの機能価値を越えた社会的な記号意味を消費している、象徴交換しているといった。たとえば冷蔵庫はものを冷やし保存する機能として買われるのであるが、それだけでは還元できないデザインなどの様々な社会的なイメージにより消費されるというわけである。これは、ボクが言うところの記号コミュニティへ帰属するためのパスポートの獲得である。

しかし現代はさらに進展しているのかもしれない。たとえばPCの本来の機能とはなんだろう。PCにはじまる最近のデジタル製品は、インテリジェンスという新たな価値をもっている。そもそもにおいて、製品の機能以上のインテリジェンスを持ち得ている。インテリジェンは単純な意味に還元されない。そこには完結しない成長性がある。

たとえば人間は一つの機械であるという機械論を根深く支えているのは、機械が人の機能の拡張として発展していることからくる。車は人の足−移動の拡張であり、電話は声−伝達の拡張である。機械は人の延長線にあるということは、逆にさかのぼれば、人が機械でるが故に、それを拡張して機械が発展するのである。そしてPCはひとの頭脳の拡張である。

人のインテリジェンスとは、生命に内在する先天的な(遺伝子命令)情報と行為の直結的な関係の間に生まれた「柔軟性」である。PCはそのような人の「柔軟性」を拡張するのである。それ故に、従来の機械よりも、より人を投影する。それは私の意味を、記号コミュニティの他者によって承認してもらうことから、機械そのものに承認してもらう可能性を示しているのかもしれない。そこには投影させることの快楽がある。そしてSF的に、PCに人の人格をすべて移植するという神話につながる



自己投影の二重化

消費は、記号コミュニティへのパスポートとして消費される。購入したシニフィアンは、記号コミュニティへのコミュニケーションであり。他者による自己の承認の捏造である。それにはシニフィアンを介した他者と主体の鏡像関係が成立している(ように見せている)という象徴的交換関係がある。たとえば、子供がぬいぐるみを大事にするのは、記号コミュニティへの帰属であるとともに、ぬいぐるみというシニフィアンに自己を投影しているということである。

しかしインテリジェンスな商品は(象徴的ではなく)技術的な柔軟性によって、主体を投影する機能がある。具現的に主体だけにカスタマイズされるのである。購入時は初期化されている商品は、主体が操作することによって、主体だけの「形」になるのである。

ここでは二重に自己投影されている。ひとつは購入することによって、記号コミュニティへ帰属するという意味での投影、これはボードリアールの象徴的な交換である、そして二つ目は具現的に自分だけにカスタマイズされるという意味での自己投影である。そして消費という記号コミュニティとのコミュニケーションと、インテリジェンス商品とのコミュニケションという二重性である。



ボクと商品の完結した世界

インテリジェンス商品とのコミュニケーションとは、シニフィアンそのものが技術的に他者となることであり、ここには、主体と商品との自己完結的な関係性がある。それは、現在では(インテリジェンスな)コンピューターゲームを消費することがもっとも近いのかもしれない。今後は、人工知能の世界であるのかもしれない。

これは、人の身体的同一性を高める方向に向かっている。意味世界は主体とインテリジェンス商品とのコミュニケーションで完結してしまう世界である。ここでは象徴的な記号コミュニティの捏造も希薄になっていくのだろうか。ボクたちは他者を、「ボードリアールの時代」のように象徴的な存在として捏造するのでではなく、技術的に捏造する世界に入っているのだろうか。

しかしまだ過渡期である。現代はコミュニケーションの時代である。携帯、インターネット。ボクたちはまだ(技術的な)バーチャルな世界のリアリティに満足していない。(象徴的な)神話の世界を指向している。しかしそれも時間の問題?・・・